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カテゴリ:記紀とその時代
古事記を読んでいて、思わず吹き出してしまいました。
だってこんな記述が・・・ オオササギ(仁徳天皇)の大后(正妻)、イワノヒメは、 とにかくヤキモチ焼きだった。 それで側室は、宮中にあがることもできない。 側室が目立った動きなどした日には、 大后は「くやしい~!」と足をバタバタさせたっていいます。 まず一人目の側室、クロヒメ。 吉備の人でとっても美しいという評判で、 天皇、すーぐにお召しになりました! でも、大后の嫉妬がコワくて、実家に逃げ帰ってしまったの。 そのころ、 都は難波の高津宮、今の大阪城のあたりと言われていて、 当時はすぐそばまで海が来ていました。 クロヒメが船で帰っていってしまうと聞いて、仁徳さん、 高台に立って歌を一句。 「ああ、沖のほうに小船が連なってる。 あの船で、ボクのかわいいクロヒメちゃんは帰っていっちゃうんだなー」 それを耳にした大后、いたく怒って人を遣わして、 クロヒメを船から降ろしてしまった。 「あんたなんか、吉備(岡山)まで歩いて帰んなさい!」 天皇は「ちょっと視察」と言って淡路島へ。 でも、視察は口実です。 「ここへくると、わが国の島がたくさん見えるなー」と言いつつ、 その島々浮かぶ瀬戸内海を通って、 クロヒメに会いに、吉備まで行っちゃったのでした。 英雄、色を好む。 もう一人の側室が八田若郎女(ヤタノワカイラツメ)。 大后が「宴を開くから、お酒を盛る柏の葉を摘みにいきましょ」と 紀伊の国(和歌山)まででかけているスキに、 鬼のいぬ間のなんとやら、 天皇、ワカイラツメと仲良くやっておりました。 そんなこととはつゆ知らぬ大后、 「いい葉っぱが採れたわ~。あの人、喜ぶかしら!」と 船いっぱいに柏の葉を積んで帰る途中、 人の噂を小耳にはさみます。 「天皇さん、このところ、ヤタのおねえちゃんと仲がいいみたいよ~」 「昼夜かまわずニャンニャンしてるっていうけど、 それにしちゃお后さまは静かだね」 「何にもしらずに、おでかけになっちゃってるのね~」 大后、怒り心頭! 「ちょっとちょっと、それどういうこと???」 愛する(愛しすぎる?)天皇のために紀伊の国までいって採ってきた 船いっぱいの柏の葉を、ぜーんぶ海へ投げ捨ててしまったとさ。 今でいえば、 せっかく買い揃えたロイヤルコペンハーゲンのテーブルセット、 ガッチャンガチャンと割りまくった、というところでしょうか。 「ぐやじ~~~(泣)」 大后、すぐに難波宮には帰らず、その船で実家に帰りました。 しばらくしたら、仲直りなんだけど。 さて。 天皇は、女鳥王(めどりのおう)という義理の妹も召しだそうとします。 仲立ちの使いは、弟のハヤブサワケ。 そのハヤブサワケに、女鳥王は言います。 「天皇っていっても、お后さんが強いから、 好きな側室をかわいがることもできないでいるじゃない。 そんなところへ行ったって、いいことないわ。 私、アンタがいい!」 …ということで、ハヤブサワケは女鳥王とねんごろになり、 仲立ちの使いとして天皇のもとに戻りませんでした。 天皇、大后にはからきし弱いくせに、 他の人には容赦ありません。 この二人に謀反の疑いをかけ、兵を差し向けて倉椅山まで追いつめます。 「倉椅山は険しくて、岩にとりすがることもできずに私の手を握る」 「倉椅山は険しいけれど、お前と登れば険しいとも思わないよ」 ハヤブサワケと女鳥王は、手に手をとって逃げるけれど、 奈良の宇陀まで来たとき、とうとう兵に追いつかれ、殺されてしまいます。 その先鋒に立った将軍・山部大盾は、 女鳥王のブレスレットを腕から抜いて、 自分の妻にプレゼントしました。 あるとき、 大后は「夫人の会」を開き、 おもだった政治家の夫人たちを招いて女性だけのパーティーを催しました。 「今日は私がおもてなしする番よ」と 大后は自らお酒をついで回ります。 大后が山部夫人にお酒をつごうとしたそのとき、 彼女のブレスレットに大后の目が凍りつく。 お酒はつがずに彼女をその場から追い出します。 そして山部将軍を召し出す。 「あの二人は天皇に対する不敬があったから退けられただけで、 他に理由はない。 天皇の弟、妹というお前の仕えるべき主人の腕を飾っていたブレスレットを、 まだその肌も温かいうちに、お前は剥ぎ取って、 それを自分の妻に与えるなんて…」 そう決然と言い放ち、彼を死刑にしました。 烈女です。 ナニワのおかんです。 好きで好きでしゃあないダンナにはイケズになってしまうけど、 人情にはとことん厚い。 けっこう好きです、イワノヒメ。 最強(最悪?)の嫉妬深い女として、1000年以上語り継がれてるっていうのは、 ちょっとかわいそうな気がします。 仁徳天皇は、 「煙が立ってない! この国の民は貧しくて食事の煮炊きもままならないんだ。 減税しよう。これから3年は無税!」 と宣言して、役所がボロボロになって雨漏りするようになっても、 「たらいを置けばいい」という具合で3年がまんした人。 3年たってもう一度「国見」をしたら、今度は煙が立っていたので 「もういいな。民も豊かになった。税金がっぽとりまっせ!」 この逸話、私もよく知っていましたが、 「古事記」にはその前段も記してありました。 仁徳さんって、公共工事をたくさんやった人なんです。 中国からの帰化人の技術を使い、 茨田(まんだ)堤=堤防、茨田屯倉=新田、衣網池(よさみのいけ)=ため池、 難波の堀江(運河)、墨江(すみのえ)の津(港湾)と、 ありとあらゆる公共工事。 難波宮(=役所)だって、日本で初めての、本格的な中国スタイルの都です。 これだけ作ればお金もかかる。人の手も要る。 国民、けっこう大変だったんとちゃう? 3年くらい、税金免除してもらわないと困るくらい疲弊したのは、 この工事のせいかもね。 でも、茨田堤といい堀江といい、何百年ももった優れた土木工事です。 国民も、こうした工事によってとても潤ったことでしょう。 仁徳天皇、やっぱりすごい人。お墓の大きさが彼の偉大さをも物語ります。 女好きで恐妻家だけどね。
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