秋山巌の小さな美術館 ギャラリーMami の町田珠実です。
「死ぬな ケガすな 病気すな」
この碑は、阪急甲陽線の沿線にある大社中学校の入り口にあります。車で通った時にみつけ、とても胸にささるメッセージだと気になっていました。
今日は、いつもなら車で用足しするところを、思いきって歩いてまわり、写真を撮らせていただきました。
きっと、親御さんが立てたのだろうなぁと思い、横を確認すると、きちんと記されていました。
故 古本孝夫
昭和四十二年十二月十八日 交通事故死
昭和四十三年三月建立
大社中学校のHP「沿革史」の中に、
『昭和43年 3月10日 「われら大社の生命」の碑 完成』とありますが、この碑の事でしょうか。(ご存じの方がいらしたら、教えて下さいませ)
新学期、新年度が始まり、切ないニュースが溢れています。
子供だけでなく、大人も同じですね。
実父「秋山巌」は70代の時、下血があったのに一年以上ほったらかしにして、病院に行った時には大腸癌で手術しか選択がありませんでした。
夫は、20年以上前に駐車中のトラックにバイクで激突し、左足を失っています。
不可避なこともあるだろうけど、防げることは沢山あると思います。
「死ぬな ケガすな 病気すな」
その為に出来る事は最大限やる必要があると、私は思うのです。
その為に出来る事を、最大限やる国であってほしいと願います。
追記2021/02/07:コメントにて碑の建立由来を教えていただきましたので、転記します。
(コメント欄もご覧下さい)
「あの石碑の正面および横面の揮毫をされたのは、当時同校校長で、後に西宮市教育長も務めらた、竹村賢造先生です。
私は、竹村先生が当時の御影師範(現・神戸大学)を卒業されて、最初に教員として赴任された鳴尾小学校の、第一回生(昭和20年)です。
あの生徒の事故の後、竹村先生は教育委員会と掛け合って、校庭から前の自動車通路(そこで死亡事故が起きました)に出る道の付け替えを交渉されましたが、もし出入り口を付け替えると、元の出入り口の位置は市の手落ちだった、と認めることになると主張する市と対立された、と私の母から聞いています。石碑を立てる金もないし、それ市側は反対。
それで、校庭から外に出る道を今のように少し斜めに付け替える(それだけでも、出口と自動車道路の間にかなりの間隔が出来ます)ことで落着しました。それで、石碑の方は、市側は立てないので、誰も慰霊碑だ、と気付かないように、正面には「死ぬな、怪我すな、病気すな」とだけご自分が書いて、これは私の推測ですが、校費ではなくて、先生のポケットマネーでお建てになったのに違いありません。それが証拠に、石碑の裏や何処にも、建立者の銘は見当たりません。これはいかにも竹村賢造先生らしい所作だ、と思います。」
渡邊昭雄さん、ありがとうございました!