2007/11/03(土)20:28
『幸福な食卓』補足…愛するものを失う痛み…
映画『幸福の食卓』を見ていて一番不思議だったのが、兄の直ちゃんがなぜ鶏を飼ったあとに殺して食べるんだろうということだった。しかも、その鶏はきちんと名前をつけて、自宅の庭で毎日えさをやって、面倒をみて、ペットのように情をかけてからのことなのだ。しかも、一匹だけじゃなくて、一匹食べたら、また一匹というように次々と飼っていってそして、食べる。養鶏場のようにただの養殖として大量に飼育した挙句、大量屠殺というのとは、違う。ちょっと普通には私たちには出来ない。それをなぜするのだろうと思った時、兄の直は、佐和子に愛するものを失うことの心の痛みを教えようとしていたのかもしれないと、やっと、思い至った。
父の自殺未遂にショックを受けて、家を出たり、大学進学をやめたりした、母や兄に比べて、それなりに痛みは感じたにしても、いまひとつぴんときていないというか、感じていないというか、佐和子の日常は変わっていない。
それはやはり、父の自殺未遂当時もっと幼かった子供の佐和子には、やはり人の死というものはわからなかったのかもしれない。それは、父の自殺が未遂に終ったこともあるかもしれないし、父の自殺の現場を佐和子が見ていなかったのかもしれない。
愛情をかけて育てた挙句、鶏を殺して食べてしまう兄。
けれど、それでも、佐和子には伝わりきらなかったようだ。
佐和子が愛するものを失う痛み、あるいは、命を失うこと、生きるものが死んでしまうことの痛みを本当に理解するのは、やはり、家族以外で初めて愛した恋人、大浦くんの死によってなのだった。
だから、物語の中で佐和子と大浦君の恋愛の様子は、丁寧に丁寧に見ているものまで引き込んでいくために、丁寧に描かれていく。そして、思いもよらない突然の大浦君の死に、なぜ?と、思う。
けれど、大浦君の死は、物語において、最初から、予定されていたもので、兄の直が鶏を殺してみせたように、大浦君の死もまた、佐和子に、愛するものを失う痛みを理解させるための道具立て、エピソードだったようだ。
大浦君が鶏と同じ扱いってどうよ。大浦君は、鶏レベル?
命の大切さを教えるために、かつて子供たちを通わせた幼稚園でも、ウサギとか、金魚とか、いろいろ飼っていたけれど、たくさんの園児たちに毎日のようにいじくりまわされているウサギは見ていてかわいそうだった。その挙句、そのウサギは精神的なストレスで、円形脱毛症にまでなっていたし。
命を教えるために毎年毎年幼稚園の各クラスで、飼われる動物たち。彼らには、彼らの人生を生きる権利があるのに、園児たちの情操教育のために使いつぶされる動物たちを見ていて、それはそれでちょっとなーと、思ったことを思い出した。
大浦君もそれとおなじ?
まあ、それでも、大浦君の死によって初めて愛するものを失う心の痛みつらさをやっと佐和子は理解するわけだから、鶏よりは大浦君の方がレベル高いのでしょうかね。
そして、大浦君の死を体験して初めて、佐和子は父の自殺未遂の意味を理解する。
「お父さんが死なないでいてくれてよかった。」と佐和子が父に告げるクライマックスシーン。
りっぱじゃなくても、どんな父親でも、それでも、お父さんは、一人しかいないから、ただ、生きて、一緒にいてくれれば、それでいいからと。佐和子は初めて父の死と、生と、その存在のの大きさを知る。
父がいて、家族がいて、毎日普通に一緒にご飯を食べられることの幸せを知る。
幸福な食卓@映画生活