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外資系経理マンのページ

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二都物語

モスクワは、ホテルコスモスというモスクワオリンピックにあわせてつくられたホテルだった。白亜の建物で、地下には大盗聴施設があると聞いていたが、部屋のつくりをみていると、どれもが盗聴器にみえてくるから不思議だった。

また、男性だと必ず、コールガールらしき女性が電話をかけてくるときいていたが、チェックインして部屋のドアをしめて、ひと休みしていると早速、電話がなった。

とると英語かロシア語か、よくききとれないかんじの早口で女性がまくしたててきたが、もちろん、受話器をそのまま置いた。

その後も、夜に一度かかってきた。ノーサンクスというと、わらって今度はむこうから電話を切った。

私はH氏とモスクワ大学にむかった。私とH氏は同じホテル、あとモスパックのメンバーもこのホテルだった。

H氏とそこにむかったのは、モスクワ大学がモスクワを見下ろす小高い丘の上にあり、そこから見る夜景がきれいだと聞いていたからだ。しかし、なかなか暗くならない。時計をみると9時近くなのにである。

モスクワ大学の大きな塔の前で北朝鮮からの留学生(もちろん金日成バッチをつけていた)が、記念撮影なのか、カメラで写しあっていた。屈託のない、北朝鮮の人はこのときはじめてみた。国際列車で途中みた北朝鮮の人とは、雰囲気がちがっていた。やはり、開放感がそうさせているのだろう。

あまり遅くなると、あすにさし支えるので、ホテルへ帰ったが、ここで困ったことがおきた。時計は10時。すでに、どのレストランも食事のサービスは終わっており、酒とつまみしかないという。たしかにお金をだせば、それなりのものは食べられるが、贅沢をしない旅行のため、それはNG。

しかたなく、ホテル内のキオスクのような売店で、ウオトカ一ひと瓶と、なんとシュークリームを買い求め、部屋で二人で食した。シュークリーム?と思ったが、それ以外、お腹に入れるものがなかったのだから、仕方がない。

当然、翌日は二日酔いになったが、ホテルの蛇口に口をつけて飲むわけにもいかず、これまた売店で買ったオレンジジュースで、肝臓機能に水分を送り込んだ。

次の日は、おきまりのようにクレムリン、赤の広場、そしてグム百貨店などを見て回った。グム百貨店は、赤の広場、クレムリンの向かい側にある古いデパートで、ごったがえしていた。私はペンを求めたかったが、日本の文具みたく手ごろなものがなく、あきらめた。

イルクーツクでみたトラックといい、ボールペンといい、すべてが軍需最優先の弊害なんだろうと思った。

街中の移動は、地下鉄を使った。この地下鉄駅は宮殿のように豪華で雄大なつくりで、それも地中奥深くつくってある。そこへ至るエスカレーターが超高速。地下シェルターかわりという評判もさもありなんというところであった。

その夕刻、H氏は飛行機で最終目的地ロンドンに向かい、私は列車で当時の地名でレニングラードにむかった。この列車は赤い矢号といい、夜2355にモスクワをたって、レニングラードに翌朝に着く。

じつを言うと一週間もの間、寝台の生活をしていると、ホテルの揺れないベットに物足りなさをかんじた。しかし、車中一泊だけだと、これまたあっという間に感じられた。

その列車では北京で一緒になった3人組と合流したが、レニングラードにつくと、また、別のホテルにつれて行かれた。

わたしは、ホテルアストリアという由緒あるホテルに落ちついた。レニングラード攻防戦で、おとしたらここで祝杯をあげようとヒトラーが目論んでいたホテルである。エルミタージュ美術館も近い。聖イサク寺院が、部屋の窓からみえた。

ベットはなんと、そのまわりに白いレースのカーテンが囲むようにかけられている。まるで、クレオパトラとか、楊貴妃がいつも寝ていそうなつくりのベットで、不思議なかんじがした。

次の日にはもう、帰ることになっていたから、さっそくフロントにおりて、サーカスでもとおもったが、サーカス、オペラ、バレーいずれも月曜はお休み。

月曜休みとは、日本の公立図書館もそうだけど、万国共通なのか、と思った。

その日は、夏の宮殿をみたあと、エルミタージュ美術館を見て歩いた。夏の宮殿は船で、エルミタージュ美術館うらのネヴァ河のほとりから出ていた。

鉄道にのって、9000キロをとびこし、ついにその先にある水辺にたどりついた。これは、ひとつの感動だった。

夏の宮殿には、奇妙奇天烈な噴水がたくさんある。まるで、噴水をつかったテーマパーク。ひととおり見て回ったあと、ここで昼食をとった。ようやく読めるようになったロシア文字でボルシチをみつけ、たのんだものの、でてきたのはさめたボルシチ。二つボルシチが並んでいたが、もうひとつにすればよかったと思ったが、後の祭りであった。


ふたたび市内へ船でもどる。ネヴァ河ぞいにある刑務所あととか、を見てまわる。

このネヴァ河の浜辺には、水着を着た老若男女が、短い夏を身体にとりこもうと必死になっているようにみられた。

ちなみに、街角の温度計をみたら、午後2時で18度だった。ときは8月17日。

ネフスキー大通りを歩く。時刻はそろそろ夕方。バレーやサーカスといった出し物がないからといって、これで部屋に帰るのも脳がない。それで、たまたま通りかかった映画館にはいった。

ふたたび断っておくがロシア語は話せない。分からない。でも雰囲気をあじわってみたくはいった。

喜劇映画のようだったが、席はそこそこ、うまっていた。

最初は白黒のニュースフィルム。意味がわからなくても、この農場ではこれだけ頑張っている、なんていう内容。それを共産党幹部が視察なんて内容であった(と思う)。

はっきりいって、おもしろくない。

みんな寝ていた。

しかし、いったん本編がはじまると、爆笑の連続になった。わからなかったが、つられて笑った。

でも、この頃、「モスクワは涙を信じない」なんていう名作映画もあった。さかのぼれば、「誓いの休暇」ってのもよかった。ソ連、ロシア映画は質が高かった。いまは、あまり聞かなくなったが、私が知らないだけか。

部屋に着く。古いホテルゆえ、電気を消すと、古い時代の霊気が室内を渦巻いているように感じられ、すこし背筋が寒く感じられた。しかたなく、ラジオをつけっぱなしにし、電気をつけっぱなしにして寝た。

薄暗い、まだ、闇夜がおりきっていない夜11時。聖イサク寺院のシルエットが印象的だった。

次の日は、再度、エルミタージュなどを見てまわり、ホテルへ戻る。

喫茶室でコーヒーを飲んで、空港にいくまでの時間を待っていたら、フランス人の大学教授に話し掛けられた。一泊で帰るというと、なんともったいないと言われた。

たしかに、この街は、運河が縦横に走り、モスクワがあるいみで政治の都市だったのかもしれないが、このレニングラードには、古い建物がそこかしこにみられ、とても、この地がかつて沼地だったとは信じられない。

一人旅に近いこの街での思い出を胸に空港にむかった。

今度は、はじめての夜行便で、9000キロを一気に駆け抜ける。

しかし、空港に早く着き過ぎたので、腹ごしらえをする。熱いボルシチに黒パン、そして紅茶。これをトレイにのせてもらい、食した。みると、乗組員も食べている。ロシアで食べた、数少ないまともな食事だった。

でも、ここで食べたのは正解だった。飛行機ででた機内食は、ビニールの袋に入った固めのりんごに、ビスケット、固いパン。とても食べられたそろものではない。それでも、下は漆黒の大地。反対側の窓は夕日があたり、反対側は闇夜。

不思議な感覚だった。

翌日、ハバロフスク着。掘建小屋のようなターミナルで荷物をうけとると、久々に暑い太陽にめぐりあった。

軽い時差ぼけにはなったように記憶するが、ハバロフスクのホテルインツーリストにチェックインしたあと、私は例の3人組と、ハバロフスク市内を歩き回った。

市内の博物館にはいると、アイヌの紹介コーナーもあり、この地区が、北海道、北方領土とアイヌ民族にとっては、国家の枠をこえて生活の場であったことがしのばれた。

ホテル近く、ベリョースカという外貨ショップに行き、土産物を買い、そとにでたところで、朝鮮族らしき50代くらいの男性に日本語で話し掛けられた。

「ベリョースカいきますか?」
「サントリーのビール買ってきてください」

想像するに、樺太とか北方領土につれていかれた朝鮮人なんだろうか、けっこう、うまく日本語を喋っていた。

「わたし京都に知り合いいます」

京都に知り合いがいるということで、警戒感を解こうとしたのだろうか?

なんとなく足早にその場を去ったが、あれからどうしたのだろうか?

翌日は、列車でナホトカへ。またまた一泊の列車泊。

この列車はみんなナホトカから横浜にむかう船に乗る乗客ばかり。1週間かけてレニングラードまで行き、2日でその距離を逆もどり。

船の旅も陸中海岸沖の漁り火も幻想的な雰囲気でよかったし、時間ができるなら、今一度、同じルートを旅してみたいものだ。

               (終)




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