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外資系経理マンのページ

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東北地方をいく

この列車の寝台は、向い合せで二段式。つまり4人が一室の個室になる。ドアに鍵がかけられるようにはなってはいるが、乗客には鍵は渡されない。車掌が持つだけだ。
難儀だったのは、上段にのぼるための梯子がないこと。ドアの脇に足を引っかける出っ張りがあり、それに足をかけて上に飛び乗ることになる。

転落防止柵がないのも不安だった。上段だと1メートル近い高さがある。寝ぼけて落ちると、これはただの怪我ではすまされない。むろん、日本の鉄道が狭軌といって狭い線路幅のため、おのずと車体もそれにあわせて小降りになっているが、この客車は、日本の新幹線で採用されている広軌のため、ゆったりとしたつくりになっていて、寝返りもじゅうぶんにうてる余裕はあった。

朝。ごとごとレールを走る振動で目が覚めた。日本で購入していた中国の時刻表によれば、すでに潘陽は過ぎた時間だ。30分まえについていたことになる。

昨夜は、北京を発ち、つぎの停車駅天津で一度、ホームに降りた。売店もしまっており、人陰もまばらであった。中央政府の直轄市であるが、当然といえば当然。町の雰囲気など伺い知れるところではなかった。列車にもどり、ほどなくして眠りについた。レールの上を走る、定間隔の振動が子守唄がわりになったのか、すぐに寝付くことができた。

しかし、停まったのでああれば、気づくはずだ。

車窓からは、大きなトラックの荷台に、人をのせた車が、線路に並走するかたちで走っているのが見えた。おそらく工場へむかう人たちを運んでいるのだろう。砂ぼこりをまきあげながら、走っている。そんなトラックが何台か走り、そのトラックを取り囲むように自転車の一団がすすむ。

潘陽がまだなら、ぜひ見てみたいところがあった。張作霖の爆殺事件の現場である。たしか、潘陽駅にはいる前か後かであったはず。記念碑もたっていると聞いていた。ぜひ、昭和の歴史の現場を通りすぎるなら、そして見ることができるなら、かいま見てみたいと思った。

しかし、農村風景が続き、気が付くとホームに列車は滑り込んだ。

多少、お腹はすいていたが、降りてみる。向かい側には、ハルピン行きの列車がとまっている。窓からは、みんな対面にはいってきたロシアの車両を物珍しそうに眺めている。
それはそうだろう。行き先表示には「北京、莫斯科(モスクワ)」と表記がある。国際列車は、週に1便だから、そんなに巡り合わせよく出会うこともないからだ。それに、ロシアの車両だ。いやが上にも目立つ。

15分ほど停車して、列車は動き始めた。しばらく、窓ガラスに顔をくっつけるようにして見ていたが、あきらめた。

車窓には、田園風景が続く。潘陽はむかし、奉天といわれ、日本人もたくさん移り住んでいた。おそらく、おなじ線路上から、おなじ風景を見ながら、まだ見ぬ開拓地に思いを馳せていた日本人も、また、多かっただろうと思う。それが、残留孤児という歴史をつくってしまった。

動きだして、食堂車にでむいた。連結部扉は鋼鉄製。それはそうだろう、真冬はマイナス40度という極寒の地をゆくのだ。すきま風はゆるされるわけがない。
連結部は、もっこりと鉄板が盛り上がったようになっていた。それを何両か越えて食堂車にたどりつく。

食堂車は、中国国境までは中国の車両。窓際に紹興酒のボトルが置いてあり、その前にメニューが置いてあった。

メニューをみると、値段がブランクになっている品がいくつかある。
どういうことなんだろうか?


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