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ふつうの生活 ふつうのパラダイス

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外国映画 は行

2011.01.22
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カテゴリ:外国映画 は行
世界一のSNS「フェイス・ブック」をつくった、マーク・ザッカーバーグの物語。

さて、この映画をみて、最大のポイントは、マーク、本当にいやなやつなのか?
というところ。

フェイス・ブックをつくるために、友達をきりすてる、いやな奴というかかれ方。
しかし、そもそも、彼は、友達をつくろうとか、周りの人間を友達だとか、おもっていたのだろうか。「フェイス・ブック」を作る。これは、あきらかに、ビジネス的行為だ。

普通は、大学は、勉強して、友達をつくって、社会に出る前の段階の場所だ。そして、社会にでてから、ビジネスという視点での対人を学んでいく。ビジネス社会では、人間性以前に、まず、組織の仕事の利益を上げることが最優先。そのためには、ひとを切り捨てたり、非人間的な行為を涙をのんで、やらなければならなかったりする。

そして、マークの場合は、その能力ゆえに、すでに、大学という場所でもうビジネスになっていた。大学の周りの人間たちもまた、彼のビジネスのための人材にすぎなかったのではないのだろうか。

彼にとって、ハーバード大学という場は、学生生活の場でも、人間関係育成の場でもなく、すでに、ビジネスのための場所であり、彼の意識の中はもうすでに、ビジネス視点、ビジネス的価値観になっていたのでは。

そこが、普通の学生たちとの決定的な違いであり、周りは、学生同士の、友人的なつながりとして、マークにかかわっているゆえに、彼の中の認識にきづかない。それが、マークと、彼にかかわる人間たちとのあいだで、ずれが生じる理由なのでは。

マークは、ウィンクルボス兄弟からは、SNSのアイデアだけをもらうけれど、共同経営者としては、認めなかった。また、友人の、エドゥアルドにたいしては、出資者という視点でしかみていない。

だから、エドゥアルドが、口座凍結した段階で、すっぱりときりすてている。

この一連の行為は、友人関係としてみれば、ひどいけれど、ビジネス社会の関係であれば、どこでもやっている普通のことなのでは。マークが大学生ゆえに、人間性という視点でみてしまうけれど、マークは、そのスペシャルに有能な能力ゆえに、大学時代すでにもう、ビジネスという世界にすんでしまっていたのだろう。

かくして、マークは、世界に冠たるSNSのサイト「フェイス・ブック」を作り上げ、ビジネスとしての、成功を収める。

けれどそれではいったい、彼はどこで友人をつくり、どこで、人間らしい生活と、関係性を手にいれるのだろうか。

その優秀さゆえに人より先に一足飛びにビジネス社会に飛び込んでしまったマーク。
普通の人間たちが学生という意識から、ビジネスマンとしての認識、価値観に移行していくことに苦労するものなのに。


ところで、この映画をみていて、なぜ、アメリカではネット上の名前に実名を使い、日本では、ハンドルネームを使うのかよくわかりました。

フェイス・ブックは、そもそもは、ハーバード大学内での、学生名鑑を作るためのものであり、これを通して、実際の学生どうしの交際を助けるためのもの。だから、実名でなければ、意味ありません。

けれど、日本では、まず、ネット上での掲示板など、うっかり中傷など書いたり、ネット上で、もめたりすれば、リアルでのしかえしがあったりしました。そんなことのあとでできたのが、ミキシィなので、うっかり、ネット上に実名をだせない土壌ができてからのSNS。

しかも、SNS登録の際に実名をいれておくと、検索でみつけられてしまう危険性もあり、すでに、日本のネット内では、実名は使えない状況ができあがってしまっているから。




さてこの映画、シナリオのテンポがものすごく速く、過去と未来の場面が交互にでてきてたりして、結構わかりにくいです。ぼーっとしてると、ちんぷんかんぷんだったりします。
とくに冒頭のエリカとマークの会話シーン。結構重要なのに、最初のシーンなので、よくわかんないで、集中しないで、みてると、わけわかんなかったりして、大事な部分を見落としてしまいます。

とくに、おもしろかったのかも、わかんないですが、とにかくテンポがはやいので、飽きることはなかったかも。

とりあえず、時代の話題作なので、みておいてもいいかも。


      
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ソーシャル・ネットワーク@ぴあ映画生活











最終更新日  2011.01.22 10:31:18
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2010.05.14
カテゴリ:外国映画 は行
大賞をとるほどの作品が、なぜ日本公開されなかったのだろう。
そして、上映館もとても限られていて、観客もすこぶるすくなかった。
戦地での爆弾処理班の活動と主人公の心の変遷を追いかけていく、ハードで、地味で、でも嘘くさい派手さのない映画は、それなりに面白かったと、思う。

戦場で、生き残るのと、普通の日常の社会の中で生き抜いていくのと、いったい、どっちが大変なんだろうかと、ふと、考えてしまった。

普通であれば、戦場の方が過酷であろうと、誰もが思う。
実際私も、戦場なんて、行きたくないし。

でも、けれど、実際のところ、平和であるはずの普通の社会の中であっても、生き延びて、生き続けていかなければならないのは、それはそれで、それなりに、結構過酷でしんどいことだ。と、思う。
実際そのハードさに、自殺する人々も何人もいるじゃないか。

ラスト近くになって、主人公は、爆弾処理班として、イラクの地での過酷な任務を終えたあと、平和な本国に戻ってくる。休日のスーパーでの買い物。何気ない平和でのどかな日常。
けれど、その巨大スーパーの中で、フロアの端から端まで並ぶ、シリアルを見たとき、主人公はどれを選んでいいのか戸惑う。
物の溢れる巨大スーパーの中で、欲しいものも見つけられない。
大きなカートのなかには、一つか二つしか入っていない。

すべてが平和で自分の意志で選びとって生きていける、
いや、生きていかなければならない、平和な生活は、あるいは、戦場以上に過酷なんだろうか。

戦地にいれば、すべての食料も、住まいも、衣服も、仕事も、すべて、軍から与えられる。そこに、選択肢も、迷いも、戸惑いも、ない。ただ、死への不安だけがあるだけ。

任務を終えて、本国に戻った主人公は、ラスト、結局また、戦地にと戻ってしまう。常に死と隣り合わせで、生き残ることに必死のハズの戦場が、主人公にとっては、平和な本国よりずっと、生きていくのが楽なところだったのだろうか。

平和で豊かな今の現代社会。
それでいながら、その選択肢の多さと、本当はとても、過酷で、仕事につけなければ、いつ路頭に迷い、住まいも金も食べ物もなくなって、生き続けることができなくなってしまうかもしれない過酷さは、普段はなかなか見えなくて、気づかないけれど、

とてもとても、きつくて、 きびしいところだったりする。

タイトルのハートロッカーは、ココロが壊れた人ってことらしい。
せっかく平和な本国にもどってきたのに、戦場のスリリングさが忘れられなくて、結局また、戦地に戻ってしまう人たちがいるらしい。平和な社会に暮らす私たちからみれば、スリリングで人殺しの当たり前な戦場の方がいいなんて、壊れてると、思うけれど。
では、彼らの心の中には、何があるんだろう。

ちょっと前に話題になった映画「父親たちの星条旗」でも、メインキャラクター3人のうちのひとりは、本国での暮らしの辛さにもう一度戦地もどってしまった。そんな部分があった。かれは、戦地の快楽をもとめたのではなく、苦境の中で仲間同士助け合っていく温かさの方が、平和でありながら、他人を見下し厳しくせめぎあっていきていかなければならない、本国の暮らしよりずっとずっと生きやすかったのだろう。

戦地から本国に戻って、また、戦地にと戻ってしまう兵士たちの、心のなかには、何があるんだろう。彼らの心を破壊したのは、戦場の快楽なのか、それとも、平和でありながら実はとても過酷な人々のどよめく本国の普通の暮らしの中なのだろうか。。



     











最終更新日  2010.05.14 23:39:40
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2008.11.28
カテゴリ:外国映画 は行
やっぱり英国史って、面白いですね。世界史は全般的に好きなんだけど、なぜか不思議と特別な魅力のあるのが英国の歴史ですね。十六世紀以降世界制覇した国の歴史ですからね。

エリザベス』、『キング・アーサー』、『トリスタンとイゾルデ』、『クィーン』などなど、最近イギリスの歴史物が多くて楽しいです。

で、エリザベス一世のお話二つの後にとうとうそのエリザベスのお母さんの話。アン・ブーリンを主役にした話はかなり昔に『1000日のアン』という映画も作られているのです。それも見たいなあとは、思っていたのだけど、なにせ古い映画なので。

   ブーリン家の姉妹


美しくて優しいだけでは、だめなのだ。

映画の冒頭でアンのお父さんがいうセリフです。
結構意味深で、映画全体のテーマに大きく関わるメッセージなのではないのかなとも思ったのです。

裕福な商家から、アンを嫁に欲しいとのお願いに、ブリーン姉妹のお父さんは、頭がよいアンより、心優しい妹のメアリーの方が向くだろうということで、メアリーを結婚させます。このメアリーの性格を美しく、やさしいと、父は言うわけですが、でも、それだけじゃだめだとも、いうわけです。そして、頭のいい姉のアンを当時子供のいなかったヘンリー8世の愛人にして男の子を産ませて、ブーリン家を繁栄させようと画策するわけです。

けれど、頭がよくても、自分のことばかり考えてるおてんばなアンより、心やさしく気配りのできるメアリーにヘンリー8世は心奪われてしまうわけです。

このお話の中のアンは、頭はいいけれど、すごく性格悪いです。とにかく自分のことばかり考えているのですね。自分が将来得するためには、妹のことも、弟のことも犠牲にしても、自分の不幸に巻き込んでも気にしません。王のハートを射止めるために、その優秀な頭脳を使って、狡猾な策略、手練手管を駆使するのです。

この物語はとにかく、メアリーと、弟と、お母さん以外はほとんど全員が自分のことしか考えていない、性格の悪い奴ばかりです。

そして、そのためにほとんどの人たちが不幸な末路をたどった末に、美しく心優しいメアリーだけが生き残り、再婚して幸せな生涯を送るわけです。

では、自分のことばかり考える性格の悪さを批難して、心優しく人のために生きることを賛辞する映画なのでしょうか。

表面のストーリーだけを見ればその通りです。ヘンリー王も、優しいメアリーには、最初も最後も優しく、そして、惹かれるわけです。

けれど、国を統治して、一人孤独と戦いながら、常にきびしい決断をしていかなければならない一国の王を産まなければならない、国王が、美しく心優しいという理由だけで、妻や愛人を選び、世継ぎを作ると、その世継ぎは将来、その優しさゆえに、一国の支配者としては、不向きなのでは。

子供というのは、母親の遺伝子を受け継いでいるわけですから、優しい女性は妻や愛人としては、とてもいいものかもしれません。が、一国の支配者としては、明晰な頭脳、狡猾さ、計算高さ、目的のためには、手段を選ばない強さ、たくましさが求められるわけで、まさにそういうものをもっていたのが、この物語の主人公であり、一見性格悪い悪女とすらみえるアン・ブーリンなのではないのでしょうか。

ヘンリー王は、その巧みさに一度は、アンに惹かれますが、結局のところ計算高すぎて、女性としてのアンに愛情を感じ続けることができませんでした。

それでも、アンは、女の子とはいえ、一児をもうけ、その女児が将来エリザベス一世となって、イギリスを世界有数の大国へと、成長させていったわけです。そのエリザベスの中には、母であるアン・ブーリンがもっていた、頭のよさ、狡猾さ、たくましさが引き継がれていたのです。

アンの背信によって、アンは斬首され、ブーリン家の父も、義父も後年悲惨な末路をたどるわけですが、彼らの計算済みか、予定外かはわからないその計略によって、エリザベス一世は生み出され、大英帝国はきずかれたわけです。

美しく心優しいのは、人としては、普通の人としては、徳のあるすばらしいことではあるけれど、一国の王に望まれものは、それとはちがうもの。そして、そのためには、王もまた、世継ぎのために、耐えなければならない部分も、考えなければならない部分もあるのでは。

たくさんの人々がうごめき、策略し、地獄と紙一重のような、英国王宮の中で、王も后も、愛人も臣下たちも、あえぎ苦しみながら、英国の歴史は作り上げられていったのですね。

二時間ちょっとの上映時間でしたが、まったく飽きることなく、見終わりました。アン・ブリーン役のナタリー・ポートマンも、それ以外の役者さんたちもすばらしい熱演で、心にせまってくるものがありました。

おもしろかったです。



ブーリン家の姉妹@映画生活

       













最終更新日  2009.09.17 07:56:52
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2008.10.01
カテゴリ:外国映画 は行
一時間半と、予定外に時間の短い作品。のわりに、意外と内容は、濃かったような気がします。

しかし、アメリカ大統領が、テロ撲滅というテーマで演説する場所としては、あの周り中窓だらけの場所というのは、ありえない気がします。いかにも、撃って下さい、殺してくださいと、いわんばかり。警備もかなり手薄だし。たった一人の男に、大統領の命が任されちゃうというのも。

そして、カーチェイスは、かなりハードで、見ごたえあるんだけど、よその国の街中を壊しまくりだし、自分の国の大統領のために、こんなによその国を壊しながら、町の人の危険も顧みずに、走り回っていいものなんでしょうか。

それでも、最後は、あれだけ人を殺しまくった人たちが、心の中の一条の光を見せてくれる。このお話は、つまり、性善説なわけですよね。

もうどうにもならないどうしようもないとう、極限状態で、おもわず、取った行動が、人の心の本心、根のところにあるもの。そうであって欲しいと、思いますが。

しかし、爆発現場でいきなり、母親のいない女の子をさっき会ったばかりの初対面のおじさんが勝手に連れ出しちゃったり、事故現場でばらばらになって、はぐれたお母さんが、かなり離れたところに居たり。ストーリーは、見ごたえあって、面白いんだけど、あまりにも、ご都合主義な展開は、ついていけません。いまいちうれなかったのも、そりあたりが原因かも。



                


  バンテージ・ポイント@映画生活









最終更新日  2008.10.03 07:00:17
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2008.08.25
カテゴリ:外国映画 は行
出来は悪くないとは、思う。でも、前二作をみているハムナプトラファンにすれば、肩透かしを食らった気分だ。エジプトが舞台になってないものはねやっぱりハムナプトラとはいえないかなあ。

中国を舞台にすると、かなり重厚な面白いものが出来るけれど、この作品では、十分な中国についての情報調査、資料調査がされていないまま、中途半端にとりあえずの知識だけで、作ってしまっていて、底の浅い作品になってしまった。万里の長城をつくった皇帝といえば、明らかに秦の始皇帝なのに、今回その中国では重要度抜群の始皇帝がただの、悪霊の大ボスとして、物語で使っているという、安直さ。西洋よりは、中国にくわしい日本人にすれば、違和感ばりばりで、なんかかなりちがうーという感じ。

兵馬俑が動き出して、戦争を始めたら。という、アイデア自体はおもしろいんだから、ハムナプトラとは離れて、もっと舞台設定をこって徹底的に中国の話として作れば、かなりいいものができたはずなのにと、思う。

今回は、ヒロインがレイチェルワイズじゃなくて、変わってしまっていた。ハムナプトラシリーズは、レイチェルワイズだからこそのよさなのに、そのいちばん重要なヒロインがかわってしまった時点で、これはもう、ハムナプトラじゃないんだけどね。

エジプトねた自体過去に既にたくさん作られていて、新しいものじゃないところを、ハムナプトラ独特の展開ゆえに面白かったのに、残念。監督が前二作とは、ちがうのでもう、その時点で、ハムナプトラじゃなくなってるのでしょう。

それから、いままでは、この手の冒険物で特に気にしたことなかったんだけど、考古学者なのに、自分の発見した遺跡に対しての扱いがひどい。ろくな前調査もなく、いきなり、ずかずか遺跡に入り込んだ挙句、仕掛けにひっかかかって、遺跡を壊したり、遺跡の中で拳銃ばんばん撃ってたり。貴重な遺跡を破壊して平気でいる辺り、考古学者の人がみたら、怒り出すんじゃないのかな。

貴重な兵馬俑を破壊しても平気で、今回の悪役の皇帝の遺体だけをありがたがって運び出していたり。そんなことしたら壊れるし、ありえないきがする。監督は、兵馬俑の歴史的価値も、万里の長城の歴史的価値もたぶん、まったく分かってない。

今回、中国政府から、手直しを要求されたのも無理からぬことだと思う。それで、直しても、これなんだから、中国政府もずいぶん甘くなったものだ。

西洋の目から見た中国って所詮こんな程度なのかも。

今回の作品は、ハムナプトラの人気による集客をねらった別作品ですね。

それにしても、一作目からわずか9年、三作目ですでに、一作目ではやっとカップルになったばかりの主人公とヒロインの子供がすでに大学生。映画の中の時間の進み方早すぎる。ジュニアがててくる段階で、すでに、インディジョーンズの二番煎じにしかみえなくて、そもそものこの夏の新作インディジョーンズ自体が、いまいちだったのに、ここでもまた、似たような設定って、なぜに。

もうこのシリーズはつくられないでしようねえ。

それとも、シリーズ四作目ができたら、今回のことに懲りずに見に行くなんていうバカをしてしまうかもしれない。



       


       ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝@映画生活









最終更新日  2008.08.25 08:57:07
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2008.06.23
カテゴリ:外国映画 は行
キリストが、捕まり、鞭打たれ、罵倒され、十字架を背負って、ゴルゴダの丘で処刑されるまでの、物語。

聖書の描写だけでは、漠然として、イメージしえなかったキリストの受けた拷問、苦難。鞭打たれて、皮膚はめくれ上がり、血まみれになり、いたぶられ、なぐられ、つばを吐きかけられ、何度も失神し、倒れながら、ゴルゴダまで十字架を背負って、あるかされていく、壮絶な苦痛にあえぐキリストの最後の数日間が克明に映像化された映画です。ものすごく痛そうで、すごいです。

      パッション


神というものが、もし、肉体を持たないとのだとしたら、神には、人の苦しみも、なぜ人が悪事をはたらき、盗みをし、争いあうのかもまた、理解できないのではないだろうか。

動物たちまでを地上に作り上げて、ふっと、自分と似た生き物を作りたくなる。知能を与えて、人間を作ってみる。けれど、神の作った人間は、争いやら、盗みやら、そのほかいろいろ、悪いことばかりしている。日々、悪いことばかりして、いく。いったいどうして、人間たちはあんなにも、悪いことばかりするのだろう。けれど、神には、肉体がないから、人間たちの痛みがわからない。肉体があるから、腹がへり、だから、物を盗む。だから、争い、戦争をする。自分の肉体を肉体として、維持し続けていくために。

けれど、神自身が人間になることは出来ない。だから、神の代わりに、肉体をもつ人間の、痛み苦しみ悩み迷いを、神に伝えるために、キリストは、地上に、肉体を持つ人間として、生まれでて、肉体のもつ痛みを神に伝えなければならなかった。キリストは、これ以上はもう、並みの人間では耐えられないだろう痛み、きず、拷問を受け続けて、そして、生身の人間ゆえに息絶える。その時初めて、神は、肉体の痛みを実感し、一粒の涙をこぼす。

他者の心の痛みが理解しずらいように、肉体の痛みもまた、他人には、理解しずらいものなのだろう。映画を見ながら、キリストの受けている痛みにずきずきしている観客とは対称的に、キリストの辛さなどいっさい自分とは関係ないというように、キリストを最後までいたぶり続けるローマ兵たち。このローマ兵と同じように今の社会でもまた、他人の痛みなどいっさい感じずに、自分の仕事だけを忠実にこなしていくような、人間がいるんだなあと、ふと、思った。

肉体をもつ人間でありながら。

他者の痛みを人はどこまで共感しうるのだろう。痛みというのは、あくまで、自分が経験した痛みの延長線上までしか出来ないだろうと思う。健康であれば、病人や、けが人や、歩けないもの、手を動かせないもの、自分が簡単に出来る動作を、苦痛をともないつつやっとこなしている人たちの思いをどこまで理解しうるのだろう。

共感や、思いやりとは、思う以上に難しい。

実体験なくして、他者は理解できない。

地上の人間たちの痛みや迷いを神に伝えるためにあった、キリストの人生、生涯、使命。人間たちのためにささげられたキリストの苦痛。それは、どこまで神に伝えられたのだろう。



さて、ユダヤ民族というものが、なぜ歴史上こうまで不幸な目に合い続けるのか。とても、不思議な民族だと、思っていたのだが、この映画を通して、キリストを殺したのが、ユダヤ人たちだったのだと、知った。なるほど。西洋世界で絶対的存在であるキリストを殺した民族だからなのか。だから、あんなにも、西洋で、迫害され、蔑視され、虐待され続けているのだ。もちろん、キリストを殺したのは、紀元当時のエルサレムのユダヤ人たちであって、今現在に生きているユダヤ人ではないのだし、それをえんえん 2000 年かけて、償いつづけなければならないというのは、大変だ。それにもかかわらず、ユダや人たちが、ユダヤ教を捨てないのも不思議。そして、聖書の前半においてえんえんと、キリストと対立するはずのユダヤ民族の歴史を描き続けているのもまた不思議な話だ。

けれど、また、聖書に書いてあることが真実とも限らない。本当はやはり、キリストを殺したのは、ローマ人かもしれない。だから、それが言いたくて、ユダヤ人は、ハリウッド映画でなんども、キリストの物語を映画化しているのかもしれない。ハリウッドの映画では、キリストを殺したのは、ローマ人なのだ。

それに対立するように、映画の掟をやぶって、聖書どおりに作られたのが、この映画なのだ。

これは、決して、永遠に真実のわからない、歴史のミステリー。そして、ユダヤ民族と、キリスト信者との永遠の対立の物語だ。


キリストの痛みを神はどこまで理解しえたのだろう。


             


      パッション@映画生活









最終更新日  2008.06.23 12:03:26
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2008.06.14
カテゴリ:外国映画 は行
前作で監督がもともとやりたかったストーリーどおりに作った映画だと思います。

ようするに、前作はいろいろ手が入って話がかわっちっゃたので、もう一回原点に返って作り直した。そういう感じです。ただ、二回も「本番」のシーンをあんなに時間かけて描写しているので、なにか、18禁映画を間違って借りてきたのかもなんて気がしてしまいました。

あんなに恋人を愛してるはずの主人公ニックが、タイムジャンプした途端、言い寄ってきた美女とすぐに関係しちゃうなんて、この主人公なに考えてるんだろう。

まあ、ようするに、自分の周りの嫌なことを否定するということは、自分の人生を否定すること。それは、つまり自分自身を否定することなんだろうと。

どんな辛いことも、嫌なことも、やはり、自分という人間を作るために神様から与えられた運命なのだとしたら、やはりそれに耐えて生きていかなければならないのでしょう。それを否定して、嫌なことのあるたんびにタイムジャンプして、人生をいい事だけのように修正していくと、結局自分自身がなくなっちゃう。いやなことから逃げてると、自分というものを作り出せなくなってしまう。

で、物語結末としては、当然、自分を消去することでしか、問題を解決できなくっちゃうという、前作の別エンディングと、同じ結末になるのですね。

でも、私もやはり、前作の方が好きです。今作には、いまひとつ重厚感がないです。

でも、ニック役の人、まつげ長かった。そればっかり見てたかも。

もしかすると、最後にでてくる赤ちゃんが「バタフライエフェクト1」の主人公なのかも。だとしたら、この結末は必然で、エヴァンが誕生澄めた目の運命の流れに過ぎなかったとしたら。運命を自分の意志で変えているはずが、結局はお釈迦様、神様の手のひらの上にいただけかもしない。うーん。それって、怖い。こわすぎる。



               


バタフライ・エフェクト2@映画生活



    






最終更新日  2008.06.14 11:53:03
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2008.02.12
カテゴリ:外国映画 は行
なぜこの作品において監督は原作とは違う結末を用意したのだろうか。

期待して見た『羊たちの沈黙』の続編であるが、なにやらよくわからない。
というか、ストーリーの中で役者たちのセリフによって、前作『羊たちの沈黙』の説明が出てくることでてくること。

つまり、レクターがクラリスにバッファロー・ビル事件について説明し、クラリスに対して親切だったのは、クラリスがレクターに対して礼儀正しく接していたからであること。礼儀正しく接っすれば、決してレクターは殺人はしないこと。

レクターが殺すのは、、彼に対して、侮辱したり、罵倒したり、無礼な態度にでた相手に対してであること。

つまり、ここまでセリフできっちり説明しないとならないほど、前作『羊たちの沈黙』は観客に理解されなかったのだろう。
それは、やはりホラーサスペンスゆえの怖さをだすために、必要以上におどろおどろしく作ってしまったためでもあるかもしれない。

クラリスが牧場で義父が子羊を殺すシーンを見てショックを受けたことに対して、もしかして彼女が義父によってセックスを強要されたシーンなのではないかとか、実の父とのことがクラリスには、トラウマになっているのではないかというような、作品本来の意図とは違う方向に観客の裏読みを誘導してしまったせいかもしれない。

また、アンソニー・ホプキンスの演技が懲りすぎて、必要以上に怖いレクター博士が演じられた結果、「ものすごく怖くてその行動原理を全く読めないモンスターとしてのレクター博士」が、製作者の意図する以上の一人歩きをしてしまったためかもしれない。

結果としてそのレクター博士像が観客の人気を呼んでしまったのだが。

それにしても、セリフでの説明がありすぎ。そして、ここまで説明しないと続編のストーリーは成り立たないということか。

けれど、前作のレクター、クラリスと、今回の二人はどうにも違う人物になっているようだ。

今作のクラリス役、ジュリアン・ムーアは女性らしい色気がありすぎるし、前作でジョディ・フォスターが演じたクラリスのような礼儀正しい態度をレクターに対してとっているようには見えない。全くの別人のようで、役の解釈がまるで違う。

それは、彼女自身の解釈による演技なのか。それとも、監督の目指すテーマゆえの演技なのか。

そして、友情であったはずの二人の関係が恋愛になってしまうというのは、いただけない。

脱走して世界中を巡り歩いた結果、クラリスほどの女性はまずめったに存在しないことにきずいたレクターは、やがて、クラリスへの感情が友情から恋愛に変わっていってしまったのだろうか。クラリスにあえて、黒い女らしいドレスを着せるなど、クラリスが女性になることを望んでいるように見える。

あくまでも友人であったはずのレクターに対して、クラリスはこれ以降恋愛感情をもつようになるのだろうか。

レクターは、世界中を一人で放浪した末に、彼の孤独を埋める存在としての同胞として、クラリスを求めたのか。
だとすれば、この作品は前作の児童虐待とはまったく違うテーマを持っているはずだ。

自分という存在を理解しない世界への怒り。どれほど殺人をくりかえしても、レクターの殺人の行動原理を理解しない世界。
身を尽くして働いても、FBI捜査員としてのクラリスの価値を認めないFBIという世界。

けれど、レクターの求めにクラリスは応じない。

前作のようなクラリスとレクターだけの心の通じた世界を感じない。

レクターはまったく別の伴侶を探すしかないのか。

原作ではクラリスに食べさせはずの脳みそを、旅客機の中で、まったく見ず知らずの少女にたべさせるレクター。
クラリスではなく、別の恋人を探すために、レクターの孤独な旅は続くのだろうか。

レクターやクラリスの行動と心中を世界が理解しないように、「羊たちの沈黙」が訴えようとしたテーマも、観客たちは理解し得ない。
映画製作者の孤独もまた同じなのだろうか。

それでも、次世代の観客たちがいつかは理解を示すかもしれない。


前作では、あくまでその深いテーマ性を描ききった作品であるが、今作「ハンニバル」においては、制作サイドは「得たいの知れない殺人モンスターとしてのレクター博士」という観客がのぞむレクター像を描き出して、集客することにポイントをおいた作品作りをしているように思える。観客が理解しやすいわかりやすい、そして、怖くて残虐なホラーとしての「ハンニバル」を作ろうとしたらしい。だから、「ハンニバル」において、レクター博士の殺人は、彼にたいして無礼な態度をとった相手を殺すという基本ラインを脱して、観客の望むような必要以上に残虐なモンスターレクター博士に変化しているようだ。


前作のテーマは意識しつつも、残虐すぎて、前作の持つ品格やテーマ性が抜け落ちてしまっているかもしれない。

こうなると、次の作品には期待出来ない。残念である。

しかし、名作イコール理解しづらい難解な映画。それゆえに、せっかく名作を作りながら、その作品の訴えようとするテーマがうまく観客につたわらない。作品の中にこめられたメッセージは遠まわしすぎればわかりにくい。けれど、ストレートにセリフにしてしまえば、白々しくて、説得力のある感動を観客に与えない。また、劇場公開ゆえにわからなかったところを何度も見なおして、作品を理解するという行為がしづらいという映画ゆえのジレンマを映画はどう克服していけばいいのだろうか。

名作であり、なおかつ観客にわかりやすく、そして、なお、テーマ性も娯楽性もかねた作品づくりは、映画においては、永遠の夢なのだろうか。


レクターやクラリスの行動と心中を世界が理解しないように、『羊たちの沈黙』が訴えようとしたテーマも、観客たちは理解し得ない。
映画製作者の孤独もまた同じなのだろうか。

それでも、次世代の観客たちがいつかは理解を示すかもしれない。

頭部を切り開いて脳みそをたべるシーンはものすごく残虐で、えぐいけれど、私にはこれが、相手の脳みそを食べるイコール相手の考えていることを理解するという暗喩表現と思えなくもない。
監督は作品にこめて自分のメッセージを自分の脳みそを観客に食べてほしいといっているのかもしれない。
はたして、観客はどこまで理解してあげられるだろう。

レクターから少女が脳みそを食べたように、
映画監督の脳みそを食べてくれる観客はあらわれるのだろうか。


        







最終更新日  2009.11.23 06:51:24
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2008.02.05
カテゴリ:外国映画 は行
なぜアメリカにおいて、あれほどに連続殺人を犯す犯罪者が多くでるのだろうか。

ジョディー・フォスター、アンソニー・ホプキンスの名演によって話題となった作品だが、製作は1990年とかなり古く、このてのホラーサスペンスで残虐な話はあまり好きではないのでいままでみなかった。けれど、年初のテレビ番組『ローマ1000年史』で「ハンニバル」が誰なのか知って、同じ名前の登場人物のでるこの映画にも興味がわいて今回初めて見てみました。

ただの、ホラーサスペンスとはいえない奥深さは、かならずしも、二人の名優による演技だけではなく、物語自体のテーマの深さと、多重構造のストーリー構成ゆえだろうと思う。

皮膚をはがされた女性死体事件の犯人バッファロー・ビルを追って、FBI訓練生のクラリス・スターリングは、人肉を食らうことで精神病院に収監されているもと精神医ハンニバル・レクターと、対面する。

この映画において、「羊」はとても象徴的だ。

この物語において、犯人はなぜ、何人もの女性を殺したのだろう。それは、女性を殺すこと自体が目的なのではなくて、女性の皮、皮膚がほしかったからだ。犯人ジェームズは女性たちの死体から皮をはいでそれを縫い合わせた。彼はそれを「着る」ことで女性に成り代わろう、変身しようとしたのだ。

ではなぜ彼は女性になりたかったのだろう。

かつて彼は幼年期において母親からひどい虐待を受けていた。死ぬことこそなかったものの、この虐待によって彼は精神的な傷をおった。その傷ゆえに彼は彼自身によって彼自身の存在を否定した。彼は死ぬ代わりに、他の人間になることで自分の人生をやり直したい、自分ではない人間になりたいと考えた。けれど、病院で性転換手術を拒否された彼は、自分自身で女性の皮をつくり、それを着ることで女性になれると思ったのだろう。彼を虐待した母親そのものになることで、彼は彼の人生を乗り越えることが出来ると考えたのかもしれない。

クラリスは、早くに母を失い、たったひとりの肉親である警察官の父も、10歳で失う。警察官である父を愛し、尊敬していた彼女は、そのあと、馬と羊を飼う牧場に引き取られる。ところがある日、クラリスは、義父が羊を堵殺する場を見てしまう。面倒を見て日々を一緒にすごし、かわいがっていた羊たちが殺される場面は、彼女には相当ショックだったろう。もともと牧場に生まれて幼い頃からそこで暮らし、育っていれば、牧場で飼う、馬や羊が食用のものであり、やがては殺されて食肉として売られていくのは当然のことと知っているはずだ。けれど、10歳になってから突然牧場にやってきたクラリスにとってはじめてみた堵殺のシーンは相当の衝撃だっただろう。まして、警察官を父に持つ正義感の強いまだ子供のクラリスにとっては。商売道具としての羊をにがされたら、牧場主である義父は困るはずなのだが、そんなことよりも、目の前で殺されていく羊たちにたえられない。クラリスは羊を逃がそうとする。

けれど、ゲートを開け放たれて、逃げられるようにしてもらっても、羊たちは逃げようとしない。自分たちが殺されることもしらないし、生まれた時から餌をもらって育てられた場所以外に行くところを羊たちは知らない。いまいる場所が怖いところだということも知らない。自分たちを面倒みている牧場主がやがて自分たちを殺すことも知らない。

逃げようとしない羊たちにがまんできず、せめて一匹でもいいから助けたいと思ったクラリスは、一匹の子羊を抱いて逃走する。けれど、たかだか10歳の少女が走って逃げたとしても、逃げ切れるはずもなく、あえなく、つかまってしまう。

その後、羊を逃がすような子供を置いておけないと義父が考えたからなのか、クラリス自身がそこにいたくなかったからなのか、クラリスは他のところにうつっていったらしい。
けれど、正義感の強い彼女にとって羊を助けることが出来なかったことは痛い後悔となってずっと心にのこることになったのだ。

人肉を食べるレクター博士にとって、彼の周りの普通の人間はただの食料なのだろうか。牧場にいる羊のようなものか。けれど、彼のまわりにいる人間たちは、自分たちが博士の目から見て羊に見えているなんて気がつかない。

彼は、飢えをしのぐために人肉を食べるのか。それは、肉体的な飢えなのか。それとも、精神的な飢えなのか。

人間が肉体的な飢えを満たすために食料を、肉を、羊をたべるように、殺人犯バッファロー・ビルもまた、精神的な飢えをみたすために、殺人をしたのだろうか。女性を殺し、その皮をはぎ、その皮で彼が女性になるための「服」をつくることで、彼の精神的な飢えをみたそうとしたのだろうか。

彼の目的は殺人ではなくて、女性の皮を集めることだった。殺人はその結果だ。

アメリカで当時多発した連続殺人がなぜ行われたのか。一人ひとり違うかもしれないけれど、この物語においては、児童虐待ゆえに精神的に病んでしまったことが原因だと語られている。

レクター博士が籠のような檻から脱走する時、彼が殺した警官の死体を檻のところに両手を伸ばして、吊り下げるようにしている。しかも、腹部の皮をはいで。影だけをみると、まるで羽のある天使にもにているが、十字架に貼り付けられたキリストにも似ている。

キリストは十字架にはりつける前の最後の晩餐で弟子たちに自分の血と肉を意味するものとして、ワインとパンを食することを薦めている。自分を食べることで、その心の飢えを満たすようにと。キリスト教において語られる「まよえる子羊」とは、人生に悩み、精神的な飢えに苦しむ人間を表している。キリストは語る。自分の肉を食して、精神的な飢えを満たせよと。自分の語ったたくさんの言葉と教えを糧として、心の飢えを満たせよと。

そしてまた、このシーンによって、バッファロービルが人の肉体によってその心の飢えを満たしていることを示唆しているともいえる。さらにまた、レクター博士は、警察官を殺し、その腹と顔の皮をはぎ、掲示し、自分の顔にかぶって見せることで、自分もまたバッファロービルと同じなんだと、同じように親に虐待を受け心に傷をおった存在なんだと示しているようにもみえる。

児童の虐待死によって問題定義された児童虐待は、さらに、生き残ったかつての虐待された子供が大人となって、その精神的な飢えを殺人によって満たすようになってしまっているのだろうか。
これ以降アメリカのニュースで、児童虐待の話題は多くなったように思う。そして、最近では、非常にきびしい法規制も行われているようだ。

一方最近日本でも、虐待によって子供が死ぬ事件が増え始めている。それはやがてアメリカのように連続殺人へと変化していくのだろうか。


レクター博士はなぜクラリスに彼女の生い立ちをあれほど執拗に聞いたのだろうか。クラリスの語る彼女の幼少期の話によって、彼女が父親によってとても愛情をかけて育ててもらい、彼女が父親を敬愛していたことがわかる。警察官の父によって正義感の強い人間として育ったクラリスは、大人になった時、FBI捜査官という正義感の強い仕事を目指す。きちんと父親に育ててもらい、レクターに対しても礼儀正しく人として接するクラリスだからこそ、レクターは、捜査に強力する気になったのだろう。最初の対面から既にレクターはクラリスに対して友好的であり、友情に近いものを感じているようだ。それは、ラストシーンにおいても、脱獄後わざわざ彼女に「羊の悲鳴は聞こえなくなったか?」と、たずねてくるほど、彼女のことを気にかけているのだから。

そして、クラリスもまた、レクターの「外に出たい、水を見たい」という望みをきちんと聞き取って覚えていて、次の議員の子供の誘拐の事件の交渉の時に提案している。これは、うそではあるけれど、クラリスがきちんとレクターの気持ちを汲んで彼のいうことを聞き取っていなければ、出来ないことだ。クラリスは最後までレクターに対して、礼のある態度をとっているのだ。

クラリスは犯人をみつけて、議員の娘を助け出すことに成功した。一匹だけだけれど、羊を助けた。でも、羊が殺されないようにするには、飢えないようにするしかない。

レクターは、子供をさらわれた女性議員との会話の中で「自分の母乳で子供を育てたか」ときいている。これは決して、セクシャルハラスメントな意味でたずねたわけではない。お前はチャンと愛情をもって子供を育てたかと聞いているのだ。女性議員は母乳で愛情をもって育てたと答えた。だから、レクターは犯人をつかまえるためのヒントを答えているのだ。

わが子を誘拐された女性議員はテレビ放送で犯人に訴える。愛情をこめて育てた大切な子供であり、ものではなく、羊でもなく、あなたが今殺そうとしているのは、ちゃんとした人間なのですよと。そして、子供はちゃんと愛情を持って人として育てられたのだと。人として動物とは一線を画して人間として、人は人として遇されるべきなのだと。

物語の中盤で、クラリスが、遺体を発見した現場にクロフォード捜査官とともに行った時、そこに集まっていた男性警察官たちはクラリスに対して、女性として礼を失するような態度をとっている。クロフォード捜査官が相手に女性の前でそんな話はやめてほしいというくらい。そのあともクラリスは、一人警察官たちの中に残され、彼らに無言で「ココは女のお前なんかのくるところじゃないんだぞ」というような威圧感を受ける。その時、ふっと彼女は正義のために職務を全うして死んだ父を思い出す。そして、こんな屈辱になんか負けるものかと、思い、「ココから先の仕事は私がやりますから、どうぞもう、おかえりください。」と警察官たちに言う。
女性を蔑視する男性たちに対しての訴えのシーンだ。

人が人を人として遇する。それは、相手が子供であれ、女性であれ、犯罪者であれ、自分より劣る誰かであろうとも。人として敬意を持って接するべきものだ。ものすごく当たり前なことだけれど、現実には、つい忘れられ、なかなかそうはならないことの方が多い。

レクターを移送する時に、ドクターチルトンは、レクター博士を厳重にしばり、まるで猿轡のような仮面まで付けている。そして、かなりひどい接し方をしていると思う。だからラストで、脱走したレクターが、ドクターチルトンに対して、復讐しようとするシーンで終っているのだ。彼は言う。「これから、夕食だ」と。

レクター博士は、凶悪な殺人犯という設定だけれど、人としてきちんとした生き方をしているクラリスや女性議員に対しては、彼はチャンとした対応をしている。普段の雰囲気もふつうだ。彼は本当は、頭のいい、知性と教養のある普通の人間なのかもしれない。
だからこそ、弱みを見せられず、同性愛や女装にも逃げられず、そのプライドの高さゆえに、その苦悩は深いのかもしれない。

餌を与えられ面倒を見てもらっている羊たちは飼い主が自分たちを殺すなんて思いもしない。食事を与えられ、育てられている子供たちも、自分たちが親から虐待を受けていても、それが虐待とはなかなかわからない。

羊たちは、子供たちは、何も言わないけれど、何も感じていないわけではない。

声にならない声をクラリスだけは聴いている。

その声を誰もが聴き取れるようになった時、連続殺人はなくなるのかもしれない。


        







最終更新日  2008.02.05 21:09:39
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2007.12.22
カテゴリ:外国映画 は行
ディカプリオが主演じゃあんまり期待できないけど、とりあえず話題作だしと、思ってみたんですけど。
意外と面白かったです。監督の解説つきなので、それも見てたら、合計4時間もとられてしまってちょっと痛かったですけど。ディカプリオは役作りにかなりいろいろ頑張っていたようです。なかなかいい男っぷりでした。見直しました。

  ブラッド・ダイヤモンド

最近はアフリカを舞台にした映画が増えてきました。普段はほとんど接点のない、情報もあまりないアフリカ。でも、アフリカのいろんな国が、まだまだ国としてまとまらず、内戦にあえいでいる様子は、胸に迫るものがあります。日本の太平洋戦争をテーマにした映画だと、もう何度もいろんな映画で使われていて、しかも、その後の日本の繁栄をしっているので、いまひとつ説得力がないのですが、アフリカの内戦や戦争の映画は、まさに今現在のことで、しかもこの先どうなるかもわからない、登場してくる兵器や銃も今現在のものなので、迫力もあり、戦争や内戦の怖さがぐっと説得力を持っている気がします。

アフリカのシエラレオネ共和国で産出されるダイヤをめぐって、国際的に不正取りひきが行われている。その密輸ダイヤで得た金が兵器にかわり、内戦が続く。

その渦中に大粒のピンクダイヤが発掘され、そのダイヤをめぐって、密輸商人アーチャー(レオナルド・デカプリオ)、シエラレオネの猟師ソロモン(ジャイモン・フスー)、イギリスのジャーナリストのマディー(ジェニファー・コネリー)がアフリカ中を駆け巡っていく。

ピンクダイヤを手に入れて、アフリカを脱出し、落ち着いた生活を手に入れたいアーチャーと、そのお金で家族を救い出すために、アーチャーとともに隠したダイヤを探しにいくソロモン。そして、見つけたダイヤをふところにしまいこむアーチャー。

けれど、最後の脱出の手前で銃による傷で命を失うアーチャー。彼は、死の間際にダイヤをソロモンに手渡し、マディーに自分の死後のソロモンのことを頼む。

アフリカに生まれ、傭兵となり、その後は密輸ダイヤと兵器の売買をしていた、悪人のアーチャーが死の間際に善人にかわる。

人を殺してでも、手に入れたいダイヤ。巨万の富。それは、だれでも、生きていかなければ、ならないのだから、食べるために住む家を手に入れるために、生きていくために誰だってお金が必要なはずで。そんな欲望を否定することは出来ない。けれど、死を目の前にして、生きていくためのお金を必要としなくなった時、アーチャーはすっぱりと欲望から抜け出して、ソロモンにダイヤを渡す。そして、アフリカを出た後のソロモンのために、マディーに彼のことを頼みすらする。

どんな人間にも、善と悪の部分があって、一人の人間がすべて悪でありきることはありえない。

アーチャーもまた、最後の瞬間に彼の善の部分を見せて、死んでいく。

内戦に染まるアフリカもいつか、悪や戦争の洗礼から、抜け出すことが出来るんだろうか。
今現在もアフリカのどこかで、内戦が続いているのだろうか。
地球からいつか、戦争がひとつもなくなることがあるんだろうか。

アフリカに内戦がおきるのは、営利目的でアフリカに武器や兵器を売りつける西欧諸国の企業のせいだ。
アフリカを苦しめのは、西欧先進諸国だけれど、その不正を正そうとするのもまた、西欧諸国の人たちだ。
人を傷つけるのは、人だけれど、人を救うのもまた、人だ。
西欧諸国から、戦争の仕方を学び、私利私欲に走ることを学び、兵器を買って内戦をするのは、アフリカの人たち自身だけれど、西欧の正義や文化や思想を学び、内戦を終らせ、国を豊かで平和にすることのできるのもまた、アフリカの人たち自身なのだ。

戦争のない自然の豊かで平和で美しいアフリカの大地に、いつか安心して私たちが訪れることが出来るようになる日が来ることを祈りたい。

イギリスにわたった、ソロモンと、ジャーナリストのマディーの努力によって、密輸ダイヤは、規制され始め、シエラレオネに平和は戻った。一人ひとりの勇気と努力がすこしづつ実を結んでいく。

同じ女の身であんな危険なアフリカの地に渡り、真実をもとめて命がけの仕事をするマディーがうらやましくて素敵だった。

次は、『ダーウィンの悪夢』でも、見ましょうか。


参考サイト「血のダイヤモンド



            


ブラッド・ダイヤモンド@映画生活








最終更新日  2007.12.26 08:26:08
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