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ふつうの生活 ふつうのパラダイス

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外国映画 あ行

2010.08.12
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カテゴリ:外国映画 あ行
アリアドネーという名前がヒロインにつけられていることですでに、物語の見事な伏線がひかれていたのだと、映画を見終わったときにやっと、きづいた。

アリアドネーは、ミノタウロスをたおすために迷宮にはいっていくテセウスに、無事に迷宮から戻れるようにと糸巻きをもたせた、クレタの王女の名前だ。

物語のヒロインにこの名前がついていたということは、主人公のコブが無事に多重構造の夢の迷宮から出てくるであろうことを暗示していたのだ。

あまりに眠くてなんどもうとうとしながらみていたので、物語のだいたいのすじしかわからないけれど、それなりにみごたえのある映画でした。

だれでも、心の奥にミノタウロスのような、怪獣という心の闇を抱えているのだろうか。

企業がらみの重要なキーワードを盗み出すというアクション系の映画の形をとっているけれど、実は人の心の闇、心の深淵を除き、自分の中の闇と対峙し、戦い、解き放たれていく物語だった。

主人公コブは、死んだはずの妻との現実と夢の境界をさまよいながら、自分の中の現実をみつめていく。
そしてまた、ビジネスの対象であるはずのロバートもまた、夢の中で、父親との確執から開放される。お前が私の真似をするのがいやだったのだっと、父親は言う。ロバートのゆめのなかなのに、どうして父親の本心が語られるのだろう。それは、本当は、伝わっているはずのメッセージをうけとっているはずなのに、気づかないふりを、無意識にしていたからなのではないのだろうか。

ひとはおうおうにして、本当はとっくにわかっていながら、気づいていないふりをする。

けれど、ロバートは、聞いていたのに、気づいていないふりをして、ずっときづついていた、心と、父親から受け取っていたはずの、メッセージを夢のなかで明確にする。

「私の真似ではなく、自分の本心で生きろっ。」と。

そして、主人公コブもまた、妻モルという潜在意識のモンスターから開放される。

深い深い何層にもかさなる夢の迷宮から、ヒロインアリアドネーは、二人の男たちを救い出すための、糸巻きをもって、物語を完成させてくれたのだと、思う。

それにしても、アリアドネーって綺麗な名前ですね。大好き。

ディカプリオってそんなに名優だとも、思えないんだけど、なぜか彼のでてる映画はだいたいおもしろいんですよね。不思議だなぁ。なんでだろ。

作品のよしあしを見極める眼力があるんですかね。

それにしても、潜在意識を知らない間に植え付けられちゃうって、こわいなぁ。
そういうことって、ほんとのところ、どこまでできるものなんでしょうねえ。
でもって、植え付けられたものが実はうそって、気づくにはどうしたらいいのかなぁ。

じつは、こんなおおがりなことじゃなくたって、今現在のわたしたちだって、普通の普段の生活の中で、結構いろんな価値観や、考え方を植え付けられているんだよねぇ。
自分の考えだと、思っていることが実は、マスコミやテレビや、本や雑誌や、そんな色々なものからの受け売りだったり、それらからの洗脳だったりすることって、結構あるんだよね。

自分が当たり前に思ってることの一つ一つをほんとにほんとかって、
たまにはよーく考えなおしてみる必要もあるんじゃないですかって、ほんとに思います。




           


   インセプション@ぴあ映画生活










最終更新日  2010.08.25 10:43:54
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2010.01.29
カテゴリ:外国映画 あ行
ここのところつづくイギリスの歴史シリーズ。どれも楽しくておもしろくて、今回のヴィクトリア女王も、期待してみにいったのですが、今回のものは、いまひとつでした。ヴィクトリアとアルバートがいかに仲のよい夫婦だったかは、有名だけど、実のところどんなだったのかと、楽しみにしてました。

でもね。
映画みているとね、どの人がアルバートなのか、わかんなくてさぁ。もう一人いるヴィクトリアの側近と見分けがつかなくて。しかも、アルバートが全然魅力的にみえなくて、いつヴィクリアがアルバートに惚れたのか、アルバートのどんなところに惹かれたのか、ぜんぜんわかんないのです。みていても、アルバートがぜんぜんステキにみえない。
頭のいい人物らしいんだけど、セリフで行ってるだけで、見ている読者には、ぜんぜんピンとこない。アルバートの聡明さがわかるようなエピソードとかもないのですよね。
唯一アルバートが活躍するのは、ヴィクリアが銃で撃たれそうになった時に身をていして彼女を守った時だけです。


ヴィクリアの話でも、主役はヴィクトリアだけれど、それ以上にアルバートがステキにみえて、そのアルバートに惚れていく、ヴィクトリアの恋心とか、共感してはらはらどきどきしながら、みたかったのですが、そんな感じがぜんぜんないのです。

しかもしかも、だいじな結婚式のシーンなんか、あっというまに、おわっちっゃて、あれ?って、かんじ。そんなーーーー。

最初にでてくる戴冠式のシーンは、なかなか荘厳で感動したのに、なんで大英帝国のクイーンの結婚式があっというまに、終っちゃうのですか。

物語全体が冗長で、結構退屈。途中で飽きてきてしまいました。劇場も混んでいて、窮屈だったし、劇場の中に高低差もなくて、みずらいし。
今回はがっかりでした。

さて、次の大英帝国ヒストリーシリーズは、どの部分をやるのかな。
次回に期待。



            












最終更新日  2010.01.29 07:56:32
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2010.01.07
カテゴリ:外国映画 あ行
かってのローランド・エメリッヒ監督が描き出した『インデペンデぺンス・ディ』においてえがきだされた、侵略される側の心理、恐怖。

今回の『アバター』もまた、侵略される側の立場の視点での、心理、恐怖、戸惑いが描かれている。

かつて、アメリカ大陸には、もともとの先住民族が住んでいた。けれどそこに、ヨーロッパから、利益をもとめて、白人たちがやってくる。
もともと住んでいる側の都合もなにも関係なく、侵略者たちは、殺戮し、侵略し、アメリカという大陸を自分たちのものにしてしまった。当時の侵略した側にとっては、もともといるネイティブアメリカンや、マヤ文明の人々は、ただのじゃまな存在であり、敵でしかなかった。

けれど、長い時間のはてに、実はもともと住んでいた、ネイティブ側に対して、配慮できるところまで、認識が進んできたようだ。

アバターの物語にでてくる、もともとの民族ナヴィは、、パンドラの星で自分たちの生活と文化と文明を築いて暮らしていた。そこに突然やってきた機械文明を持った他の星からの侵略者「スカイピープル」は、自分たちの利益のために、パンドラの地を侵略していく。
映画の中のパンドラの人々ナヴィの姿は、ネイティブアメリカンか、マヤの人々にそっくりなデザインになっている。

そして、そこに、侵略者スカイピープルが、アバターとよばれる人工の身体に精神をおくりこんだ技術によって、 主人公ジェイクは、アバターの身体で、先住民ナヴィの中に入り込んでいく。パンドラの土地にあるレア鉱石を採集することを目的に、鉱石の上に住んでいる彼らと交渉するために送り込まれたはずの主人公ジェイクは、やがて侵略される側の先住民たちの中に入り込み、侵略される側の立場にたち、彼らを助けるために、エイリアンと戦う側となっていく。

アメリカ大陸を侵略し、占領し、先住民たちを殺戮したヨーロッパの白人が、ネイティブアメリカンになって、もともとの侵略される立場のネイティブアメリカンの側につく物語の状況を、パンドラという星を借りて、描き出している映画なのだと、思う。

侵略される側の気持ちを理解して欲しい。自分たちのいままでの行動や歴史は、いったいなんだったのだろうか。

それが、監督ジェームズキャメロンの語るところだろうと、思う。

それにしても、ドラゴンや空飛ぶ生き物に乗って、空を飛んでみたいという夢は、だれでもが一度は、望んだことではないだろうか。飛竜にのって、空を飛ぶ、先住民ナヴィと、主人公ジェイクのシーンは、一番の面白いところ。


けれど、足を怪我して、歩くことのできなくなったジェイクが、アバターとなって、パンドラの大地を冒険し、ナヴィたちの世界に入り込み、恋をして、いくうちに、もともとのリアルの自分より、アバターの自分の方が意識としてメインになっていくあたりは、オンラインゲームにはまりこんで、リアルがだんだんどうでもよくなっていく状況に良く似ていて、ちっょと怖い。オフラインゲームでは、ここまではまり込むことは決してない。物語としては、面白いけれど、ジェイクが最後にアバターの身体に入り込んで、パンドラの地で生きていくことを選択したラストは、一昔前なら爽快であるけれど、コンピュターグラフィックを駆使したこのての映画で、この結末を見るのは、微妙に是非を戸惑う。

さて、その一方で、地球人と先住民ナヴィとの侵略戦争戦で、ジェイクと戦うマイルズ大佐は、「人類を裏切るのか」と、ジェイクにいう。人類のために戦うという大佐の言葉は、見事に洗脳されたものなのか、戦い侵略を正当化するためのものなのか。けれど、実際のところ、パンドラ侵略は高額で売ることで莫大な利益をえるためにパンドラに鉱石採掘と侵略軍を送り込んだ企業のためでしかない。そんな描写に今のアメリカの戦争の真実が語りこまれてもいる。

単純に冒険者としてみれば面白い映画でもある。現在の映像技術ならではの違和感のなさ。ネットのサイトの予告編などで見ている時には、人形のようにもみえるナヴィやパンドラの動物たちが、映画館でみているとすこぶるリアルで、みごとだ。物語にはまり込んで、美しいパンドラの自然の中で、主人公ジェイクとともに、冒険するのも悪くない。

そしてまた、続編の作り安そうな話しでもある。

もういちど、スカイピープルがやってきたら、次はジェイクはどうするのかな。


                 

    アバター@ぴあ映画生活










最終更新日  2010.01.07 18:48:13
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2008.10.17
カテゴリ:外国映画 あ行
映画のテーマは「家族回帰」なんだと、思います。

アメリカが今まで売りにしてきた、物質文明とセックスを否定する映画。

大学を卒業した息子クリスにポンと車を買い与える親。車も服も家も食べ物も豊富にあるけれど、いごこちのよい家庭だけはなかった。
夫婦のセックスを中心にして出来ているアメリカの家族構成は、子供にとっては楽しいものではないのではないでしょうか。

          into the wild

大学を卒業したクリスは、家を出て、クルマもすて、お金も燃やし、行方をくらませてしまう。消息不明の息子を探してはらはらする両親とはうらはらにバックパッカーとなってアメリカ中を旅していくクリス。けれど、二年後、アラスカの荒野で死体となって発見されたのでした。

いつも夫婦喧嘩ばかりしている両親と家庭にいやでいやでしょうがなかった主人公クリス。

日本ではアメリカのヒッピーなんかは有名なんだけど、その他にもそういう脱物質文明、脱キャリア社会という意識の人たちが群れて暮らす村があって、映画の中でクリスは、アメリカのそういういろんなところを旅して訪れていきます。

物が豊かなこと、セックスすること、アメリカではメジャーなこういうことを嫌だなと思うアメリカ人もまたいるのではないかと思うのです。でも、そういう人たちはアメリカの中では、マイノリティーなわけです。そういう人たちが、集まって住んでいる村や、放浪者たちが、アメリカには、ある程度いるようで、クリスは旅の途中でそういう人たちに何人も出会い、知り合い、仲良くなったりします。

途中なかよくなった中年の夫婦としばらく旅するクリス。けれど、テントの中でセックスしている夫婦の声を外で聞いていたクリスは、次の朝旅立ってしまいます。

しりあった16歳の少女からセックスを求められるのだけれど、クリスは、拒否するのです。

今までのアメリカの若者の映画なら、旅に出た少年は、いろんな人と出会いながら成長し、少女と知り合ってメイクラブをして、放浪生活をし、バイトをし、荒野でキャンプをしたのち、故郷の我が家に戻ってくる。そういうストーリーだったと思うのです。

けれど、この映画の中で、クリスは、アメリカの物質文明もセックス文化も否定しています。

幼い日けんかばかりしていた両親。結婚しているのにクリスの母と同棲し、自分たち兄弟を生んで暮らす父。実は私生児だったとしらされるクリス。そこには、セックスをする夫婦を核としたアメリカの代表的な家族のあり方があります。

実は、親のけんかも親のセックスも子供はいやなんですよね。

日本では逆に夫婦よりも子供を中心とした家族構成があるわけで、アメリカとは逆に子供を大事にするあまり夫をないがしろにする奥さんたちがいます。それはそれで、やっぱり、よろしくないとは思いますが、まあ、どっちもどっち。

親中心でもなく、子供中心でもなく、バランスのとれた家族のあり方って難しいです。

父は大学をでて、キャリアも積んだし、ビジネスでも成功して、アメリカ人としては普通だと思いますが、夫婦喧嘩の耐えない家庭であったことで、クリスにとって、ビジネスで成功しても、お金持ちになって、幸せににはれないのだと実感させてしまったのでしょう。

こんな家庭で育ったために、セックスにも、ものの豊かさにも、働くこと、出世することにも、希望を見出すことの出来ないクリスは、放浪の末にアラスカの荒野に行き着きます。嫌なものを全部排除した生活はアラスカの荒野で暮らすことしかなかったということです。

私も若い頃、嫌なことがあると、「砂漠に行きたい」とよく思ったことがあるので、なんとなく分からないでもないのです。

アメリカにはたぶん、こんな風に破天荒な冒険の旅に出て、のたれ死んでしまって結局親の元に帰ってこなかつた青年たちが、結構いるのかもしれません。

クリスが途中で知り合った中年の夫婦もやはりたった一人いた息子が旅に出たまま帰らなかったのです。その息子もまた両親の勝手気ままな暮らしぶりや、子供への配慮のない夫婦関係に嫌気がさしたのではないのかなと思います。

日本であれば、子供にきずかれるような夫婦での交渉などしないものです。それに、日本では16世紀に既に「わび」、「さび」という文化が生まれていて、あまりにも豪華であることにも、ものの豊かさにも、逆に「むなしさ」を感じるという意識があり、過渡の贅沢をきらうという考え方があります。これは、日本の社会では、結構メジャーの思想です。

けれど、それは、アメリカ社会ではマイナーな意識であり、そういうことを感じ取ってしまう人たちはマイノリティーとして、生きづらいのかもしれません。だから、都会や企業社会を抜け出して、同じ考え方のひとたちで、脱文明的な暮らしをする村があるのでしょう。

大学を出て、大成し、経済的には豊かに暮らしながら、妻をすてて、愛人とくらす父、喧嘩ばかりしている両親を見て育ったクリスは、それらのもの全てを否定するしかなく、全てを否定した先に荒野の暮らししかなかった。

クリスが目指したのは、アジアでいえば、仙人の暮らしなのだと思います。

けれど、荒野で暮らすことのリスクにまで考えがおよばなかったクリスは、荒野で衰弱し、けんかばかりしていたはずの両親のもとへ戻ることを夢見つつ、餓死してしまいました。

彼が望んだのは、夫婦仲良くくらす両親と、穏やかで幸せな家庭。

わが子をしあわせにしたいなら、まず自分たちが幸せに暮らさないとだめなんだなと、つくづく思いました。
そして、家族が家族一人ひとりを大切にすることも。



ところで、荒野をでて、文明社会に戻ろうとしたクリスは、ものすごい濁流の河を目の前にして、渡ることを断念して、バスに戻ってしまいますが、河ぞいをずっと下っていけば、どこかで、橋か民家か道路に出会えたのではないのかと思います。

巨大な鹿を食糧として、捕獲しますが、冷蔵庫もないのに、彼一人であれを腐る前に食べつくすのは不可能であることくらい分かりそうなもの。とも思います。

野生の動物を捕獲して焼いて食べていますが、未開拓の土地に住む生き物は、いまだ発見されていないウィルスや病原菌を持っている可能性もあります。つまり、それすらとても、危ないのです。

原野でのワイルドな生活というのは、文明社会で暮らすよりよっぽど体力と知識と、計画性が必要だと思うのに、彼は、そのあたりの周到な準備が足りなすぎる気がします。原始的な生活をなめています。食料が尽きる前に戻るとか、もっともっと情報収集してから、荒野で暮らし始めるべきだったのではと、疑問が残ります。あんなに頭よさそうなのに。

最初この映画のあらすじを聞いた時は、せっかく苦労して育ててるのに、大学出たとたん、親元を飛び出してその挙句荒野で死んじゃうなんてけしからんと思ったのですが、子供がでていく理由が親にあるのだとすると、つくづく親の立場として考えさせられてしまいます。何が子供にとっていいのか、常に自問し続けていても、やっぱり難しいです。
子供が親に対して厳しいのも事実ですし、私も親に対して厳しいし、わが子も私に対してきびしいです。どこまでが許容範囲なのでしょうねえ。



           



イントゥ・ザ・ワイルド@映画生活
   






最終更新日  2009.09.14 09:10:47
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2008.06.13
カテゴリ:外国映画 あ行
お医者さんの目の中で、患者が人間になった瞬間を、描き出した映画だ。と、思った。

以下、ネタバレしてます。

    アイアムレジェンド

事件の原因を作ったのは、お医者さん。事件の原因を究明して、解決したのも、お医者さん。

治療役として作ったものが、人間を凶暴なモンスター、ダークシーカーにしてしまうウィルスになってしまう。人類のほとんどは、死滅し、地上には、モンスター化した人間ダークシーカーだけ。

たった一人、抗体をもつために、ダークシーカー化せず、ニューヨークシティに残って、抗ウィルス役を作るために、研究を続ける主人公ネビル(ウィル・スミス)は、愛犬サムとともに、シティの中を駆け巡る。

ウィルスによる人類の滅亡。わずかに残った人たちだけの世界。SFでは、よくある設定だが、どんな展開の物語になるのだろうと思った。以前DVDで見た、「地球最後の男」のリメイクかもしれないと思ったが、違っていた。「地球最後の男」は、結局精神疾患患者の夢という結末だったので、がっかりしたんですがね。

さて、実験のために、女性のダークシーカーをつかまえてから、ネビルは、ダークシーカーたちに襲われるようになる。
自分の妻を捕まえられて怒ったダークシーカーの男。
ダークシーカーといえども、元は、人間であって、人の感情は残っていた。
ネビルは、研究のために、ダークシーカーと接していても、人間だとは、思っていなかった。

お医者さんにかかった時に、とても不愉快で人を人とも思わないような発言に不愉快な経験をしたことのある人は多いはず。というか、私は、結構あったんですよね。

でも、お医者さんたちの目に、患者があんなふうにモンスターに写っていたのだとしたら、あのひどい発言は無理ないですよね。医者は患者の病気だけ見て、患者を診ていないとは、よく言われることですが。まさにそんな感じ。

『白い巨塔』でも、財前は患者を人間というより、自分の出世のための道具としか見ていなかったし。

でも、ラストで、ダークシーカーが、さらわれた自分の妻を取り戻すために自分を襲ってくるという理由にネビルが気づいた時、はじめて、ネビルは、ダークシーカーがただのモンスターじゃなくて、人間らしい感情を残したもと人間なんだということを認識する。

「たすけてあげるよ。たすけられるんだよ。」と、何度もネビルは、モンスターたちに言う。けれど、彼の言葉はもう、モンスターたちには伝わらない。完成した血清をアナにたくすと、その血清を守るために、自爆する。

さて、この映画には、別エンディングがあるそうですが、その別エンディングより、正規のエンディングの方が私はいいと思います。ダークシーカーがなぜ、ネビルを襲うのか。別エンディングを見たほうがわかりやすいのですが、それでも、物語の完成度としては、正規エンディングの方がいいです。

だって、せっかく直った女シーカーをまた、元のダークシーカーに戻してしまうのでは、本末転倒というか、物語のテーマが生きないです。

もう押しとどめることのできないダークシーカーとともに、ネビルは自爆してしまうけれど、彼のつくった血清によって、こののちダークシーカーたちは、治療され、もとの人間に戻ることができるのだと思います。お医者さんなんだから、やっぱり、自分の見た患者さんはちゃんと直してあげなくちゃと、思えば、やはり、結末は、正規のこれでいいと、思うのです。

そのうえで彼をタイトルとおりのの「伝説」にするためには、やっぱり死なないとならなかったのではないか、と思います。というか、「伝説」というたった一つの単語によって、こののち、治療薬は完成し、ダークシーカーたちは、治療されてもとの人間にもどり、もう一度地球が、人類が、再生したことを、こまかい説明なしに、表現しえているわけです。


検索して読んだ他のブログによると、妻ではなく、娘だそうです。私は、映画見てて、奥さんだろうなと思ったんですが。ま、どっちでも、大差ないですが。

そして、原作の物語は、かなり映画と違うようです。でも、映画は映画で、これでも、いいんじゃないかと思います。というか、もう、この映画は、ほんとにかっきり原作とは別物。最初の設定だけ使って、まったく違う物語になってるんだと、思います。


主人公ネビルは、臨床医なんでしょうか、研究医なのでしょうか。お医者さんたちは、研究をしているうちに、患者が、人間ではなく、ウィルスを運ぶモンスターになってしまうのでしょうか。
映画の中にでてくる彼が実験に使ったシーカーたちの顔写真は人間ではなく、データですね。あれは。

患者って、お医者さんの目を通すと、ダークシーカーのようなモンスターにしか見えていないのでしょうか。

でも、患者は、人間です。

映画本編は面白かったです。

しかし、ゲームのバイオハザードとそっくりです。サイレントヒルにもにてる。


                    


         アイ・アム・レジェンド@映画生活



              






最終更新日  2008.06.13 14:55:11
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2008.05.31
カテゴリ:外国映画 あ行
医学って偉大だな。

悪い奴がいっぱいいる人間社会がいやになった数名の人たちによってつくりだされたコミュニティ。いい人間ばかりでつくったその村は永遠のパラダイスのはずだった。けれど、どんないい人だって、かならず、闇の部分を備え持っているのもの。

いい人たちだけで作ったはずの村で、生まれた子供たち。外の世界も悪いこともいっさい知らないはずだった。それなのに、そこに、ねたみやうらみや、いろんな闇の感情はやっぱり生まれるのだった。子育てをしている上で悪いことを覚えないように、悪いもの、悪い人、悪い環境には接しないように気をつけるものだけれど、全てがよいもの、良い人たちの中であっても、人間は悪いことをしたり、覚えたりするものらしい。

悪や、闇の感情は、人の心の中にあるものだったのだ。

だから、いい人間、善良な人間だけで、集まって暮らしていても、それから逃れることは無理なのだ。

と、以前この映画を見た時は、思った。

けれど、そのほかにも、この映画をみて思うのは、医学の力のすごさ。

先日見た、『ザ・ビーチ』も、やはり、人間社会の喧騒がいやで、アジアの南の島にこっそりコミュニティを作って暮らす若者たちの話。これ以上人がふえないように、そのコミュニティは、秘密のまま。けれど、どこからともなく、秘密は漏れる。
そして、病気やけがもおこりうる。

人間社会がいやで、ひっそりとコミュニティを作る。自分たちだけで、家を建て、作物をつくり、ルールをつくり、自治して暮らす。そこまでの普通の生活は出来る。けれど、病人やけが人が出たときだけは、自分たちではどうしようもなくなるのだ。

『ヴィレッジ』や、『ザ・ビーチ』は、設定はほぼ同じなのだ。そして、その秘密のコミュニティが立ち行かなくなる理由は、コミュニティの中に病人やけが人が出た時。病気やけがだけは、自分たちではどうしようもない。外の世界の薬や医療に助けをもとめない限りどうしようもないのだ。

食料や、衣料や、建築や、政治は、自分たちで何とかできるものだけれど、病気とけがだけはどうにも出来ない。

どんなに生きずらくても、やっぱり人間が群れて多くの力で作り上げている世界ってすごいんだ。

医学だけは、自分では、どうしようもないもの。医学ってすごい。

この映画。劇場公開時は、そのミステリアスなネタが好奇心を誘った。その好奇心にがまんできなくて、見に行ったけれど、ネタバレしてみると、やっばり、想像したとおりだった。その部分では、やっぱりなーな映画だけど、まあ、好奇心のそそりぐあいは、うまいよねえ。

でも、自分たちの世界にむりやり子供たちまで、閉じ込める。そんな考え方は、やっぱりよろしくないのかもね。

子供は外の世界を目指したがるものでもあるのだし。

含みのいっぱいある映画でもあるかもしれない。



                  







最終更新日  2008.05.31 13:24:05
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2008.03.10
カテゴリ:外国映画 あ行
アポカリプトというのは、訳すと、「新しいはじまり」になるのだそうです。物語にでてくるマヤ帝国は何千年と続いた歴史が西洋の侵略によって崩壊する直前です。つまり、まさに時代の変わり目。時代の変わり目というのは、あとから歴史として習う分には当然のようにわかりますが、渦中にいる人間にはわかりにくいもの。その変わり目をかんじとる感性があるかということでしょうか。マヤが崩壊したのは西洋からの侵略だけではなく、既にマヤの内部が爛熟し、腐り始めていて、崩壊の兆しは内側にもありました。
マヤ帝国による奴隷狩の脅威から逃れるために村をすてて移住していく集団に、主人公ジャガー・パウだけが、時代の変化を感じ取っていました。

梅田望夫の『ウェブ時代をゆく』のなかでも、時代の変わり目にいきている人間にはその時代の変化はわかりにくいと書いてありました。
今の時代もまた、時代の変わり目なのか?

それを感じ取るポイントはどこにあるのか。
中にいる人間たちの感性の鈍化。道徳観の急激な低下。慢心。文化の爛熟と腐食。
その中で新しいものを感じ取り自分自身をその変化に沿わせることが出来る極わずかの人間たちがいる。
強く、たくましく、柔軟で、感性がものすごくするどい。

さて、この映画が語りたいのは、時代の変化を感じ取れということなのかな。



             











最終更新日  2008.03.10 22:15:56
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2008.03.06
カテゴリ:外国映画 あ行
中米のとある村に住む狩人たち。物語はそんなところから始まります。
やがて彼らはマヤ帝国の兵士たちに捕まり、捕虜としてマヤ帝国の首都までつれていかれ、いけにえとして殺される。その寸前に、危うく助かった主人公ジャガー・パウは、追っての兵士たちを次々とやっつけて、無事に妻と子供を助け出すのです。

こんな中米を舞台にした物語はめずらしいのです。世界中にある殺戮と征服の物語は、征服されたアメリカ大陸の中にもあったのですね。そして、もしかするとラストででてくるだろうなと思ったヨーロッパ人もやっぱり出てきました。

物語のテーマは、ようするに、「井の中のかわず大海をしらず」といいますか、つまり、『恐れを知れ』でありまして、日本的に言うなら、「謙虚であれ」ともいえましょうか。

物語はまず、狩人仲間の間での仲間への侮辱やからかい。小さな集団の中にも人間関係の上下、強い弱いがあるわけで、それはさらに、娘婿に『種無し』とののしる姑なんかにもあります。こんなジャングルの中に少人数で原始的にひっそりと暮らす人々の中にすら存在する人間同士の上下。勢力図。

けれど、突然やってきたマヤ帝国の戦士たちによって村びとたちは全員捕虜として拉致されてしまいます。
連れて行かれたマヤ帝国の首都で、売り飛ばされていく女たちの中で唯一「使い物にならない」ということで売り物にならず、売られることなくその場で開放されてしまう姑のばばさま。村社会の中では優位に立ち、娘婿をののしっていたはずの老婆は、マヤ帝国という都市では、何の価値もない人間という評価をされてしまうのです。

このあと、マヤ帝国から逃げ出した主人公ジャガー・パウを追って、ジャングルをおいかけてくるマヤの戦士たちは次々と死んでいきます。(←このあたりがおもしろかった。)そして、ラスト近く。二人だけ残った戦士は海岸で、アメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人たちに初めて出会うのです。

こののちの歴史を知っている観客は、彼らヨーロッパ人がこの物語中で一番怖い存在であることを知っていますが、物語中で残虐の限りをつくしてきたマヤの戦士たちは、そんなことは知りません。けれど、『恐れを知る』ジャガー・パウだけは、なにかかかわってはいけないことを感じ取って、そっとジャングルに戻っていきます。

物語中で人の輪が段々広がっていきます。はじめは同じ村の中の人の中での関係。それがやがてマヤ帝国という巨大な国家集団に出会った時、村の中では強い男として優位であったはずのジャガー・パウもまた、弱いものとなり、捕虜にされ、殺されかけ、追いかけられる。自分より強い存在に出会う。父は彼に『恐れるな。』といいます。しかし、物語の中では、『恐れをしれ。』といろんな人たちが彼に言う。自分は強いと思っていても、自分がいる集団のその外側にはもっと強い存在がいる。そして、中米のジャングルの中で、最も強い存在だったはずのマヤ帝国もまた、アメリカ大陸の外側からやってきたヨーロッパ人という強い存在によって、この後、殺戮され、滅ぼされてしまうのです。強いはずのマヤの戦士たちは、ジャガーパウを追ってマヤの都市をでていく。ジャガー・パウの住むジャングルの中では、逆にジャガー・パウによって、順々に殺されてしまう。マヤという帝国をでれば、やはり自分たちより強い存在がいる。

伝染病の少女によって予言のような言葉をきくマヤの戦士たち。少女は言う。「恐れを知れ。強いはずのおまえたちもまたいずれ、外側からやってくるもっと強い存在によって、ほろぼされるのだぞ」と。(←すみません。意訳してます。映画の中で見てる分にはちんぷんかんぷんでわけわかんないんですよ。この女の子のセリフって。だから神秘的でおもしろいんだけどね。)

いごこちのいい狭い世界でいい気になってぬくぬく暮らしてちゃいけないんですねえ。若者はやっぱり外の世界を見に出かけていくべきですよねえ。

でも、面白かったです。ものすごく残虐なシーンもいっぱい。あって。残虐すぎるという批判もありますが。でも、この残虐なシーンによって、物語の後半から物語のメッセージがより明確に浮き上がっているとも言えるわけですし、マヤ人の行う残虐さが、そののちのヨーロッパ人がマヤ人に対して行うであろう残酷な殺戮と征服のシーンを映画としてはうつしださないけれど、観客に想像させるにはよりよい効果となっていくわけですから。

中米を舞台にした中米の民族同士の征服戦争なんて話も珍しいですし。マヤの戦士とジャガー・パウの追いつ追われつの逃走戦が一番の見所でした。

それにしても、ジャガー・パウの奥さんの、妊娠中、しかも臨月なのに、高いところから二度も落ちたり、冷たい水につかりっぱなしの挙句、水中出産という、殺戮シーンとは別のハードなシーンも、すごかったです。つらすぎる。

『恐れをしる』ジャガー・パウだけは、西洋人から逃げるようにそっと、妻子とともに、ジャングルの奥地へと旅立っていきましたが、果たして逃げ切れたのかなと、思いもしました。こののち、西洋人による壮絶な殺戮がアメリカ大陸全土であるわけですからねえ。

『アポカリプト』追記



アポカリプト@映画生活  
 







最終更新日  2008.03.10 22:17:48
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2008.02.22
カテゴリ:外国映画 あ行
ヨーロッパの田舎の小国だったイングランドが、スペインの無敵艦隊をやぶり、それをきっかけに世界中に植民地を持つ大国にと成長していくというヨーロッパ史の中でも特におもしろい部分の映画化です。10年前に作られた『エリザベス』の続編。若い頃のエリザベス一世の恋を描いた前作。恋も結婚もあきらめて女王として、イングランドと結婚したエリザベス一世の人生をスペインとの確執と平行して描き出されています。

結婚しなかったために、ヴァージンと呼ばれるエリザベスですが、前作で恋人との関係があったのですから、本当に処女だったわけではないと思うので、あくまで独身というところから呼ばれた異名なんでしょうね。

国のために恋も結婚もあきらめたエリザベス一世。王という立場にある女性が恋人を持つことのむずかしさを描いた前作。ゆえにエリザベスは結婚をあきらめ生涯独身を貫いたわけですが、でも、本当はやっぱり好きな男性と結婚して子供を産んで、女性の幸せだってほしかったはず。

この物語では、女王の侍女として、エリザベスという同じ名前の女性がでてきます。彼女は女王が心ひかれた海賊ウォルター・ローリーと、関係し、妊娠し、結婚して、彼の子供を生みます。エリザベス一世が望んだもう一つの人生を同じ名前の侍女という人物によって、描き出しているのです。

ベスの産んだ子供を抱きしめるラストシーン。彼女は自身の子供を得ることは出来なかったけれど、女王としてそののち、世界中に植民地というイングランド王国の子供たちを授かっていくのです。

豪華な建築やその飾り、エリサベスの色とりどりの豪華な衣装。物語の展開が速すぎてじっくり見ることが出来ないのが残念でした。女王に即位して、情熱に燃えるエリザベスが着ているのは赤いドレス。ヴァージン・クイーンとして、常に女王らしくあろうとする清らかな決意を示す白のドレス。スペインの艦隊が迫ってきて、海戦が始まろうとしている時の不安をあらわすような紫のドレス。恋する男と侍女が関係していたことを知った冷えていく心を表すような青いドレス。

劇中でエリザベスが着る数々のドレスは、豪華で美しいだけでなく、エリザベスの心をそのまま表すような配慮がされていて、見事でした。

このあたりのヨーロッパ中世史大好きなんですよね。とくにこのエピソードは。エリザベスはイングランド史上でも、ダントツの名君ですし、彼女が誕生するまで、女王になるまでにも怒涛のようなドラマがあって、これだけいろいろあっても、女王として、即位し、在位し、イングランドを大国に導いたということは、きっともう、歴史の必然だったのでしょうね。

もし、エリザベスが女王にならなかったら、世界史はどうなっていたんでしょう。彼女がいなければ、世界中の国がイングランドに植民地にされなくてすんだかもとも思いますが、その代わりにスペインが大国として世界中に植民地を作っていたかもしれないし。
なんていろいろと考えてしまいました。

ケイト・ブランシェットは、10年前、若い娘として、恋をしていたのですが、10年たって、おばさんの女王様になっていました。顔のシワをきにしたり、若い侍女にシットしたり。やっぱり、普通の女性なんだなあとおもわせる、女王の裏の部分、私生活の部分も細やかに描き出されていて、見事でした。



          


エリザベス:ゴールデン・エイジ@映画生活








最終更新日  2008.02.22 13:50:27
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2007.10.31
カテゴリ:外国映画 あ行
なかなかどうして、よく出来ていたと思う。

主人公のアーサーは、アメリカの片田舎にくらす10歳の少年。ごくふつうの元気な男の子。すっごくかわいかった。

      アーサーとミニモイ

そして、「パンズラビリンス」と、同じように、地下の妖精王国が出てくる。けれど、アーサーは、実際に妖精の国にいって、冒険し、最後には、行方不明だったおじいちゃんとルビーを見つけてかえってくるハッピーエンドの楽しいファンタジーだった。

最初は普通に人間としてでてくるアーサーがミニモイの国では、他のミニモイと同じCGのミニモイに変化するんだけれど、違和感がなくて、人間のアーサー同様にかわいい。ほかにも、ミニモイの王女や弟王子や王様。みんな、違和感なくかわいい。よく出来たデザインで、楽しめた。アーサーにしか抜けない剣がアーサー王の逸話だったり、頭に斧をさしたままの幽霊がハリーポッターからのエピソードだったり、そんなのも入っていて、なかなか楽しかった。

どうして、こんなによく出来てる楽しいファンタジーが、どんどん上映が終ってしまって、ランキングが低いのだろう。子供がみても、大人が見ても、楽しい作品なのに。

こまかいところでは、いろいろと突っ込みどころもあるけれど、このさいまあいいかと、思ってしまったのは、映画がほのぼのと楽しかったせい。話の設定が1960年だったのはなぜだろう。

やはり、ストーリーの構成上かもしれない。

場合によっては、シリーズ化で競うな設定。でも、このようすだと、次回作なんてできなさうそうなのが残念。私は見たいけどなあ。



  アーサーとミニモイの不思議な国@映画生活

       








最終更新日  2007.10.31 09:31:30
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