秋山巌の小さな美術館 ギャラリーMami の町田珠実です。
秋山巌の写真整理中に、見慣れない写真が1枚ありました。
約57×87の小さな写真です。
裏には、竹之助の父 秋山玄省の従兄
島根(県知事?)丸山重俊
と書かれています。
この写真のように、アルバムから剥がしたと思われる写真がいっぱいあるのですが、誰なんだろう?と
ネット検索しましたら、ウィキペディアに【丸山重俊】が載っていました。
秋山巌の父「秋山竹之助」は、明治27年(1894年)生まれ。
戸籍に父親の名前は無く、「出生事項知ること能わざるにつきその記載省略」とあります。
母親は「柴原ツイ」
明治42年(1909年)竹之助15歳で、長崎県西彼杵郡小ヶ倉村「秋山玄省」と養子縁組しました。
「秋山玄省」は、明治9年(1876年)生まれ。
玄省は四男で、熊本から分家していています。
明治45年(1912)3月22日 朝鮮京城?町1丁目1番地において死亡。
その玄省の父が「秋山玄信」で、【丸山重俊】は従兄だというわけなのです。
【丸山 重俊】安政2年(1856年)~明治44年(1911年)
幕末の熊本藩士、明治期の検察官・警察官僚。官選島根県知事。旧名・一平
私が興味深かったのは、
「明治38年(1905年)2月、大韓帝国の招聘を受け警務顧問となり同国警察の近代化に尽力。統監府警視、同参与官を歴任するとともに、明治40年(1907年)8月、韓国警視庁警視総監に就任」した事。
(調べすぎてまとまらないので、ここまでにしておきます)
それで、この写真をみつけて「あっ!!」と繋がったのが、
今年、秋山巌7回忌で分骨をしてきた、大分県竹田市「瀧上寺」さん。
武家の方しかお墓を建てられないと聞いていました。
ですので、武家の血筋なのだろうとは思っていましたが、父から直接聞いた事がなかったので、竹田の武家屋敷「五衛門谷」に祖母と住んでいたというのに、合点がいきました。
また少し前進したと思いますが、各方面にご教示いただきながら、調査も進めていきます。