ふたたび上井草へ「へえ、あの女がね」柴は、そういうのが精いっぱいであった。というよりも、それ以外のリアクションを頭のなかでとっさに用意できなかった。 専務の山崎。プロパーで引き抜かれて出世街道をトントン拍子ですすんできた。次期社長候補の一人だ。その山崎の女? 「おい、柴君、書類はできているだろうね。」 ぼーっとしていたが、境の言葉で我に返った。境は自分の席でメールを見ながら、声をかけた。 「だいじょうぶです。」 そういうと、柴は部長のフォルダーをクリックし、昨夜、確認したファイルをそのなかから呼びだし、プリントアウトして、部長席に持っていった。 境は、ひととおり、みると、 「じゃあ、これを10部用意しといてくれ。12時半にでかけるからな。」 柴はとりたてて、キャリア指向というわけではない。かといって、今の状況に満足しているわけでもない。 そつなく仕事をこなし、いろいろ将来を考えたいと思っていた。 そこへ、あの夢の女、宝くじ、そして松林。 いまは、朝の川島の話もあって、逆に松林を強く意識するようになってしまった。 その日の夕方だった。会議の報告書を、柴は残業で取り組んでいると、松林が経営企画の部屋に入ってきた。 「どうした?」 「ううん、なんでもないんだけど。ちょっと心細くてね。」 「また、夢でもみたか?」 「そんなじゃないわよ。あなたが、わたしの部屋にきた日のこと、ふと思い出したりしたわけよ。」 柴は、あとA4半分ほどで終わるところであったが、手をとめて松林をみた。 「あとさ、15分くらいで終わるからさ、下で待っててくれないか?」 「わかったわ。」 その日、とくに何があったわけでもないのに、社員の帰りが早く、7時半というのに、会社はすでに柴だけになっていた。 松林が経理の部屋のドアを締め、エレベーターホールに歩いていく音が、柴の耳に聞こえてきた。 「どうしたんだろうか?」 愛人の話そのものよりも、松林の寂しそうな表情が気になった。 結局、10分ほどで仕事を片付け、報告書を部長にメールで送り、パソコンを閉じた。 電気を消し、部屋のセキュリテイー装置を稼働させ、下におりた。 ビルの一階におりてみると、松林の姿がみえなかった。 「どこにいったんだろうか?」 あの寂しそうな表情が気になってしかたがない。ビルの前の量販店は、閉店が9時だから、まだまだ、客足は途絶えていない。 しばらく待ってみた。しかし、30分待っても、松林はかえってこない。 ちょっと、もやもやした心持ちになったが、これ以上待っても、どうなるものでもなさそうなので、会社のビルを離れた。 量販店の店頭は、携帯電話の最新機種がならび、各電話会社のウインドブレーカーを羽織った販売員が、売り込みをしている。 衝動的に、一台の携帯電話が目にとまった。いま使っている携帯電話と同じ電話会社のもので、最新型だ。そして値段も少し高めだったが、すっと買ってしまった。 店員はいろいろ説明をしようとするが、柴自身は、自分でさわって覚えるたちなので、とにかく、機種変を迅速にやってくれと依頼した。 そして30分ほど所要時間がかかるというので、近くの書店に行って時間をつぶそうとしたそのときだった。 『松林だ』 そばに、山崎がいる。会社の上司と部下以上の雰囲気を感じた。あわせて、会社の近くで大胆な女だ、とも思った。 その表情は、つ550分ほどまえにみせた暗い表情が別人のように感じられた。 逆に見られてまずいのは、その二人のはずなのに、反対に、柴が携帯電話会社の大きな看板の影にかくれて二人をみやった。 やっぱ、そういうことか。 柴は、携帯を受け取って、その量販店をでた。 そのときだった。 まだ、セットアップもしていない携帯のメール着信の着メロが鳴りだした。 あわてて、その量販店の紙袋に入った携帯をとりだした。濃いめの赤い折り畳み式の携帯をあけて、メールをみる。 「宝くじと地球消滅忘れてないわね?」 忘れているわけではなかった。しかし、このときは、そのメールの不可思議さよりも、松林のことが気になってしかたがなかった。 松林の家にいってみよう。 気がつくと、柴の足は西武新宿にむかっていた。 ジャンル別一覧
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