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2006/06/15(木)10:54

『花よりもなほ』

日本映画(81)

おもしろかった。 そしてけちのつけようがないくらい全体のバランスがよかった。 『花よりもなほ』公式サイト 岡田准一いい男だね。男前で。私もあんな美少年の息子欲しいなあ。彼氏と思わないところがみそです。道場のあととり息子のはずなのに剣術がさっぱりだめで、それなのに父親の敵討ちしなきゃならなくて、でも、やっぱり決断できなくて、そのあたりの微妙の気持ちがとてもよく伝わってきました。 あとは武士の未亡人役の宮沢りえちゃんもよかった。貧乏長屋に住んでるんだから、やっぱあのくらいやせてないとね。でも、やせてて、ほそいけれど、貧乏暮らしをしているけれど、それでも、武家の妻としての品格があって、にもかかわらず、貧乏人ばかりの長屋の中で浮いてなくてなじんでて、そのあたりすごく上手かった。 当時の『敵討ち』ってところがお話のテーマなんだけど、主人公は剣術も下手だし、第一自分自身はあんまりうらみとか怨恨とか抱えていないんですよね。本来は肉親を殺されて悔しい。そういう恨みの情をずーっとひきづりながら、あだ討ちをするわけなんだけど、この主人公は死に際の父親にあだ討ちしてくれるように言われて、どっちかっていうとしかたなくアダウチをしようとしている。見てるとどうも本人自身はそれほどやりたくないみたいだし、それほど恨みをかかえている様子もない。この当時の社会通念として、長男としてやむを得ずという状況になっていて、本人としてはどうしたものかなあと思ってるみたい。しかも父親とはそれほど愛情のある親子関係でもなかったみたいなのでなおさら。状況としてやらざるをえないけれど、自分としてはそんなに乗り気じゃないし、じゃどうすればいいのかなあと悩んでいくのですね。 その一方で、やはり夫を殺されあだ討ちをしなければならないはずの、未亡人の宮沢りえちゃん演じるところのおさえは、もうアダウチをすることに疑問を持ち始めている。アダウチをするためには恨みをもちつづけなければならないし、でも、どんな感情だって時間がたつと薄れていくもの。その感情を薄れさせないように維持していくというのは、どうしてどうして大変なんじゃないかと思うのですけどね。そんな感情の維持と恨みの感情を維持させるためにエネルギーを使い人生の時間を埋めていくことにおさえは、むなしさを感じ始めている。 だから、いつまでも、アダウチにこだわってうらみつらみを維持していくよりもその感情をもっと別の意味のあるものに変えていきたいと彼女は言う。 敵を見つけて、けれど、敵の相手の日常を見ているとどうしても、それをぶつ壊すようなことをする気になれない主人公の青木宗左衛門は、偽装芝居をすることで自分のアダウチに決着をつけます。 アダウチを否定すると言うのは当時の時代の価値観ではありえないことなので、主人公達にするとコペルニクス的転換だったのじゃないのかなと思うんだけど、これは現代人が現代の価値観で、その価値観の変容を、江戸時代という設定を使って描いているものなので、なんと申しますか。 おりしも時代は元禄。このあと、まさに赤穂浪士の討ち入りがあるんだけど、長屋の人たちに言わせれば、そしてこれはまさに監督自身の言葉なんだろうけれど、「とっくに引退、隠居したじいさんの寝込みを襲うようなせこいこと」に過ぎない。 そのせこいことが、当時のマスコミによって美化されてしまったということだ。 赤穂浪士の話自体は、当時のお芝居に取り上げられ、そのシナリオのおかげで徹底的に吉良上野介は悪者という描かれ方をしてしまった。そのために、吉良が悪者扱いされてしまっているけれど、実際にはそれほど悪いやつでもなかったと言う説もあるわけで、芝居小屋って言うのは当時のマスコミそのものなんですね。マスコミってのは真実とは別のところで審議を決定しちゃうような怖いところがあるのはいつの時代も同じですねえと思うんだけどね。 それで、自分のアダウチにけりをつけたそのすぐ後に赤穂浪士の討ち入り事件でアダウチの価値がたかまっちっゃたりして、どうする主人公、とか思ったんだけど、たったひとり、プライドのために死ぬことよりもわが子に生き方を教えたいがために討ち入りに参加しなかった浪士が一人だけいて、アダウチなんかよりも、もっと未来のこと考えなさいよというメッセージなんでしょうね。 主人公宗左衛門のアダウチは敵の子供のちょっとした行動から、変化していく。まさに閉鎖された空間の中の呪いの感情は、全く新しい存在によって解放されるという結末なのである。 そこには「許し」というものがあって、でも、普通はなかなかわかっちゃいても出来ないことです。恨みを許しに変えると言う事は。 ところでこの話に出てくる長屋がすっごーく汚いんだよね。今までの時代劇の比じゃないんですよね。 すごく汚い。ほんとにこんなとこ住んでるんですかというくらい汚い。今にも壊れそうなんだよね。実際話の中で大家さんは改築計画立ててるしね。そんでもって、この長屋に住んでる人たちも汚い。多分みんな着る物は一枚しかなくて、しかもほとんど洗濯なんかしない着たきりすずめなんだろうね。だって主人公からして汚いもの。それでもね、おさえさんなんかはまだきれいな格好してまして。だんなもいない未亡人がどんな収入で暮らしてるんだろうかとすごい不思議だったんだけどね。 ただ私は現代日本の異常なまでの清潔志向が嫌いでして。だから、この映画の中で長屋の人たちのスペシャルな汚さがかえって気持ちよかった。現代社会は異様にきれい好きで、ちっょとでもきたない格好しようものなら、大変でして。あるいはつぎはぎの服なんてイマドキありえないし、アイロンもかかってないだけでも、裏でどんなこと言われるかわからないような今のご時世が私はきらいでして、傲慢だなあと思うのです。いつも。 そして南米とか、今の先進国以外の国は今でも、この長屋のような暮らしの人たちがたくさんいるのに、ちっょと靴下に穴の開いてるのでも発見されようものなら、なんといわれるかわかったもんじゃないような現代日本の傲慢さが嫌いなんですよね。わずか数百年前は日本だってこんな暮らししてたんだよね。そういうこと忘れすぎてませんか。 で、この長屋の汚さが今までにないほどリアルでよかったんだけど、これはほんとにリアルなのか、リアルに見えるように描かれたリアルっぽくみえる表現に過ぎないものなのか。 監督によると、911事件がこの話を書くポイントだったそうですけどね。 恨み、怒りの連鎖は断ち切ることは出来るのだろうか。と、 監督は問うているわけです。 最初はちょっとした意識のずれに過ぎないものが、感情の応酬の繰り返しによってどんどん増幅されていく。その増えすぎた感情は、いったいどこでどうやって断ち切ればいいのか。 腹が立つからやり返す、自分の身を守る。 でも、そんなことどうでもいいじゃん、そんなことよりもっと別のことに夢中になろうよ、と主人公にそして、観客に問いかけるのは、おさえという女性です。新しい命を生み出すことの出来る女性だからこそ言える言葉なのでしょうか。 けれど、かたきの子供に手習いを教えたいと考えるに至った宗左衛門の心の中にもまた、生命とは別の、さらに新しいものを生み出すことの出来る何かが、芽生え始めていたのでしょうか。 花よりも なほ 美しき その 心かな                 日本映画、邦画

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