縄文の焼畑稲作に通ずるイセヒカリの籾を
KAJI畑に蒔きます。
話せば長い話に・・・。
縄文人は森と共生して、畑で稲を育てていた。
3年前はじめて稲刈りを体験したとき、
魂の声が問いかけてきた。
なぜ、米は田んぼなんだ?
素朴な疑問からいろいろなことを想像しました。
どうしても畑に鷲掴みにした籾をパーっと蒔いてみたい。
調べてわかったこと、それはあまり大きな声ではいえないこと。
日本の稲には遺伝的に「熱帯ジャポニカ」と「温帯ジャポニカ」の二系統がある。
熱帯ジャポニカは東南アジア島嶼(とうしょ)地域から伝播した陸稲的な稲で、
一方、温帯ジャポニカは中国・長江流域が起源の水稲だ。
古代の遺跡から約5ヘクタールの耕地が見つかった。3~4畳半程の小区画が
連続した形状をしている。そのうち100の小区画を調べたところ、
水田はたった22区画で休耕田が多く含まれていたことが判明した。
また栽培稲は、水稲2割、陸稲4割であった。<稲のきた道>
この籾は熱帯ジャポニカの血をひく現代では
希少な籾。これを蒔いて実験です。
焼畑は3分割して毎年ローテーションで、
1枚を活用、残り2枚はお休みさせる。
念のため一部の籾はあっちゃんの田んぼで育ててみます。