ふつうの生活 ふつうのパラダイス

2006/09/13(水)17:56

『時をかける少女』アニメ版★その2

映画★アニメ(24)

『時かけ』といえばふつー大体思い出すのは原田知世主演のやつだようです。 二十年以上前のですね。 注☆ネタバレあります。たぶん。 でも、私はもーっとずっと前にNHKでやった『タイムトラベラー』が基準点です。 『原田時かけ』の時も、「あ、タイムトラベラーのやつだ」と思った。 確か吉沢京子主演で、その当時はまだSF自体がきわものだったので、だから、民放だとそう気楽にSF番組なんて作ってない、そんな時代に、あんな先鋭のドラマ作ってたんですよね。 NHKって普段評判悪いけど、時々民放じゃ作れないようないいもの作ってくれるんですよね。『プロジェクトX』とか、『その時歴史が動いた』とか。 それで、その当時もまだまだこれからの、日本のSF小説をテレビドラマ化してくれてて、『ねらわれた学園』とかね。いろいろ。 「タイムトラベラー』は連続ドラマだから、一回こっきりじゃない。そういうやつを、さらにばらばらに見てまして、通して見てないから話の筋もよくわかんないままでした。 その当時はまして、今みたいにハーブなんて流行ってないですから、「ラベンダー」ってだけですごく不思議。なにそれーということですね。まだ、見たこともかいだこともなかったんだもの。いまでも、ハーブの中で「ラベンダー」が一番人気なのってそのあたりが原点かもね。 そののち原田知世の『時かけ』が作られましたね。主演の二人があれだけ演技下手だったのに、名作としていまだに語り伝えられるあたり、やっはし監督の力量なんでしょうかね。 年だから昔話が多いなあ。 最近は、毎度、映画見るたびに原作と違うじゃんと思って不愉快だったんですが、今回は原作とはかなり変えてあって、オリジナルストーリーだったにもかかわらず、よかったです。 この原作自体がすでに散々映画化ドラマ化されていることもありますが、今回の作品は、オリジナルストーリーではあっても、基本の部分はちゃんと原作の線を守っていたというのもあるからでしょうか。 それでもってこのシナリオが非常によくできていたというのが一番です。「アニメって絵さえよければいいってもんじゃないんだ」と言うのを『銀色の髪のアギト』を見てつくづく思いましたけど、今回の『時かけ』は、絵もすごくいいし、シナリオもすごくよかった。ストーリー上なんどもタイムリープをするんで、結構複雑なはずなんだけど、違和感なくすんなりわかりやすい。そうそうそう。こういう映画、見るだけで全部ちゃんとわかる映画。こういうの待ってたんですね。映画ってわかりにくいのが多くてね。 それにしても、主人公が信じられないくらいものすごく明るい。 漫画本来の原点に返ったような話です。最近はねちねち悩んでるような主人公の話にうんざりぎみでしたからね。昔はこういう明るーい子が主人公ってのが普通だったんだけどね。 そんでもって主人公がよく動く。ちゃんとヒロインが活躍してるし、自分の意思で行動してるし、自分の頭で考えてる。少女漫画を描こうとすると、大体どんなに絵がうまくて、話がよくてもヒロインがちゃんと活躍してないと、「主人公がなんもしてないからダメです」って、編集者に言われるんだよね。今回の「時かけ」はそういう少女漫画の本筋をきちんと守ってます。 考えてみれば原田の『時かけ』はヒロインなんにもしてないなあ。せいぜい時間を跳んで、好きな彼氏のところに行くくらい。 同じ話でも、こんなにヒロイン動かせるものだったんですねえ。 いやしかし真琴は、この状況で悩まないし、戸惑わないし、がんがんタイムリープしちゃうし。 泣く時は人目も気にせず、ワンワン泣いて見せるし。 とにかく自分の感情を表に出すことに戸惑いがない。 戦後アメリカナイズすることに夢中だった日本ですけど。 結局アメリカナイズの究極ってこういうのでしょうか。 で、実際にはシャイな日本人にはそんなの無理だから、心身症とか、うつとか、引きこもりとか、結局目指すものと逆の方向に行っちゃったりする。無理しないほうがいいと思いますけど。 ほんとにこんなに明るい子っているのかなあ。 でも、だんだん世代が変わっていくとこんなタイプの子が出てくるんでしょうかね。 この映画説教くさいセリフぜんぜんないわりに、結構訴えること、語っていること多い。 見終わって「うん、そうそう」って言うものがすごく多い。 だから、それをわざわざ文章にするのはやめとこっかなーとう言うくらい見ればわかります。ふつーの人間なら。って言うくらい、いい映画です。作品としての完成度がすごく高い。評判いいの無理ないです。そして、そういうテーマさぐりなん無視して単純に楽しんで見て、もうそれで十分といえましょう。 ただ、主人公が高校生なので、大人にはいまさらって部分あるし、じゃ当の高校生はこれ見るのかなっていいますか、これ見るくらいなら、ほかの普通の実写の映画選んじゃいそう。そのあたりがこの手のアニメ映画の問題点なんでしょうね。 お子様映画はうんざりだけど、アニメであんまりねちねちした話も見たくないな。 原田知世の『時かけ』は未来で深町君と再会できたみたいなフリがラストにあったけど、今回の映画に出てくる和子さんは、結局深町君に再会できてそうにない。とすると、真琴ははたして、将来千昭に会えるのか。千昭のいる未来は、とてもじゃないけど、真琴がいる今から数十年程度の未来じゃなくて、もっとずっとはるかな未来に思えるんですけど。だとしたら、作品のラストで語られる「未来でまってる」という言葉は、一見とても明るい未来へと誘うハッピーエンドに思えるけど、実をいうと千昭のいる未来はすごく暗くて悲惨で行き詰ってるんですよねえ。『ハウルの動く城』にでてくる「未来でまってて」の言葉は、実際未来でちゃんと再会して、二人は恋人同士になるけれど、『時かけ』の未来でこの二人が再会するとは思えない。 じゃこの「未来で待ってる」はどんな意味あいがあるんだ。一見明るく、行動的に思える言葉なのに、な-んかその場限りのごまかしといえなくもない。 二人がもう一度再会して、結ばれることがありえないのに、「まってるね」「うん走って行くから」という言葉はどうすりゃいいんだ。 明るくて前向きなはずの真琴が、千昭と出会うことで、ただ明るいだけの女の子じゃなくなっていくっていうそんな含みがありそうで。 「自分が楽しいだけじゃだめなんだ」ということを語る部分があって、自分にとっていいことだけを追求していくそれだけじゃない生き方を意識するにいたって、ただ明るいだけの真琴が千昭の語る未来の中に潜む闇を意識し始める時、走るだけじゃなくて、立ち止まって少しゆっくり周りを見回しながら、よく考えて生きていくようになっていく一人の少女のやっぱり成長物語とも言えちゃうんだな。 たとえ、タイムリープをしないとしても、自分が楽しいとか、自分の都合だけ考えて行動していれば、知らないうちに周りの他人に不愉快な思いをさせたりしてることはもちろんあるわけで。そのあたりよく考えてください。とわたしなんか申し上げたい。いえ、それが描いてある物語なんです。 この作品では、明るいつくりなのであえて深町君や千昭がいるはずの未来の暗い部分は本編中には語られていないから、ちょっとそのあたりやっぱりよくできたシナリオだけど、わかんない部分が存在しちゃうんだな。 未来だけをみて走ってるだけじゃだめなんだよ。 でも、お話の中では、魔女おばさんと言われる和子さんが真琴に「あなたは待ってる人が来なかったら、走って迎えに行くような子でしょう。」といいます。 こんな、親にも相談しにくいし、友達では役不足なことを相談できるような人が身近にいたらいいよな。この「魔女おばさん」てフレーズに、最近読んだ『西の魔女が死んだ』を思い出しまして、ここからもらったアイデアなのかなっと。 不登校になった中学生のヒロインに世間一般の常識的でお決まりのつまらない説教をするような大人とはちょっと違う、だから、魔女なんてあだ名がついちゃうような不思議なキュラクターのおばさんがでてきて、ヒロインの悩みをきいてくれるんだけど。 話戻ってこの和子さんて、話わかりそうだけど、いつも逆のようなアドバイスしてる。来ない人を走って迎えにいく前向きな明るさもいいけど、来ない理由をちょっと考えて待ってあげられる思慮深いやさしさもあっていいんじゃないかと思うし、多分、この物語の真琴も、このあとそんな風に変わっていくんだとしたら、このおばさんの語る言葉のパラドックス性もまた、面白いのかもしれない。 真琴の異様なまでの明るさもまた、ただ明るい女の子を描いただけじゃなくて、その先に変わっていく真琴を描く上での状況設定とも言える。 明るくて前向きで楽しいだけの話だと思って、この作品を見終わっちゃいけないんですぜ。                                  

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る