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カテゴリ:保護者問題(親問題)
親の孤独 → 子供への依存 → 過干渉やペット化 といった連鎖があるのではないかということを前回のエントリーに書きました。 これに加えて 欲求不満による親の不全感 → 子供の欲求充足への期待 → 甘やかし という見方についても書いてみます。使っている言葉が少々違うだけのような気もします。自分でも考えが整理しきれていませんので、書きながら考えます。 マズローは、人間の基本的欲求を低次から
としたそうです。(ウィキペディアより) 「孤独やつながり」というのは3・4あたりの欲求と関係があると思います。「友達や信頼できる人が欲しい」「自分を承認してくれるあたたかい人の輪の中にいたい」というのは人間の欲求のの中の大きな要素だと思います。 1~4が「欠乏欲求」、5の自己実現が「成長欲求」と位置付けているそうです。実際は、そうキレイに分けられるものでもないらしく、たとえば「美しい恋人が欲しい」なら、1・3・4・5あたりがあてはまりそうに思えます。 まあ、難しい定義は置いておいて、1・2あたりは結婚をしている日本人夫婦ならそこそこ満たしているとしても「好きなことをやりたい」「物欲を満たしたい」「人の上位に立ちたい」「人の役に立ちたい」「才能を発揮したい」 「強くなりたい」「美しくありたい」等も、満たしていきたい欲求なのだと思います。 特に5の自己実現というのは、できそうでできないことです。 http://www.miyadai.com/?itemid=252で宮台真司氏の文章を見つけました
自由と平等と個人の尊重が謳われ、消費の美徳が謳われる社会。素晴らしい社会です。そして情報化によってたくさんの素晴らしい選択肢を見せつけられます。しかし、その割には、自分はいま一つ満たされていないのではないかという不全感を抱いている人は少なくないと思います。 「暴力や病で死なないこと・食えること」が大目標であった時代から、私たちの欲求はどんどん実現可能になったように思えるのですが、残念なことに「実現可能」と「実現が保障されている」との間には大きな差があります。 「あの部長のようにふんぞり返って部下に命令したい」「おいしいレストランでお食事」「英語力を生かしてニューヨーク勤務をしたい」という欲求は「実現可能」ではあっても常に「実現が保障」されているわけではありません。 届くような気になってしまって届かない。理想と現実が常にずれている。そして、さらに「つながりを失った社会」には、膨らんだ理想を実現するには、程遠い厳しさがある。「こんな自分じゃないはずなのに」「なんだか社会は私の味方をしてくれない」と。なんだか漠然とした不全感で、正直を言うと私の中にもそれはあります。 こういった不全感、つまり欲求不満を解消するために「防衛機制」が働きます。(昔、勉強したなあ) 現代の親はこの不全感を解消させるために、子供に対して「防衛機制」の中の「代償」を働かせているのではないかと考えています。 2通りの意味でです。 1つめは、子供に物を与える、子供の負荷を無くすという行動です。 http://plaza.rakuten.co.jp/gakkodx/diary/200702060000/ http://plaza.rakuten.co.jp/gakkodx/diary/200902100000/ あたりのエントリーでも書きましたが、無意識のうちに自分の不全感を埋めるためにてっとり早く実現できる子供の欲求充足に走る。つまり、甘やかしてしまう。子供に代償してもらうことによって自分を保とうとする。最近、親を観察していると、そんな気がしてなりません。 2つめは、前回のエントリーに書いたように、自分の人間関係の不全感を埋めるために、子供を友達化・恋人化・ペット化して、直接的に代償の対象にするという行動です。 こうして育てられた子供が大人になって、欲求が満たされないことを思い知った時に、どうなるか・・・。残念なことに、もうすでにそんな大人が社会にあふれてしまっています。
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