学校通信DX

2007/10/12(金)23:31

1986年の日本シリーズ・西武対広島 vol.4

番外編(11)

大田卓司 ・ ヤングレオ台頭の1986年の日本シリーズで、東尾と大田のたった2人が、西鉄ライオンズ時代から、残る選手だった。私はこの2人が存在する事にこのシリーズの魅力を感じるのである。 ・ 広岡管理野球に最もなじんでいない男は彼だったのではないかと思う。 ・ 広岡監督に就任早々「彼は落伍者です」の烙印を押されたそうである。 ・ その彼が広岡西武の優勝にことごとく絡んだのは実に面白い。体は小さく、普段は打率も低い。ところがチャンスにはめっぽう強いのである。 ・ 1983年の「西武対巨人」ではMVPである。1986年は引退年であり、華々しい活躍はないが、彼らしい存在感と、旧ライオンズの生き残りとしての意地を感じる活躍を残している。 ・ 1986年の日本シリーズ第8戦の8回表に2盗を決め、この直後にジョージ・ブコビッチの決勝2塁打が飛び出した。引退試合となった最後の場面で盗塁(引退間際の老選手が盗塁するとは広島も考えなかっただろう)、本塁生還という実に不思議なめぐりあわせ。西鉄ライオンズの伝説の日本シリーズ対巨人戦、「3連敗後の4連勝」以来の大逆転シリーズでの決勝ホームインは、大田だったのである。 東尾 修 ・ 未だに一度しかない8戦目までもつれた日本シリーズの鍵を握っていたのは、この男である。 ・ 第一線に先発し、9回裏1死まで0点に押さえながら、小早川・山本浩二に連続ホームランを浴び、同点とされる。ここから大混戦が始まるのである。 ・ 彼は5戦目でも9回を投げる。自責点0のまま延長戦に入るところで降板。後を受けた工藤がサヨナラヒットを打って、西武はやっと1勝目あげる。東尾に「勝」は付かなかったものの、西武の大逆転劇へとつなげた影の立役者だ。 ・ 最終の8戦目も先発登板する。なんと、この大事な試合で、ピッチャー金石に2ランホームランを打たれてしまう。3回まで投げて、降板。「もう握力がなくなっていた」と、本人は語っている。私の中では、1986年の秋風が最も似合った男だ。 ・ この日本シリーズでは1勝もしていないが合計21イニングを投げている。日本シリーズで3戦先発、21イニングを投げた投手はあんまりいないのではないかな?稲尾は5試合に登板4試合に完投だそうですが、時代が違う。当時は投手の「先発・抑え」という分業制が確立していたし、20勝を挙げるピッチャーもほとんどいなくなっていた(パリーグでは)。 ・ しかも、投げた試合は1分け2勝である。東尾の不思議なタフさを物語っているように思う。 ・ プロ入団年である1969年の黒い霧事件にも関わっていたのではないかと言われた彼。黒い霧事件でズタボロになったライオンズで、味方打線の援護もない中、10年間エースとして支え続けた後に、球団は大金持ちの西武に変身。 ・ 東尾は当時37歳か。新世代ピッチャーが時速140kmの球を投げるようになった(現に、先発4本柱のうちの郭・工藤・渡辺は当時では信じられないほど速かった)この時代に、最速でも時速120km後半だったのではないか。 ・ 胸元の危険な球を投げる投手だった。ブラッシュボールと彼は呼んでいた。巨人の原は日本シリーズで東尾の胸元のシュートに腰が引けてしまい、「お嬢さん打法」と揶揄された。 ・ 後のインタビューで、「僕は速い球は投げられないけれど、振りかぶったときの腕の位置を1cmほど下げたり上げたりしているんだ。それでバットの芯は外せるんだ。」というような意味の発言をしていた。カッコイイー! ・ 選手時代も監督になってからも、ピンチや負け試合でもニヤニヤするため、顰蹙を買っていた。 ・ 江川が1987年の日本シリーズ後に10年足らずで引退したのに比べて、東尾は1988年まで20年間投げ続けた。 ・ おまけに1987年には、マージャン賭博で捕まって(逮捕?検挙?書類送検?)謹慎処分を受けている。 ・ 監督時代は、ダイエーに移った根本氏に秋山・工藤・石毛という主力を引き抜かれた。巨人には清原を引き抜かれる。西武王国の強引な人集めによる隆盛と強引な引き抜きによる凋落の両方を主力選手→監督として経験している。 ・ なんやかんやありながらも、この人、人間くささにあふれていて、好きです(笑)。 

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