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外国映画 さ行

2010.10.26
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カテゴリ:外国映画 さ行
shatter iland

物語はシャッターアイランドとよばれる、俗世とは隔離された、精神病院のある島。

主人公テディは、連邦保安官として、行方不明となった、女性を探すためにやってくる。

ミステリアスな展開の果てに、真実がだんだんと明らかになっていく。


真実は、うつ病となって、我が子を殺した妻、その妻をころした主人公。の物語なのだったのだ。
テディは、そのあたりの過酷な現実故に、妄想の虜となり、精神病患者としてこの島に隔離されていたのだった。

精神医たちは、何度か彼を治療し、彼が逃げている現実へと引き戻すのだけれど、現実のつらさのあまり、何度ひきもどしてもまた、妄想の中に戻ってしまう。

そして、なんども連れ戻される辛さ故に最後にはもう、ロボトミー手術という、辛い現実から完全に隔離されるという選択肢を主人公は選ぶのだ。

実際なんども妄想に戻ってしまうということは、本人がそれを望んでいるからであって、それにもかかわらず、治療して、現実を認識させることこそが正しいと信じている医療スタッフがわ。主治医といい、院長といい。

お医者さんて、患者が望んでいることより、医療的に、あるいは、社会的に正しいと言われる対応、つまりは、治療をするけれど、必ずしも、患者側は、それを望んでいるとは、かぎらないんじゃないかと、私も往々にして、思うことがあるけれど、この物語の場合なんか、まさにその、極端な、ケース。

物語は、ばらばらだったジグソーパズルが、ひとつひとつ組み合わさって、完成された絵になっていくような感じだった。

そして実は、主人公が最後に漏らす一言こそが、その最後の一ピースだったりする。

「モンスターとして、生きるのか、善人として死ぬのか。」

まるで、シェイクスピアの戯曲の主人公ハムレットのように、最後の一言がぴたっと、ハメられた時、物語は完成するのだ。

自分をモンスターと呼ぶほどの辛い現実。
現実と妄想の間をなんどもゆききする主人公。

本当にどっちがいいと、いえますかと、作者は問う。

あなたなら、どちらを選びますか。





妄想に走りたいほどの厳しい現実を、なんで一一もどそうとするのか。あの院長さん。何度、現実に戻しても、妄想の中に戻ってしまうのだとしたら、それはもうほんとに、自分の現実がいやでいやでしょうがないからなんだろうと、思います。だとしたら、現実にもどすという精神医の行為は、ホントは正しくないのかもしれません。

妄想の中に置いといてあげたほうがいいのかもね。

それなのに、なんども、現実に戻されてしまう苦痛、にもかかわらず、自殺も、死刑もありえないのだとしたら、主人公としては、最後には、脳手術によって、その辛い現実を永遠に忘却するしかないのかもしれません。たとえ、それによって、自己や自我が失われてしまうとしても。

現実から逃げ、シャッターをおろして、妄想の世界にと逃げていく、あるいは、ロボトミー手術によって、完全にシャッターをおろしてしまう、結末。タイトルは、まさにそういうことだったのですね。

ああ、生きてくってしんどい。

私も、妄想に逃げたいなーっと思う、今日この頃。



それにしても、分かりにくい映画でした。

ディカプリオって、不思議な俳優さんです。あいかわらず。
そして、なんか、ゲームしてるような雰囲気のの映画でした。
ストーリー自体は、よくあるお話です。
ただね。ラストの数シーンにえがかれている場面によって、今までのこの手の物語とは、ちっょと違った、テーマを語っているのかもしれません。

それをどう読み解くか、解釈するかは、本当に人それぞれ。

ただ、私には、辛い現実は、うけいれうるものなのか、
逃げてもいいものなのか。

現実って、厳しい。

そして、生きていくって。しんどい。

ただ、主人公は、最初の妻のうつ病っていう段階で、現実逃避せずに、立ち向かっていれば、あそこまで悲惨なことには、ならなかったのでは。

対処はお早めに。

風邪もひきはじめが大事に。

   






最終更新日  2019.03.11 08:15:28
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2009.12.05
カテゴリ:外国映画 さ行
人生に正解はない。


スラムドックミリオネア


今年の映画の中でもかなりの話題作。見たいと思いつつ、いままでかかった。

インドのスラムで育った無学のはずの青年ジャマールがクイズミリオネアに出場し、全ての問題を正解し、巨額の賞金を手に入れる。
スラムで育った彼はなぜ勝利できのか。

クイズミリオネアは、日本でも、放送されていて、司会はミノモンタですね。
日本では、全ての人が義務教育なので、ここまで、「教育のない人」と差別的な言われ方をすることはないし、出場者の学歴や出自を取りざたされることはないのに、この映画では、随分司会者があてこすりつづけるものだと、関心しちゃってましたが。それを誰も、批難しないのも、インドというお国柄なのでしょうか。

ふだんめったにみることのないスム街やインドの暮らしぶりがわかって、興味深かったです。

正解すれば、大金2000万ルピー。でも、一問でも、まちがえれば、せっかく獲得したはずの賞金を失う。クイズの進行と平行して、主人公ジャマールの人生が描かれていく。人生もまた、クイズのようにそのつど、いくつかの選択肢があり、正解を選び取っていかなければならない。だけれど、人生には絶対の正解はないし、どれを選らんでも、それが必ず正解とも限らないし、どれも正解であることもある。

私たちもまた、ジャマールのように、人生の中で、選択肢に迷う。受験校はどこにするか。何の職業を選択するか。自分にあった仕事や、学校や学部はどれか。結婚する相手は誰がいいのか。どれが正解か、クイズのように絶対のものはないし、ずっとあとまでいっても、正解はわからないまま。クイズのように、すぐに正解を教えてはもらえない。

ジャマールにとっての正解はラティカだった。ラティカと出会い、一緒に過ごす。悪徳集団に拉致され、逃げ出した時、ラティカと、はぐれてしまう。もう一度ラティカを探し出し、救い出し、けれどまた、別れる。ラティカとの人生がジャマールにとっての正解だけれど、なかなかラティカを選び出せない。

親を失ったジャマールと兄サリームは、人をだましながら生きていくけれど、やがてジャマールは、きちんと働いて生きていく道を選ぶ。けれど、兄サリームは、割のあわない安い労働より、悪いことをして金もうけをする人生を選んでしまう。

ラスト直前でラティカを逃がすという選択肢を選んだサリームは、仲間に殺されてしまう。では、彼の最後に選んだ選択肢は間違えていたのだろうか。ラティカを逃がさなければ、死ぬことはなかったのか。でもたぶん、この時、ラティカを逃がさなくても、いずれ彼は殺されてしまったのではないかと思う。彼は、もっとずっと人生の手前の段階で、選択肢をまちがってしまったのだと、思う。

クイズを正解し続けていくジャマールを、番組を観るインドの人たちは、応援していく。(日本だとやっかみがひがみのほうが多いんじゃないかと思いますけどね。)がんばれと、彼にいう老婆。全てのクイズに正解したジャマールは、大金の賞金を獲得し、ラティカと再会し、ラティカという彼の人生の正解も、選び取ることができる。

どれが正解なのか。でも、人生の中にいる私たちはなかなかどれが正解なのか、分かりにくい。正解を選び取る秘訣はなんなんだろう。正解をみあやまらないためには、どうすればいいんだろう。

常に自分の本音を忘れないこと。人に助けてもらうこと。周りを味方にできること。目先の欲に惑わされないこと。ずるをしないこと。正しく生きていくこと。
映画の中のエピソードを見ていくと、こんなところかな。
でも、やっぱり、正解を選ぶ出すのは、むずかしい。
はあ。子どもの人生の選択肢にまで悩まなきゃならないなんて、親って大変。
本人がささっと選んでくれればいいのになぁ。


ラスト、登場人物全員でのインド映画らしいダンスが楽しかった。スマイル



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最終更新日  2009.12.05 08:22:26
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2009.04.03
カテゴリ:外国映画 さ行
光をいれたので、とりあえず、NHKのBSがみられるようになった。

先日二日間続けて、ノーカット名作映画で、『十戒』、『ガンジー』が放送された。どちらも、リーダーってなんだろうと、考えさせてくれる映画だった。『十戒』は、紀元前のエジプトで、フォラオの奴隷として長い間過酷な労働につかわれていた、ユダヤ人たちを奴隷から開放して、約束の地へと導く物語。『ガンジー』は、イギリスによる長い植民地支配から、インドの国民を解放しようと戦い続けるマハトマ・ガンジーの物語だった。どちらの作品も、過去に見たことがあるけれど、あらためて、ノーカットで、見てみると、さすがに、素晴らしい作品だったと、再認識させられる。

しかも、過去の作品なので、デジタル処理もなくて、群集シーンは、全部エキストラで迫力ありました。
出エジプトのシーンで、ユダヤ人が、家畜から家財から、盗んだ財宝まで全て持って、荷車やら、車やらに乗せて、ぞろぞろぞろぞろと、旅立っていくシーンがすごかったです。このあたりの描写にかなりの手間と時間をかけてあるのです。

そのあとの有名な海が割れて、そこをユダヤ人が抜けていく、シーン。このすごい数の人間を渡らせるのに、海を開くっていう発想自体がすごいですよね。さすがに、神様。人間だけだったら、泳いで渡るか、船を調達するか、さもなきゃどっか迂回するしかないと思うんだけど。1体どういうマジックなのでしょう。

ひとつひとつ、モーゼがおこす奇跡は、最初のうちは、それなりに、科学的に理由がつけられそうなんだけど、だんだん無理になってきて、本当に神がかった奇跡。コレは本当にどこまでが、実話なのかなーと、考えてみてもしかたない。

それでも、ユダヤの人々を奴隷支配という状況から救い出すには、一人の傑出した 人物が必要だったのだろうか。
モーゼは、たまたま、エジプトの王子として、育つけれど、考えてみると、これは偶然というよりは、最初からしくまれた偶然。天の采配なのかも知れないとも思う。あの当時には、王子でもなければ高い知識を得ることもできなかっだろうし、モーゼは、王子として育てられることで、帝王学を学ぶことが出来たわけで。あの当時、帝王学を学ばせようと思えば、エジプトの王子にするしかないだろう。そのうえで、彼が大人になってから、実はユダヤ人だったとか、あなたは、リーダーとして、ユダヤ人を奴隷から救い出さなければならないと、告げられるわけだし。

ただ、全体にユダヤ人にとってだけ都合のいい解釈とか、ユダヤ人だけがやけにいい解釈で、神様なのに、ユダヤ人のために、エジプト人が死ぬことにはなんのためらいもないのかなとか、ちょっと不可解な部分も感じました。

あくまでユダヤ人のためだけの神様なんですよね。キリスト教の神様って唯一神のはずで、だとすると、世界に神様は一人だけのはずになのに、その神様はユダヤ人のためだけにしか、行動してないのが不思議といえば不思議。しかも、最後のゴールの約束の地って、20世紀に世界的に物議をかもしだす場所なんだよね。

もともとは、ユダヤのための宗教と神様でしかなかったのが、なぜかキリスト教に進化して、世界中に広まって、そのキリスキ教信者がユダヤ人を迫害したり、虐殺したりしてて、本当に、日本人から見ると、不思議。

キリスト教って不思議。



『ガンジー』に続く。











最終更新日  2009.09.05 19:38:15
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2008.09.03
カテゴリ:外国映画 さ行
なかなか面白かったです。『スター・ウォーズ』は、世界観がすごくしっかり出来ていて、しかも、面白いので、こういう風に、番外編や外伝がいろいろ作流ことの出来るシリーズだと思う。これからも、できればいろいろ作って欲しい。本編だけで終わりにするには、もったいなさすぎる。もともとの本編は、実写版だけれど、実際のところ、背景や、飛行船など、人物以外のほとんどがCGだったので、このCGアニメ版をみても、ほぼ違和感がない。実際の俳優を使うと、ぐずぐずしてる間に俳優が年取ってしまうけど、アニメは年をとらないので、いつまでも、のんびり作っていられていいかもしれない。

     img2_1216971840.jpg

本編の『スター・ウォーズ』は最初全9話だと、聞いていたのに、結局全6話で完結になってしまって、本当のところ残念。技術的に無理ということで、前三作からは、時間も空いていたし。CGのおかげで、最初の三話が近年になって作られたけれど、CGでここまでつくれるならもう、実写にこだわる必要すらないのかもしれない。時代的にももう、昔ほどSFとか、宇宙大戦なんてもてはやされないし、つくった初期とは時代背景もかわってしまって、ソ連は、なくなっちっゃたしで、違和感があって、作りずらくなってしまったのかもしれない。アメリカの戦争好きは非難される一方だし。こうなると、そもそもの『スター・ウォーズ』シリーズのテーマ自体が、陳腐になってしまっているのかもしれない。

でも、今回のクローズウォーズは、面白かったし、ラストは続きの作れそうな終わりかただし。パート2ができたら、また面白そうだ。それに、このクローンをネタにしている部分が、逆に外伝でありながら、今にあっているテーマだと思う。このお話のテーマ自体は、師弟関係だったようだけれど。

成長したアナキン・スカイウォーカーが、師匠のオビワン・ケノビから離れて、新しいパドワン・アソーカの師匠になると言うところから始まる。師としては、まだまだ初心者のアナキン・スカイウォーカーと、弟子としては、やっぱり初心者のパドワン・アソーカの二人がいろいろもめていて、その一方で師弟同士信頼関係ができあがっている、ケノビとスカイウォーカーの、「あの人なら大丈夫。きっとやり遂げているはずだ」という、言葉が、、別々の場所で発せられているところが、すばらしかった。そしてそんな、ケノビとスカイウォーカーだって、本編のエピソード2のあたりではたしか、やりあっていたと、思う。
ケノビとスカイウォーカーの場合は、このお話ではいきなりもう出来上がっちゃってますが、このシリーズが続けば、アナキンと、アソーカの師弟関係、信頼関係がとのようにして出来上がっていくものなのかを、描いてくれるのではないかと、思います。本編が親子関係、自分の中の善と悪の葛藤であったので、この新シリーズでは、人間と人間つまり、他人同士の信頼関係はどのようにして出来上がっていくものなのかが、テーマだと、思えます。
宇宙をバックに、今はない深い師弟関係と、修行。東洋的な衣装や建物や思想があって、楽しい映画です。


                 

ヨーダって面白くて素敵なキャラなのに、いつも脇役チョイ役ばっかり。
ヨーダを主人公にした話も見たいです。

   ヨーダ

   スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ@映画生活   にほんブログ村 映画ブログへ











最終更新日  2008.09.03 09:50:16
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2008.07.15
カテゴリ:外国映画 さ行
物語を書く上で読者の感動を呼ぶ結末にするのに、一番はなしが早いのは、出てくる登場人物、特に主人公を殺すこと。これが、一番手っ取り早くて簡単だ。なんでも、登場人物を殺すことで感動の傑作を作り出すという、ストーリーを書く作家たちのその安直さをなじっているような物語だと、思う。

       主人公は僕だった

だから、この物語では、ストーリー構成に悩む小説家のところに、突然彼女が書いている物語の主人公がやってきて、「俺は死にたくないんだ。殺さないでくれ。」と、頼んでくる。架空の物語の中の人物であるはずの主人公が、突然ほんもののナマの生きた人間として、彼女の前に現れたことで、彼女は動揺し、主人公の死の結末までタイピングしてもなおその動揺を抑えられない。

結局、彼女は主人公を殺すことが出来なかった。主人公が死ななかったことで、物語のテーマはかわってしまい、超傑作だったはずの彼女の作品は、ただの普通の作品なってしまう。けれど、それでもやっぱり、主人公が死なない方がいいと、作家は思う。

主人公も登場人物も殺すことなく、人の感動を呼ぶ物語を書くのは、難しい。登場人物たちを殺すことなく、感動できる傑作を書き上げることができた時初めて、その作家は本当の文豪、名作家になるんじゃないのですか。と、思う。

まあ、自分の人生を作ってるのは、自分なんだから、自分の人生は自分で作れ、他人の意見に左右されずに、自分の意志で生きろという、そういう物語とも取れると、思う。


ところで、外国の映画ってどうしていい年したおじさんとおばさんがまじめに恋愛してるような映画があるのでしょう。ぐずぐずしてないで、さっさと結婚して子育てでもすればーと、私は毎回イライラします。

でも、ヒロイン役の女優さんがなかなか素敵だった。
ロースクールにいってたはずが、結局お菓子屋さんになっちっゃたというエピソードが素敵。これを見ていて、おもわず、チョコいりクッキーが食べたくなってしまいました。




                 


主人公は僕だった@映画生活




 






最終更新日  2008.07.15 20:45:36
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2008.06.04
カテゴリ:外国映画 さ行
ものすごく分けわかんない話だったのだが、だからってただつまらないと書いてみても始まらない。
というわけで。懲りずに、映画レビューです。

      シルク

私はフランスが大好きなんです。けれど、遠くて遠くて簡単にはいかれない、映画や人からの話や、とにかく情報でしか手に入らない憧れの外国。夢のように美しい国。(もっとも一度だけ実際に行ったことはあるのですが。)

西洋にとって日本があこがれの美しい神秘の国だったように、わたしにとっても、フランスは、憧れの国だ。その私の憧れの国、フランスが物語のメインの舞台。ヒロインのエレーヌは、キーナ・ナイトレイが演じていてすごくきれい。彼女があこがれるのは、森の中に大好きな白い百合で、庭園を作ること。好きな人にであって、好きな人と結婚する。彼は、彼女のために危ない異国に出かけて、そして帰ってくる。成功した彼はお金持ちになって、彼女のために森の中の家を買ってくれる。そして、彼女一人では無理そうだった庭園作りを、村中の人々を雇って、作ってくれちゃうのだ。完成した庭園の美しいこと。

私の憧れのフランスの田舎町の町並みも、花だらけの森の中も、二人が暮らす森の中の家も、ヒロインの着ているドレスもどれもこれも夢のように美しい。そして、二人が暮らす町の産業は、兵器でも、鉄鋼でも、なくて、美しい絹織物なのだ。

絹もまた、美しい憧れのもの。

はじからはじまで、女性の夢と憧れで出来ているような映画。

映画の中では、憧れの国は『日本』。主人公のエルヴェは、世界中のどこよりも強くて美しい絹ができるマボロシの蚕の卵をもとめて、とおいとおい憧れの日本へと旅立つ。そこは雪に閉ざされた不思議な山の中の村。
偽もののタマゴをつかまされて帰ろうとした彼を引き止めてほんものの蚕の卵を分けてくれたのは、ハラ・ジュウベイという、その村の権力者だった。

そして、彼らが話している席で、お茶をいれ、彼に出されたはずのお茶を飲んだり、お客様の前で、ハラの膝に頭を乗せてしどけなく寝てしまう少女。この少女は、ハラの妻と解釈されているが、この行動を見ると、もしかすると、この少女は、ハラの娘なのではないかと思う。この時まだ、少女は本当に子供だったのだと思う。だとすれば、この行動も不思議ではないだろう。

「his woman」と、書かれていたとして、外国では、あるいは現代の日本で、「彼の女」といえば、彼の妻または、恋人であるが、昔の日本の書物などで、「○○の女」と書いてあると、それは、○○の娘、子供(女子)のことなのである。
原作では、ハラの娘であり、最初の登場シーンでは、10歳前の童女だったのではないでしょうか。監督、解釈おかしいよ。

数年後に、もう一度エルヴェが村を訪れた時、あどけなく父の膝で寝ていた少女は、一人前の大人の女性になっていた。妻という設定なら姦通罪だが、ハラの娘と思えば、問題はないでしょう。ハラの屋敷に泊まっているエルヴェのところに夜そっとしのんでくる少女。少女もまた、彼の再訪を待ち望んでいたのかもしれない。二人の関係は結局その一度きり。遠い異国に住むもの同士の二人の恋は決してかなうものではなかった。

三度目にエルヴェが日本を訪れた時、日本はすでに明治維新が始まっていた。彼の訪れた村は、幕府側であったため、新政府との激戦のさなかにあった。

村は焼き討ちにされ、村びとは他の場所にそっと逃げ延びている。少女に会いたいエルヴェは、村で出会った少年に村びとたちの隠れているところまで、つれていって欲しいと頼む。けれど、彼らの後を新政府軍につけられてしまい、隠れていた村人は捕まってしまう。その罪を問われて少年は、処刑されてしまう。

映画に出てくる籠の混ざった列。あれは、籠がちがう。実際には、罪人を運ぶ竹製の籠だったのではないだろうか。一列にならんで歩いているのは、政府軍につかまって、連行されているからだ。

二人の恋心は、結局村びとまで危険にしてしまったのだ。

そして、結局彼は、二度と少女に会うことはできなかったのだ。


さて、エレーヌには、決して子供が出来なかった。彼女がもっていないもの。それが子供つまり、卵であるのなら、彼は彼女のために遠い世界の果てまで、タマゴを求めて旅しなければならなかった。

最初に手にいれたのは、偽ものの卵。次にもらったタマゴは、フランスの彼の村に富をもたらすけれど、やっぱりエレーヌには、子供は生まれない。タマゴを求めて、あるいは子供を生める異世界の別のエレーヌを求めて、彼は、さらにもう一度旅に出る。けれど、三度目の旅で、彼が得た卵は旅の途中で孵化して死んでしまう。彼らの子供は生まれたとしても育たないのかもしれない。彼は、三度の旅でも、エレーヌのためのタマゴを手に入れることは出来ない。


異国の少女を思う夫。そんな夫をそれでも愛する妻。彼が少女のためにもう一度日本へ行こうとすれば、こんどこそ、命をおとしてしまうだろう。あの手紙は浮気をする夫をあきらめさせるために書いたものではなくて、日本へ行こうとする夫の命を思って、エレーヌが書いた手紙だ。あんな手紙を日本人には書けない。

あんな素敵なラブレターは、フランス人でなければ書けない。だから、フランスって素敵な国で、私は未だにあこがれちゃうんだよ。

『パイレーツ・オブ・カリビアン』では、あんなに活発で元気なお姫様を演じていたキーナ・ナイトレイが、この映画では、一転して正反対の静かで清楚で純日本的でさえあるような妻を演じていました。

夫の出張にも、浮気にも、一切文句をいわず、夫の命を案じて、夫にはきずかれないように、そっと、日本女性の手紙を偽装する妻。自分の死後の夫のことを心配して、少年にそっとたのんでいく妻。

なんとも日本的な妻(外国人男性の憧れの妻像)と、その妻のために、妻の望むものを与えるものすごく優しい夫(日本人女性にとっての憧れの夫像)。

けれど、二人が本当にほしいもの、子供だけは、決して手にいれることのできなかった二人。

憧れの夫婦は夢であって、現実ではない。だから、現実である子供は決して二人にはできない。憧れと夢の物語は、最初から最後までほわわわわわーんと、静かに優しく進んでいく。そして、しずかに終る。夢から覚めたくないかも。いや、見てると、ほんとにねちゃうんですよね。この映画。

フランスの田舎の村に富をもたらす「養蚕」は、けれど、日本では「女工哀史」のように、暗く悲しいイメージのほうが強い。美しい絹のために、国家の経済発展のために、どれだけの少女が泣いたのでしょう。

そしてまた、フランスで待つ妻のエレーヌもまた、村の発展のため、お金のため、夫が遠い異国に行くのを案じ、その命を案じ、その異国の地でであった少女焦がれるようになってしまった夫に泣かされる日々だったのでしょう。

富をもたらしてくれるはずの美しい絹が、世界のどれほどの女性を喜ばせ、そして泣かせたのでしょう。

憧れはあこがれまま、本当にほしいものは、決して手に入らない。タマゴも子供も少女も。


彼の心の中で、日本の少女と、フランスの妻が一人の憧れの永遠の恋人として、沈みこもれていく。


            


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     シルク@映画生活










最終更新日  2008.06.04 11:43:53
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2007.09.07
カテゴリ:外国映画 さ行
このタイトル日本人にはちょっとなー。わかっててつけたんですか?監督ーーーーー!!!

まあようするに、『shick 0』(病気ゼロ)って意味ですかねえ。

   シッコ

先進国で唯一国民健康保険のないアメリカの実態が描かれてるわけですが。

国民健康保険がないので、大体は民間の医療保険会社に入っている。ところが、これ、いざ医者にかかろうとすると、いちいちいちいち、保険会社に医者にかかっていいか、救急車をよんでいいか、お伺いを立てないとならないのだ。病気怪我として、「治療費を払ってもいいですよ」という保険会社のお許しが出ないと医者にもかかれないという恐ろしい現実。しかも、保険会社はなるべく保険金を払いたくないから、なんだかんだと言いがかりをつけて、「これは病気じゃない」と言い出して、ちっとも保険金を払わないらしい。そして、アメリカの医療費の信じられないくらい法外な値段。やむなく、切断した2本の指のうち指を1本だけ直すしかなかったり。治療費のために我が家を売り払って、娘の家の物置に住まわせてもらうという老後。治療費がでないからという理由で、病人を街中に捨てる大病院。

アメリカの現実って本当にこんななんでしょうか。日本でも、保険会社の保険金不払いは問題になってるけどね。

後半は、国民健康保健のあるイギリスやフランスを訪れ、国民健康保健がいかにありがたいものかその現実をリポートしている。しかし、フランスの待遇は良すぎるきがする。そのせいで税金が高いんじゃないかというわけで、普通の家庭を取材して、普通の家庭が普通に豊かに暮らしている場面も出てくる。もっとも、共稼ぎとはいえ、月収96万円なんて家が普通とは思えない。実例としては、金持ちすぎる気がするんだけどね。

でもって、何でアメリカで国民健康保険が出来なかったかといえば、大統領の陰謀ということらしい。結局社会の上の方が自分たちの都合のいいようにしたくて、その結果国民健康保険を作らなかったらしい。

そして、医療保険会社は保険はやっても、保険金は払わない。そのお金は要するに、上のほうにいる金持ちのところに行くんだろうな。保険加入者がどんな目にあっても自分たちが豊かな生活さえ出来ればいいらしい。その結果、今のアメリカの医療はとてもひどいことになっていて、医療費はどんどん高くなっているようなのだ。

そして、国民健康保健をやりたくない理由の一つとしてあげられているのが、国民健康保険は社会主義のシステムだから。でも、イギリスもフランスも民主主義の国だけど、チャンと国保はあるしおかしくない。

アメリカにだって、公共の図書館やいろいろな公共のサービスがあるのに、なぜ健康保険だけが、実現しないのか。

かつて、実現しようという動きがあった時、国保は社会主義だという理由の元になしつぶしになったそうだ。
資本主義をうたうアメリカのこわーい現実は、国内にいないとわからない。けれど、国内にいるとわからない。アメリカという国の中身をアメリカに行ってねなおかつ外側から見ないとわからない。

ところで、アメリカの医療のひどさをうったえる対象として、イギリスやフランスの国保が上げられているけれど、実際には、医療負担ゼロの変わりに、イギリスでは、風邪などの軽い病気では、薬なんか出してもらえないらしい。そして、日本だって、国保の充実はあるけれど、赤字続きでだんだん患者負担額は増えていく一方。老人医療費の負担の多さに、いつつぶれるかわからないのが実情だ。

そういう実情が描いてないんだよね。

でもって、ラスト近くでは、アメリカの宿敵のはずのキューバに行く。で、911事件のせいで病気になった人たちを医者にかけて治療するシーンがある。おそろしーい国だったはずのキューバは、社会主義だけど、医療費はものすごく安いし、きちんと直してもらえるし。実は天国みたいなところだった。でも、この映画を見て、アメリカ人がみんなキューバに押しかけちゃったら、キューバの医療システムだって、破綻しちゃうだろーなーと、ちょっと心配になっちっゃた。でも、そんなに売れてる映画じゃなさそうだから、大丈夫だろうか。だって、豊洲で見た時もかなり小さいシアターだったし。あんまり宣伝も見ないし。

医療問題とともに、民主主義を歌い上げて、社会主義を否定して国民を洗脳しているアメリカ国内の実態をも描いているような映画でした。

それにしても、あそこまでひどくなってると、ちかぢかアメリカの保健医療システムは崩壊するんじゃないのか。だって、だれも、医療保険にはいらなくなるでしょう。まっ、そんな簡単じゃないか。



    シッコ@映画生活

         






最終更新日  2007.10.17 11:09:38
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2007.06.28
カテゴリ:外国映画 さ行
西洋の歴史ものは大好きなのですが、今回のは、いまいち。だったような。
「アーサー王」、「アレクサンダー大王」、「エルサレム奪還」ときて、今度は、スパルタかーと、思ったんだけどね。歴史的な史実を楽しむというよりは、スパルタ軍の戦い方の詳しい描写部分を楽しむべきでしょうか。そのあたりがおもしろかったのです。

  スパルタ2

紀元前492年から、449年まで実に四十年以上も続いた、ペルシア戦争。大国として次々に周りを併合していくペルシアと都市国家集合体ギリシャとの戦い。アジアとヨーロッパのがちんこ対決です。

その戦争の中でも特に有名らしい、紀元前480年のテルモピュライの戦い。これがこの映画のお話です。

スパルタといえばすぐスパルタ教育って言葉が浮かぶくらい有名だけど、今の子はどのくらい知ってるのかな。

生まれた段階で身体的欠陥があれば殺し、ある程度育てた段階で森に行かせ、自力で生き残ったものだけが兵士になる。身体的に優秀な人間しか生き残らせないのが、軍人国家スパルタという国らしい。ただ、そうすると、身体的には欠陥があったり、病弱だったりしても、知能の優れた知的に優秀な遺伝子がどんどん生き残れずに削られていくわけで。戦争って兵力だけじゃなくて、知略によって勝利する場合の方が圧倒的に多いのに、体力と軍事力だけで国家を守ろうとしたスパルタは間違ってるんじゃないのかなあ。

もろもろの事情によってこの戦いでは、スパルタ軍の中の精鋭300人だけでペルシャ軍の侵攻を食いとめようとして、そしても最後には全滅。

映画では、そのあとに1万人くらいの兵士を集めて再度戦いを始めるところで終るので、そのあとどうなったのかとか、この300人のやったことがどんな意味があったのかとか、結局どっちが勝ったのかとか、わからなかった。

結果的には、ギリシャ軍が勝利にして、ペルシア軍の侵略を食い止めることに成功する。

映画の中では、ペルシア軍とペルシアの王クセルクセス王は悪者として描かれているが果たしてどんなものだろう。

生まれた子供を選別して殺し、ペルシアからの死者を殺し、勝ち目のない300人の兵隊での戦い。スパルタのやっていることはよくよく考えればあんまり全うじゃない。少数精鋭なんてコトバは嘘っぱちだなあとつくづく思う。

観ていると、まるで太平洋戦争当時の日本とアメリカみたい。どんなに優秀な人材でも、圧倒的な数、物量にはかなわない。どんなに必死でスパルタ軍が戦っても、そのあとからいくらでもやってくるペルシア軍にはかなわない。サイや、象、巨人兵。雨のような矢。

スパルタを何とか持ちこたえさせたのは、大きなラウンドシールドと、槍と結束力だったけれど、後半ばらばらに戦うようになると、だんだん崩れていく。盾も槍も持たないとなると、さすがのスパルタ兵といえども、ただの弱い人間でしかない。鍛えられた体よりも、丈夫な盾を作り出した、技術の方が大きい気がする。

少数による戦いを勝利に導くのは、知力なのだと思う。

歴史上の他の戦いでも、少ない数で勝利を得たのは、戦力ではなく、知力によるところが大きい。

軍事力を磨いて武器を買い集めるより、経済的な力を高めて、国民全体の教育力と知性を上げることこそが日本がこれからも、生き残っていく最大の方法だろうなあとこの映画をみながら考えた。

スパルタは負けたけれど、その戦闘シーンのひとつひとつは面白かった。全員で丸い盾をくっつけて、敵の攻撃を徹底的に防御したり、盾の間から、槍を突き出して攻撃したり、タイミングを合わせて、敵の軍や象を崖から突き落としたり。その部分を楽しむための映画なので、これは、はっきりいって歴史ものじゃないですね。ファンタジーでもすんじゃうかもしれない。でも、これが歴史的事実だからこそ、説得力が出て面白みがますともいえるけどね。もちろん、史実と異なる部分もあるようですが。

  スパルタ

こののち、ギリシャの都市国家は、アテナイの戦略によって最終的には、アテナイの併合されていく。やはり、体力より頭脳の方が強い。

勉強しようぜ。



            



  赤いマントと黒パンがなかなかよかった。この当時の地球ってあったかかったのかな。
   この盾はやっぱり青銅かなぁ。この当時鉄の精製は出来たのかな。


300 <スリーハンドレッド>@映画生活








最終更新日  2007.10.04 18:37:12
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2007.04.13
カテゴリ:外国映画 さ行
「ソウ」シリーズももういくらなんでもこれで締めですよね。

わけわかんなかった『ソウ1』でしたが、完全解説を読んで納得で見た『ソウ2』のラストが納得いかなかった。だけど、この『ソウ3』を観て「なるほど」と思いました。

「命をたいせつにしろ」とか、「医者は死を宣告される患者の気持ちをわかってほしい」というようなメッセージをこめて、次々に奇怪な殺人を犯してきたジグソウですが、『ソウ3』では、「赦し」をメッセージのテーマにしていたようです。

それはまさにジグソウ自身が『赦し』を求めていたように思います。

彼のゲームによって生き残った唯一の被験者アマンダは、そのあとジグソウによってジグソウの二代目になるはずでした。しかし、ジグソウの願いとは裏腹に、アマンダは殺人鬼へと変貌してしまったのです。

『ソウ2』をみると、『ソウ1』で出てきたゲームの参加者の一人アダムは殺されていました。私にはちょっと不思議でした。『ソウ1』のゲームの後でアダムは助かったのではないかと思っていたからです。でも、アダムを殺したのは、なんとアマンダでした。

そして、『ソウ2』のラストで刑事が捕まってしまったのも不思議でした。とらわれた息子を探して必死になっている刑事を見て、少なくとも、ジグソウは気がすんだのじゃないかと思ったからです。にもかかわらず、刑事は囚われてしまった。

これも、アマンダの狂気ゆえだったのですね。そして、そのあと、刑事もまたアマンダに殺されています。
ケリーが殺されたのも不思議でした。ケリーは自分を粗末にしてもいないし、ひどいこともしていない。
それでも殺されたのは、エリック刑事がアマンダにひどいことをしたことへの仕返しでしょうか。

アマンダはゲームのあとでも、ジグソウの「メッセージ」を受け取っていないようでした。彼女の自傷行為は直っていなかったからです。ジグソウのゲームの中で珍しくアマンダの受けたゲームは彼女自身が痛みを味わうのではなく、他人を傷つけることでクリアできるゲームでした。自分を傷つけることが出来る人間が人を傷つけたり、殺したりすることにためらいのあるはずもないようです。

ジグソーは自分の二代目として選んだアマンダが、自分の趣旨とは全く逆の殺人者に変貌してしまったことに、大きな絶望を感じたのでしょうか。

彼は『命の大切さ』を説いているはずなのに。それで、人を殺しているわけで、そこにすでに矛盾があるように思えます。

そして、その結果アマンダのような人間を生んでしまった自分自身の行為は「間違っていたのかもしれない」という後悔の元に今回のゲームでは、「赦し」を求めています。愛する息子を殺されて、復讐心をどうしても捨てきれずにいる男。息子を殺した犯人、犯人に軽い刑しか下さなかった判事、事件を目撃していたのに証言しなかった女。彼がもし、この三人を許すことが出来るのなら、ジグソーは彼自身の罪もまた、赦されるのではないかと考えたのではないでしょうか。

ジグソーが求めていたのは、自分自身が許される事。
そしてまた、アマンダが悔い改めてくれること。殺人をやめてくれること。でした。

しかし、ラストは過酷にも二人の死をもって閉じるのです。彼によって許されたはずの女医リンもまた、夫ジェフの怒りによって殺されてしまいました。

ジグソウは言います。「怒りは自分にかえってくるぞ。」と。
それは彼自身が数々のゲームの果てに実体験したことだったからなのでしょう。

彼のおこした事件は、彼のところにしっかりかえってきたようです。そして、ジグソーやアマンダを赦せなかったジェフにも。

妻リンが人の命を救う医師という仕事についていながら、ジェフが息子を殺した犯人を許せなかったのは、やはり、夫婦の会話がなかったからなんだろうなと思います。妻がもし、普段自分の仕事のことを語り、人の命を救うことがどれだけ大変か夫ジェフに語っていれば、あるいは、夫はこんな怒りと復讐心に何年もとらわれ続けなかったかもしれません。

命を大切にしてほしい。医者は病気の宣告をする時もっと患者の気持ちを考えてほしい。
そして、仕事のために家族を犠牲にしないでほしい。ひどいことをされても、その相手を許してほしい。
そしてまた、自分ももっと寛大な心で人を赦すべきだった。

ジグソウの願いはなかなかかなわないようですねぇ。

ところで監督はこの後も「ソウ4」、「ソウ5」、「ソウ6」、「ソウ7」、と、ずーっとこのシリーズを続けたいらしいです。
ジグソウモ、アマンダも死んじゃったのに、どうやって作るんでしょう。



           

ソウ3@映画生活

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最終更新日  2007.04.13 13:10:07
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2007.02.23
カテゴリ:外国映画 さ行
今回はめずらしく前情報ゼロで見に行きました。
ただ、評判がいいらしいのでとにかく見ようと思いました。

そして、面白かった。感動しました。思わず見終わって涙ぐんじゃいました。
久々のヒューマンドラマだったのです。



ニュージーランドに住む初老のバイク乗りバート・マンローが地球の裏側のアメリカ・ユタ州のボンヌヴィル塩平原のバイク競技大会で世界新記録を打ち立てた実話の映画化です。

私個人ではバイクなんてあんまり好きじゃない。
暴走族とかうるさいし、車と違って、家族で乗ったり出来ないし、あくまで乗る人個人だけの楽しみでしかない乗り物だし、うるさいし、廃棄ガスは環境に悪いし。

でも、そんな私でも思わず主人公バート・マンローを応援したくなって、バイクも悪くないかなあとそんな気持ちにさせられてしまった。

どんなものであろうと好きなことに打ち込んでいる人間っていいもんだ。

はじめは一人でも、好きなことを夢中になってがんばっていると周りがだんだん助けてくれるようになるって、本当なんだね。

そして、どんなところに行っても初めての人に出会っても何のためらいもなく、仲良くなって、そして手伝ってもらったり、助けてあげたり。人間関係の作り方の基本を見るようで、今の社会って人に対して壁をつい無意識に作っちゃうんだけど、全然壁もなく、すぐなかよくなっていくバートは、バイクも人間も世界も大好きなんだな。だから警戒心もなんにもなく、ただひたすら自分の夢のために突き進んでいく。すばらしい。

でてくる人がみんないい人たちで、みんな惜しみなくバートを手伝ったり、助けてくれる。話が出来すぎているようにも思えるけれど、でもそんなことはどうでもいいやと思えるような映画です。そして、そんな風に周りが彼を助けたり、応援したりしてくれるのは、やっぱりバートの人柄や生きる姿勢が思わず助けてあげたくなっちゃう気持ちにさせちゃうからなんだと思う。

小さな運搬船に乗り込んでなけなしのお金で地球の裏側まで行って、中古車を買ってバイクを引っ張りながらたった一人でボンヌヴィルまで行くなんて、こんな無茶なこと普通は若者じゃなきゃやらないんじゃないかと思う。それを六十代の老人がやってるんです。心臓も悪いし、もういつ死ぬかわからない。だからこそ、先の心配や将来や家族なんていうしがらみがない分好きなことが出来るわけなんだけど。

でもこんな老齢になってこんな無茶なこと、なかなか出来ないよね。

バートの住んでいるところは車庫のようなコンクリの四角い小さな小屋。いい服もいい家もお金もない。同居の家族もいない。でも彼はとても幸せに見える。人生に対しての愚痴も失望も何にもない。ただ大好きなバイク「インディアン」があるだけだ。そして彼はある日長年の夢だった塩平原に向かう。

人生の幸せって、お金とか大きなお屋敷とか、ご馳走とかいい衣服とかブランド品とかそんなものじゃないんだ。大好きなものがあってそれが出来さえすればそれが一番幸せなことで、そうしたらそれ以外のものなんてどうでもいいんだよ。

だから私もこんな晩年が送りたいなあと思う。

どこでのたれ死んでもかまわない。大好きなことをしている途中なのなら。


ところでこの作品。実は「外側から見たアメリカ」という視点でもある。主人公のバートは白人で、英語もしゃべれる。その状況で地球の裏側のニュージーランドからはるばる船に乗ってやってくる。

時代は1960年ごろ。まだまだ豊かでのんびりした時代のアメリカではあるけれど、その一方でアメリカはベトナム戦争をしていた時代。バートは旅の途中でベトナムの戦場から一時帰国した兵士を乗せる。

又、アメリカについて入国審査の時に入国理由を問われてバートは「インディアン」と言う。これは彼のバイクの名前なんだけれど、この「インディアン」という単語のせいで、個室に呼ばれてしまう。彼は詳しく説明してバイクレースのために来たことを説明し、理解してもらうことが出来るのだけれど、このシーンにもアメリカのこの時代の社会的背景をちらりと見ることが出来る。

そのあと彼が泊まるモーテルのフロントの女性が実は男。バートはやさしく認めてあげて二人は友達になるけれど、この時代ってまだゲイに対して社会的には許容されてなかったはず。

バートは若い頃に買ったバイクを愛してメンテナンスをしながらずーっと乗っている。新しいもの、最新のものがいいとされるのがほとんどなのに。古くなってもそのまま一つのものを愛して大切にしているバートの姿もいいなあと思う。

誰とでもすぐに仲良くなってしまうバートを私も好きなったし、この映画を見たほとんどの人も好きになったはずだと思う。そんな映画だった。


             


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最終更新日  2007.05.13 19:37:55
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