カテゴリ:介護
おはようございます、ひなこです。
![]() オーストラリアも高齢者は増えてきていますが、日本のような超高齢者社会ではないので、私が父を施設に入れないのが、夫はよく分からないようでした。 「お金がなくて入れられないなら、お金送るよ」みたいな感じで。 まずはショートステイで様子を見る。 要介護度4にする。 施設に入る。 後見人決める。 と、クリアしたので、夫からすると、「もう日本にいなくて良いよね?」と思うらしく、戻ってくるように言われました。 「こんな真冬の寒い時に家を空けたら、水道管が凍ってえらいことになる」とつい、言ったら、怒られました! なので、ホームセンターに行って水洗トイレ用不凍液を買い、ネットで水道の落とし方を検索。 昔は夜寝る前に毎日水を落としてましたけど、今は家が暖かくなって凍らないから水も落としたりしないので、どこに元栓があるのか探さないとならない始末。 トイレと住居の方と2つありました。 最後に父に会った(というか私が父を見たがより正確。向こうは異世界を彷徨っていたので)のは、1月末に、泌尿器科に行った時です。 カテーテルを根本から抜き、先端が切れて見つからないから、身体の中に残っていないか念のため検査をしてもらいたい、とのことで、老健から同伴をするように言われました。 父は、想像していたのより元気そうで、ビックリしました。 髪もきれいに刈られているし、髭も剃ってあるし、ちゃんとお世話されている感じでした。 家にいた頃は、床屋に連れていくのが大変で、「未だ伸びてないから床屋には行かなくていい!」と父が拒否するので、髪も眉毛も伸び伸びにならないと、了承してくれなかったものでした。 同伴の若い看護師さんは、「お父さんがこんなになってしまって、ご家族としてはお辛いでしょうね」と仰ってましたが、逆に私は元気そうでビックリでしたよ、本当。 コロナで面会が中止になっていたし、父の姿を見たのは2ヶ月ぶりだったんですけどね。 そうか、3年のビザを申請したのに、5年のビザをくれたのは、日本の外務省が慈愛に満ちていたからじゃなくて、日本の高齢者がなかなか死なないと知っていたからなのか!(日本人の父の介護のためというのが日本のビザ申請理由でした) 父の入居している老健は、老健は本当は3ヶ月しかいられないことになっているけれど、ずっと延長して看取りまでいられますよ、というスタンスの所だったので、ケアマネさんもここを選んでくれたのですが、なんと、年が明けたら突然、方針を転換したらしく、3ヶ月たったら数日出てもらい、又契約をし直して再入所すると変更したようでした。 泌尿器科で会った老健の看護師さんが、そうらしいですよ、と教えてくれましたが、老健の方から正式な通達があったわけではありませんでした。(老健のケアマネには一度も会いもしなかったし、電話で話したことすらなかったのでした。特養の申込書に在宅のケアマネさんの名前を書いたら、「この方在宅のケアマネさんですからもう担当じゃないですよ。老健のケアマネさんが今の担当者ですから」と言われて、名前だけは老健の事務の人から聞きました) 3ヶ月分、2月末までの薬を持参して入所しましたが、2月末に老健を一旦出て、その間に、私が次の3ヶ月分の薬を医者から貰わないとダメだと、ある日事務の方(支援相談員というお仕事だと、昨日ある老健のお医者さんのブログから知りました)に他の件の電話をしていた時に、唐突に言われました。 「はぁ?!」 そんなの絶対無理です。 老健の新人の事務の方(若い男性)は、仕事出来ない感満載で、こっちの言っていることの意味がちゃんと伝わっているのか不安を覚えました。 自分の思い込みで話を進めてしまうところもあり、どこまで言うことを信用していいのかも疑心暗鬼になりました。 実は在宅ケアマネさんにもちょっと迷惑をかけたみたいで、「長いことケアマネやってるけど、こんな経験は初めて」というようなことがあったようです。 そうだ、何か他の話をしていたのに、ポロッと、父に腹部拘束をしていて、拘束してると特養に入れないから、特養が面接に来る時は外せばいいかな、なんて言われたこともありました。 それを在宅ケアマネさんに言ったら、「聞き間違いじゃないですか?!老健で拘束は禁止ですよ。えっ、ちょっと何?家族にそういうこと言うんですか?!それ、大問題なんですよ!」と。 私も事の重大さをよく理解していなかったので、「そうしないと落ちちゃうんじゃないですか」と言ったら、「とにかく!禁止ですから!」と。 ムムム。 で、在宅ケアマネさんにどうしたらいいんだろうと愚痴ると、彼女が、「後見人も決まったし、もう日本を出てしまったらいいと思います。絶対何とかしますから。ババ抜きじゃないけども、引き受けた、今手元にいる所の責任なんですから。日本はね、ゴニョゴニョ言っててもちゃんとやってくれますよ」と言うので、それに背中を押されて、日本を出る航空券を購入しました。 2月末にいったん老健を出てもらう件については、出発前に事務の方が電話で、「○○病院に検査入院という形で1週間ほど入院してもらい、そこで薬も処方してもらう」と解決済みの発言をしたので、家にあったその病院の父の診察券を、出発の前の日に老健に持っていきました。 ところが、2月末前に、成年後見人の弁護士の先生から、メールが来ました。(老健にもメアドは教えてありましたが、老健からは何の連絡もありませんでした) 「老健が、薬の処方箋を貰うために、娘さんに帰ってきて貰いたいと言ってきています。が、個人的には、そのような理由で戻る必要はないと思います」と。 在宅ケアマネさんともメールで繋がっていたのですが、「後見人がまともな感覚の人で良かったですね」とのこと。「ふゆのさんからここの老健の方針の変化や実態の情報がアップデートされて助かりました」とも。 ○○病院で検査入院の話は、どうなったんじゃ?の気分でした。 多分、私がいなくなったことで優先度が上がったのか、老健から特養への猛プッシュがあったのか、父は突如、3月上旬に特養入所することになりました。 書きやすい申込書の好印象の施設でした。 やったー! 特養の入所手続きは、後見人の先生がやって下さいました。 特養から、住民票を特養の方に移すよう、ゆうちょ銀行の口座を開く(ゆうちょ銀行からの引き落とししかしないため)ように言われたので、それもやっておきますね、とのこと。 後は、郵便物の転送届も出して頂きました。 ありがたや、後見人!(まぁ、毎月父の口座から報酬が出ているのですが。報酬額は裁判所が決めると言われたけど、私にはいくらになりますと報告はなかったので、額は知りません) 老健からは一度も連絡がありませんでしたが、特養の事務の方からは、メールを何度か頂きました。 実は、他の施設は、郵送で申し込んだり、コロナなので電話で聞き取りだったりで、実際に施設に足を運ぶことはなかったのですが、ここだけは、裁判所に行った時に、近くだったので自分で手渡しで申し込んだため、一階の入り口付近だけですが、施設に行ったんですよね。 街育ちの父ですから、人生最後も街の中心地で良かったと思います。 老健は、今はお店が沢山ある賑やかな場所になっている所にありましたけど、住所は市内じゃなかったですから。 老健も特養も空きができたのは、コロナやコロナワクチンで亡くなった人がいて空きができた、というのもあったと思います。 在宅ケアマネさんにも、特養が決まったことをメールでお知らせし、「申し込んだ他の特養に決まりましたと連絡しないとダメですよね」と書いたら、「私がやっておくから心配しないで!」とのこと。 ありがたや! 特養に入ってから1度体調が急変し、救急搬送され、腹部大動脈瘤は10センチ以上になっていると診断されましたが、その日のうちに特養に戻され、それ以降は落ち着いているようです。それ以来、何にも連絡がないので、こちらから聞いた方が良いかな、と思いつつ、墓穴を掘るようになっても困るので、私も放置しています。 父の介護をする前は、良い死といったら、苦しまないで死ぬこと?位しか浮かびませんでしたが、父をみていると、それだけじゃないというのが分かりました。 ピンピンコロリの母とは真逆。 母は、近所の人達にも慕われていて、親族でもないのに、近所の方が目に涙を浮かべて、「本当にあなたのお母さんは良い人だったわよね。大好きだったのよ」なんて仰ってくれると、私も死んだ後に「あの、クソ婆ぁ!」と言われないような暮らしを心がけたいもんだな、と思い、死んだ後も、母から学ぶことがあったのでした。 実を言うと、私は父との折り合いが悪く、母とはとっても仲良しでしたが、父とは中学•高校と口もきかない仲でした。(私の方が無視していた) なので、父の介護も、父のためというよりは、母のためにやっていたというのが本音です。 「もう長生きしたし、いつ死んでも未練はないけど、私が先に死んだらこの人(父)どうやって生きていくんだろう。1日でも長く私の方が生きないと大変なことになる」って常々母は言っていたものなので。 そして、更に実を言うと、父は母が大好きでしたが、母の方は父があんまり好きじゃないというか、なんなら嫌いだったんです。だから、自分が先に死んだらという心配は、愛情からではなくて、奥さんが旦那さんの面倒をみる義務があると思い込んでいるあの世代の責任感からだったのではないかと思います。強いて言えば、愛という漢字を取った「情」(じょう)からというか。 なので、お母さんが安心できるように、私が後を引き継いで父の介護をしなくては、みたいな気持ちでした。 でも、一年半介護をして、母も、「もう良いよ」と言ってくれるんじゃないかな、と。 私が父のことを好きじゃなかったのも知っていましたから、「よく頑張った」と言ってくれるんじゃないか、と。 「私にやれるところまではやりましたよ、お母さん」と報告したい気持ちです。 そうか、この介護の話は、実は母に、「お母さんが死んじゃってから、私、こんなに大変だったんだよ~」と母に話したかったことなのか、と今、気付きました。 そういえば、トルコに来てから一度夢の中で、私がいかに父の介護が大変かを現在進行形で母に愚痴っていたことがありました。 すると、母は私に、「これからは私が面倒みるから、あんたはもう何もしなくていいよ」と言いました。 目が覚めて、こりゃもう死ぬな、お父さん、と思いましたが、どっこい未だ生きてます。先日、90才になりました。 長々続いた「介護の話」、これにて終了です。 おつきあい、ありがとうございました! ご機嫌よう! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年12月12日 00時25分17秒
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