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ガムザッティの感動おすそわけブログ

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歌舞伎・伝統芸能

2008.10.11
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カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
忠臣蔵の主人公は、大石内蔵助。
だから、内蔵助が出てくるまでは、序盤ということになります。
序盤のハイライトは、ご存知「松の廊下」。
浅野内匠頭が吉良上野介に笑いものにされて、
とうとう殿中ご法度の刀を抜き、額に傷を負わせてしまいます。
浅野内匠頭は切腹を言い渡され、お家も断絶、城明け渡しとなるのですが、

「内匠頭、なんとかガマンできなかったのか?」

と思っている人、いませんか?

実際、
「あんなバカ社長がいたら、社員はたまったもんじゃない!」
と、内匠頭を世間知らずのぼんぼん社長に例えて、酷評する人、多いです。

クライアント(上野介)のイヤミな態度が腹に据えかね、
自分さえ頭を下げればそれで丸くおさまるのに、
キれて刃傷沙汰となったがために会社(藩)がつぶれてしまう。
それによって、たくさんの社員(藩士)とその家族は路頭に迷う。

「そんなヤツにリーダーの資格なし!
 ましてや、血判状をしたためて、あだ討ちする価値など、全然なし!」

いろいろとストレスの多い人間関係の中、
たとえ全く責任なくても「ご無理ごもっとも」が日常的な社会。
ひたすら頭を下げ続けることも一度や二度ではなかった、という人だったら、
そんなふうに思うのって当然ではないでしょうか。

かくいう私も、
今までいろいろな「忠臣蔵」を見ていますが、
浅野内匠頭に感情移入したことって、あまりないですね。
ところが、
今回は「なるほど~、こりゃ仕方ないかも」と思わせるものがありました。
さすが歌舞伎っていうか、
何百年も続いているお芝居っていうのは、
話にムダがなく、かつ人を動かす偶然と必然の配置が絶妙!

「仮名手本忠臣蔵」の場合、
最初にキれるのは、塩冶判官(=内匠頭)ではなく、
彼と同様に御馳走役を仰せつかった桃井若狭之助。
高師直(=上野介)の癇にさわり、彼は無視されたりイジメられたり。
若気の至りというか、単純というか、
瞬間湯沸かし器よろしく、もうつかみかからんばかり。
「殿中」ではなく「境内」ではあったものの、刀の柄に手がかかります。
そこを割って入ってとりなしたのは、
誰あろう、塩冶判官なんですよ。
この人、けっこう落ち着いてる人なんです。

でも若狭之助が師直につっかかったことは、すぐに噂になります。
若狭之助も、師直に恨みをはらしたい、とやる気マンマン!

危機感を抱いたのは、桃井家の家老・加古川本蔵です。
この人、若い主人には「そうです、バッサリおやんなさい」と励ましておいて、
自分は師直さんのところに一直線。
たくさんの「おみやげ」を持って、
「よろしくお願いいたします」と持ち上げること持ち上げること。
師直の家来にも、袖の下を欠かしません。

たいそうなおみやげに気をよくした師直、
松の廊下で若狭之助に出会うと、ヒザつき両手つき、平謝り。
180度態度が変わった理由を知らぬ若狭之助は、拍子抜け。
「仕返し」の気持ちも失せてしまいます。

そんな様子を衝立の陰から見守るは、加古川本蔵。
好首尾に胸をなでおろします。

いや~、いい家来だ~!
人の心の機微を知り尽くし、
カネを使うTPOをわきまえている。
こういう人が番頭に控えていると、ぼんぼんも会社も安泰だね~。

では、
塩冶判官の場合は?

からんでくるのが、「顔世御前」という塩冶判官の奥さんです。
昔、女官をしていたという顔世さん、
賢女であり、美女であり、なかなか色っぽい人妻でありました。
師直さん、
顔世さんにラブレターなんか出しちゃってるの。
「奥さんにソノ気があるなら、ダンナの面倒ちゃんと見てあげるよ」みたいな。
いわゆるパワハラです。

顔世さん、
ラブレターをダンナに見せて「ひどいのよ、あいつ」と
すべてを明らかにしちゃおうか、とも思うんだけど、
コトを荒立てるのもよくないかなー、と、(このへん賢女?)
ダンナには言わず、
「マジメな女は浮気しないものです」的一般論の和歌を送るのよ。

すると師直、これをイヤミととったか、
とにかくフラれちゃったわけで、頭に血がのぼり、
「顔世、ダンナにチクったな~!」と早合点、
お役目を果たそうと目の前に控えている塩冶判官を見るなり、
「お前、オレのこと鼻で笑ってるだろ?」とネチネチ難くせつけ始める。

そうとは知らぬ塩冶は、師直の「乱心」のわけがわからない。
ポカンとしちゃったり、ジョーダンかと思ったりで落ち着き払ってるから、
「涼しい顔して、とぼけるな!」と師直はますます怒り心頭。
イジメもエスカレートして、
一国一城の主を捕まえて「井の中の蛙」、「鮒侍(ふなざむらい)」とののしる始末。

一度はガマンの限界に達し、刀に手がかかった塩冶も、
「ここで刀を抜けば、お家は断絶ですぞ」と釘をさされ、
「失礼の数々、お詫び申し上げる」と歯をくいしばって頭を下げます。

ところが師直はいよいよ図にのる。
なおも口さがなくいびりまくったために、
とうとう塩冶、プッツンしてしまうのでした。

ここで話の作りがうまいなー、と感心したのは、
若狭之助には加古川本蔵という番頭さんがいたけど、
塩冶判官には誰もいなかった点。
彼の懐刀である大星由良之助(=大石内蔵助)は国元、
この日、お供をするはずだった早野勘平は、
なんと腰元といちゃついて遅刻、という設定。
若狭之助に比べ、塩冶はわりと判断力のある名君だったと想定されます。
その「過信」「油断」が、
この悲劇につながったということが、リクツというか感情でわかる仕組み。

また、
通常吉良上野介はとにかく金に汚く、
質素倹約励行で賄賂を好まぬ浅野にいやがらせをした、
また、「赤穂の田舎侍が」という上から目線でいじめた、
というのが通常のキャラだけど、
ここでは
師直はののしりながらも自分のことを「東夷(あずまえびす)」などと名乗り、
顔もけっこうワイルドにメイクしてあることもあって、

師直=関東武士の田舎者
塩冶=関西のみやびな文化人

といった構図が浮かび上がってきます。
つるんとした白いお顔(そういうメイク)の塩冶判官に向かい、
「なに澄ましてやがんだ!! 関東の田舎者とは話もできないか?」みたいな遠吠え。
コンプレックス丸出しです。

ほら、よくいるじゃないですか、
「自分は何一つ悪いことしてない。だから何もこわくない」みたいな人。
塩冶さんってそういう人だったんじゃないかしらん。
たしかにいい人なんだけど。正しい人なんだけど。
カワイクないっていうか、とりつくシマがないっていうか。
なーんか、感情がないっていうか本心が見えないっていうか。

師直、「こいつがベソかく顔を見たい」と思っちゃったのかも。
それでよくあることだけど、
じっとガマンしていた人は、いったん爆発したらどこまでも行きますからね。
塩冶も、怒らせたらタイヘンな人物だったんです。
何せ、「自分は何も悪くない」んだから、どこまでも行きます。
刃傷沙汰はいわゆる確信犯、となれば切腹なんかヘでもないですが、
「この無念をはらせ~!」といまわのきわに由良之助とアイコンタクト、ですからね。
マジメな人は、コワイです。

「殿中でござる!」のシーンにこめられた様々な人間模様。
本当の「事件」で、
浅野が吉良に切りつけた本当の理由と離れ、いろいろ脚色しているんでしょうが、
だからこそ、
観客の1人ひとりが「なるほど」「そうか」「わかる」と
共感できるお話に仕上がっているのではないでしょうか。

明日は、
切腹を命ぜられた塩冶判官が「由良之助はまだか?」と
大星由良之助を待ちわび、
かけつけた由良之助と対面する場面について。
「アイコンタクト」もそうですが、
命が尽きた塩冶判官の遺体を丁寧に始末する由良之助の仕草が
また素晴らしい!

泣けました。
そして、
ヘンなこと考えちゃった。

どんなヘンなことかは、また明日!






Last updated  2008.10.13 12:28:03
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2008.10.10
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
東京・浅草の浅草寺裏手に
「平成中村座」が小屋がけして、「仮名手本忠臣蔵」をやっています。
長いお芝居で、たくさんの見所がある忠臣蔵を何段かにわけ、
今回はその組み合わせによってAプロ、Bプロ、Cプロ、Dプロ、と
様々な部分を楽しめるようになっています。
(一日の昼と夜、つまりA+B、もしくはC+Dと続けてみると、
 ほぼ全体がわかるように組まれています。
 また、昼だけ、夜だけでも楽しめるよう、
 つながりの深い段をピックアップしたり、と構成に工夫があります) 

私が行ったのは、Aプロ。
大序、三段、四段という、物語でいうと浅野匠守が切腹し、
政府の役人に対し、大石内蔵助が赤穂城を開城するところまで。

ただし、これは「仮名手本忠臣蔵」という歌舞伎なので、
あくまで「フィクション」。
「登場する人物や関係団体は実際の人物や関係団体とは一切関係ない」よう、
名前が違ってます。

「開城」するのも、赤穂城じゃなくて、単なる塩冶判官のお館だし。
(でも、「城明け渡し」の場となってますけど)

大石内蔵助(おおいしくらのすけ)→大星由良介(おおぼしゆらのすけ)
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)→塩冶判官(えんやはんがん)
吉良上野介(きらこうづけのすけ)→高師直(こうのもろなお)

などなど。

時代背景も、江戸時代じゃなくて、室町時代。
「太平記」の中にある
「高師直が塩冶判官の妻に横恋慕して、判官夫妻を死に追いやった」
という記述にかこつけて、
あの近松門左衛門が
赤穂の事件を「碁盤太平記」という人形浄瑠璃にした時のネーミング。
彼は、ワイドショー的ネタを芝居の本にするのを得意としていました。

「忠臣蔵」というお芝居自体は、いろいろな人が脚本を書いてできたそうです。

こうしたことは、
今回1800円で売られているパンフレットに書いてある。
各段ごとのあらすじ、見所などもとてもわかりやすくまとめてあって、
これはお得!

出演する役者さんたちのインタビューも内容が濃く、
勘三郎や仁左衛門などベテランは
「教わったとおりにやって、そのやり方を後世に残していく」ことに重きを置き、
若者たちは、憧れの登場人物を演じられる晴れがましさを、素直に喜び、
自分なりの解釈をもってその人物の人生を生きようと必死です。

特に、
今回八役、そのうち七役が初演という勘太郎は、
まるごと忠臣蔵にどっぷり、という感じです。

私が見たAプロで勘太郎が演じたのは、桃井若狭之助と早野勘平ですが、
塩冶判官とともに御馳走役となる若狭之助では、顔の表情の豊かさ、
多勢に無勢の大立ち回りをやる勘平では、キレのある殺陣で
舞台の華をかっさらっていった。

間合い、ストップモーション、見せ場、緩急のある身のこなし、
瞬時に変化する感情をとらえ、デフォルメさせる百面相、と
目を見張ること数回ではおさまらず。

彼は、一つ、山を上った感あり。
演技が大きい。
Bプロを見ていないのがなんとも惜しいが、
後半の世話もの調の段で、
どんなふうに勘平の心の葛藤を演じてみせるか、
ぜひぜひ見てみたいと思わせる成長振りでした。

書きたいことは尽きないけれど、
それはまた明日に譲ります。
今日はこれまで!

「仮名手本忠臣蔵」は、10月26日まで上演しています。






Last updated  2008.10.11 08:16:21
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2008.07.25
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
このところ、松竹が力を入れている「シネマ歌舞伎」。
歌舞伎を高画質の映像に収めることで、「世界中に歌舞伎を発信できる」がその目的だ。
でも、
「世界中」っていうより、日本でだって、
2000円で見られる歌舞伎中継、それも高画質・大画面っていうのは、とってもオイシイ。

今回は、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」。
有吉佐和子の作品で、杉村春子主演の新劇が元祖、
その後、玉三郎も新劇やテレビの人などの混合チームの中で主演を続けていた。

演出は、今期「松尾芸能賞」で特別賞を受賞した、戌井市郎。
杉村春子とともに、文学座の草創期から関わった人だ。

彼は、かねてより玉三郎に「オール歌舞伎(役者)でやってよ」と声をかけていたという。
そして昨年末、
本当に歌舞伎座で、まさに「オールキャスト」の面々で、上演された。

物語は幕末、
開港した横浜の遊郭・岩亀楼を舞台とし、
吉原から流れてきた病弱なおいらん・亀遊(中村七之助)の死が、
時節柄「攘夷」と結びついて語り継がれてしまう
こっけいさ、そして哀しみを
亀遊を昔から知る三味線芸者・お園(坂東玉三郎)の「口達者」を軸に綴る世話物である。

七之助が光る。
いい女形だ。観客をひきこまずにはおかない。
命の消えかかる不安、恋の歓び、いとしい人へのイケズ、運命への隷従、
女の私でも、思わず肩を抱き寄せたくなるほどのいじらしさと色気が匂い立つ。
「三人吉三」の時も、思ったが、
七之助が男をじっとみつめれば、そこに何のセリフがなくても恋が生まれる。
大画面ということもあり、様々な表情を丁寧に演じているのがわかるので、なおさらだ。

あらすじを知らずに映画館に入ったので、
前半の幕切れ、「亀遊が死んだ!」はてっきりお園の狂言で、
死んだことにして、想い人の藤吉(中村獅堂)とかけおちするのかと思ったら、
幕間(映画だが、15分間ある)をはさんで後半、
「彼女が死んで3ヵ月」とあったので、本当にがっかりした。
それでもどこかで「亡霊でいいからもう一度出ないかな」と思ったほどである。

主役の玉三郎も、もちろん芸達者だが、
舞踊の美しさを期待していくと、そういう話ではないのでご用心。
玉三郎にこれほど喜劇的センスがあった、とは初めて知る。
しかし「白塗り」でない玉三郎を見るというのも、あまりない経験だ。
「美しさ」でここまで名の上がった女形なのに、その分野に挑戦するのか、と
半ば尊敬、しかし哀愁も漂う。
最後の最後まで傾城役をむねとした故・中村歌右衛門との路線の違いを思う。
早くから新劇とのコラボや、外国人演出の舞台への出演など、
歌舞伎以外にも積極的に参画した玉三郎ならではの、将来の見据え方なのだろうか。

遊郭の主人の中村勘三郎は、いつもながらの面白さ。
こういう役は、うってつけだ。
玉三郎とのかけあいも軽妙、あうんの呼吸で安心して見ていられる。

唐人口(とうじんぐち)という、西洋人向け女郎・マリア役で気を吐くのが、中村福助
歩き方1つ、口の曲げ方1つが既に可笑しく、楽しませてくれる。
幇間(ほうかん・たいこもち)・和中役の市川猿弥も口あとさわやか、
芸の確かさと自然さで場を支えた。

七之助の相手・通訳の藤吉を演ずる獅堂は、歌舞伎というよりテレビドラマの感じ。
テレビドラマだと思えば演技もピシッとしているが、
歌舞伎としては、まだ「型」がなく、輪郭が甘い。
「ドクトルになる」という「志」と、病弱なおいらんとの「恋」に揺れる青年の
戸惑いは表せても、
心の中にふと生じる「残酷さ」、
それにおののく「優しさ」、
その入れ変わりの瞬間、
それらがはっきりと伝わってこない。
最終的にお園に責められて心中を吐露するまで、
「そっかー、藤吉ってそう考えていたんだー」という判断がつかない、
もっと言えば、その言葉だって、本心なのかどうかわからず、
物足りなさが残った。

中村勘太郎も、ほとんど大河ドラマの「新撰組!」そのまま。
今回は端役だったから演技のストレートさも鮮やかさが目だったけれど、
「思い込んだら他が見えない」役以外を、いかに深みをもって表現できるようになるか、
今後をじっくり見守りたい。

その意味でいうと、さすがの存在感が市川海老蔵だ。
ちょい役の浪人客だが、顔つき、セリフに確かさがある。
5分からそこらの出番でも、1つの人生を感じさせた。

貫禄の坂東三津五郎、居住い美しい市川門之助
腹に一物二物の男を演らせたら並ぶもののない中村橋之助、と
最後はオールスターキャストで場が盛り上がる。

松竹のお膝元、東劇での上映が好評で東京・丸の内ピカデリー1で続映しているが、
それも本日7/25まで
途中休憩ありの3時間半。お時間には余裕をもってお越しください。






Last updated  2008.07.25 12:23:21
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2008.02.29
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
美しい人を見て「お人形のようだ」と表す言葉がある。
人形を見て「生きているようだ」と言うことがある。

では、
人形の役をやっている人を見て、
「まるで人形のようだ」それも
「生きているように動く文楽の人形のようだ」というのは、
何をどう説明していることになるのだろう。

裃姿の尾上菊之助は、人形遣い。
人形の役は、坂東玉三郎。
人形遣いの菊之助は、玉三郎演ずる人形の背後にまわり、
ぐっと人形(=玉三郎)の帯の根元を左手でつかみ、人形を支える。
だらりの帯を上手く使い、
左手の手元をかくしつつ、時に右手で人形の操作をしているような感じを出す。
もちろん、玉三郎は自分の足で歩いて移動するし、
仕草も自分から動いているけれど
黒子も2人控え、さながら文楽の布陣である。

玉三郎は、
表情を変えず、身振り・手振りで感情豊かに謡のセリフを体現する。
その体の動きが、
精巧にできた人形そのもの。
マルセル・マルソーに通じるものがある。
「きれい」「うまい」を通り越して、「そら恐ろしい」。

本当に、文楽を見ているような錯覚に陥る。

ある時は、「まるで生きている人間」のように、
ある時は、「人形だからこそ」の激しく直線的かつ痛みを知らない人形だから可能なひねり…。
でも、実際は、生身の人間の業…。

場面は紀州・日高川の渡し。
道成寺に逃げ込んだ安珍を追い、日高川までたどり着いた清姫(玉三郎)が
一刻も早く川を渡って追いつきたいと、
船頭(坂東薪車)をせかす。
ところが船頭は、先に渡した山伏から、若い娘は乗せてくれるなと釘を刺されている。
(薪車の人形振りもものすごくユーモラス。
 メイクも濃いし、眉は人形のように動く仕掛けをとりつけていて、一瞬人とはわからない)

川べりで、邪恋の炎に身を焦がす清姫。
ダイナミックに人形を動かす(ように演じる)菊之助の仕草が見事。
玉三郎も手の震え、首のよじれ、乱れ髪でほとんど連獅子かっていうほど上下に振れて、
これ、人間の仕草とは到底思えない。
そう、何かに憑かれたような激しさ。
そしてとうとう、美しい顔も一瞬鬼に!(口元だけ、仕掛けをつける早業)

船頭はそれを見て恐れおののき、船ごと逃げ去ってしまう。
すると清姫、
意を決して川へ飛び込む。

ここの美術が素晴らしい。
それまでは左に土手、右は川で船頭の船が浮かんでいたが、
その船は上手に去り、
清姫が土手から飛び降りた途端、青い布が幾重にも現われて、川の水を表す。
清姫はその布と布の間を溺れるように漂う。
布の動きが、お囃子ともあって非常にリアル。
こんなにデフォルメされて、本当の水も、土手も、何もないのに、臨場感!
あの布を動かしている裏方の人たちの技の高さを痛感する。

両手を使って、波をかきわけ、もがき、沈み、また浮き上がる。
そう、
人形は一人で飛び込んだ。
そこには人形遣いはいないのだ。
ひたすら対岸を目指しながら、人形はいつしか人間となり、かきわけ、もがき、沈み…、

が、それを幾たびか繰り返した次に浮かんだ清姫の顔は、般若の顔になっているではないか!
え?と思うとまた沈む。
再び浮かぶと、玉三郎。
三度沈み、すぐに浮かぶと、やはり般若。

どういう早業で、面をつけたりはずしたりしてるんだろう??
…と頭の中がグルグルまわっているうちに、
あっという間に衣装まで変わる!!

清姫は若い娘から、銀のウロコが輝く大蛇になったのだ…。
大蛇となって対岸にたどり着いた清姫は、
大木にするすると上る。
途端、背景の幕が切って落とされ、
春爛漫、桜満開の山の中の、道成寺を清姫が望む。
上から睨むその顔は、
すでに人形ではなく、人間でもなく、怨霊なのだ。

歌舞伎とは、倒錯である。
男が女を演じている。
そこに、人が人形を演じる。
歌舞伎で人がやるところを人形を使ってみせる文楽を、
歌舞伎がストーリーだけでなく、文楽そのものを模して演じる。

倒錯だ。
夢幻の世界だ。
非日常だ。

場面の切り替わりといい、ストーリーを中断させない早変わりといい、
歌舞伎って、エンターテインメントのすべてが詰まっている。
そこに表現される人間の業の深さ。
自分の胸の中の般若を見透かされる恐ろしさ。

見世物小屋の地獄めぐりの、百万倍のおそろしさと美しさが、そこにある。
映画だから、
幕が引かれると、それでおしまい。
スタンディングオベーションでアンコールを要請したい気持ち。

まことに、歌舞伎の伝統はものすごい。
「たったの」30分に、思いっきり打ちのめされました。

*実際の舞台とシネマ歌舞伎と、どちらもご覧になった方のブログを拝見すると、
 川に溺れて大蛇に変身する場面は、実際の舞台ではもう少し冗長だということです。
 どのような編集がされているのか、本物を見ていないからわからないところ、あるんですねー。
 でも、謡はずっと続いているし、どう編集されてるんでしょう??
 「映画の方がすごかった」という、その編集も見事です。






Last updated  2008.02.29 09:19:07
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2008.02.28
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能


坂東玉三郎舞踊集 2 鷺娘(DVD) ◆20%OFF!

舞台中央から後ろ姿の玉三郎がせり上がってくる。

白無垢・綿帽子に黒い帯、半透明の蛇の目傘。
この傘が、まず美しい。
傘骨は黒く地は半透明で、差すと中央から薄墨・白・薄墨と、白い同心円が浮かび上がる。
このグラデーションの模様だけで、すでに幻想的。
その傘を扱う玉三郎が、また絶品。
手元とともに、小刻みに傘が震わせている。
ちらつく雪がやんだかと手のひらでそっとたしかめると、
半分すぼめた傘をしゃん、しゃん、と二度ほどゆすって雪のしずくを落とすしぐさの品のよさよ!

静々と進むすり足や、ゆっくりと身をよじる仕草は女の振る舞いだが、
時々片足を30センチほど浮かせて止まる足さばき、
白い振袖の袖口を丸くつかんで胸に抱き、体を縮めたかと思うとパッと広げるそのさまは、
まさに雪原で、たわむれに羽根をはためかす鷺のよう。

この人、舞いながら幽体離脱して、
自分の立ち姿をどっかで監視してるんじゃないか?と思うほど、
どこから見ても隙のない完璧な形を常にキープ。

背景の美術がまた素晴らしい。
青みがかった鈍色(にびいろ)がたなびく雲のようにうっすらと東西に続く。
銀色に光るススキの穂が、その手前に少しずつ立っている。
その全面で踊る白無垢に黒帯の玉三郎は、どの一コマを切りとっても日本画になろう。
重さを感じさせず、自在に操られスピーディーにそこかしこの空を切る傘の、
モノトーンな色合いが淡いアクセントとなって、さらに全体を引き締めていた。

中盤は、曲もにぎやかに。
衣装も引き抜きで深紅、桜色、江戸紫、と色が入って華やかに。
町娘風なおきゃんな女性になった「鷺の精」は、
素早く何度も衣装を変えながら、恋に胸ときめかす女の幸せを舞う。

しかし、
傘にかくれた何度目かの引き抜きで、
一瞬赤い襦袢姿になった彼女の顔には絶望と憤怒が宿り、
次の瞬間、
今度はその赤い襦袢もどこへやら、真っ白い羽二重の衣装に身を包んだ姿へ。

「娘」は恋に破れ、「鷺」へと戻っていく。
こまかく羽根の縫い取りがしてある羽二重は、
激しく振り出す雪の中でキラキラ光る。
吹雪の中で舞っては倒れ、起き上がり、また倒れ、再び立ち上がり、力をふりしぼり…。
鷺娘は運命に抗うように、
舞い散る雪のそのまた向こうにある何かを求めるようにみつめ続けるが、
やがて力尽き、こときれる。

舞台の中央でこんもりとした白いかたまりは動かない。
まるで雪に埋もれるよう雪景色と同化したまま幕が下りる、
その静謐さに、見る方は厳粛な気持ちにさえなる。
以前は最後大きく袖を羽ばたかせる演出だったのを、
玉三郎がこのように変えた、とのこと。

1984年、ニューヨークのメトロポリタンオペラ劇場の100周年記念公演で、
バレエの大御所・マーゴット・フォンテーンやルドルフ・ヌレエフなどとともに
この「鷺娘」を踊った坂東玉三郎は、
目の肥えた西洋の観客にも驚異と感激を与え、今も伝説的に語り継がれている。

たしかに、
この「鷺娘」、まさにバレエでいうところの「瀕死の白鳥」。
「瀕死の白鳥」が並のバレリーナに踊れないのと同じように、
この演目も踊り手を選ぶ。
また、
杵屋直吉以下の唄がよかった。
玉三郎の踊りにねっとりとまとわりつくような艶のある声。
ラスト、吹雪の中で鳴り響く笛(福原友裕)の音の鋭さにもハッとする。

いよいよ、歌舞伎とは芸術の粋であると実感。
その底力に腹の底から震え上がるのは、「鷺娘」と同時上映だった「日高川入相花王」。
これについては、明日。

*シネスイッチ銀座での上映は昨日で終りました。
 予告映像がこちらで見られます。






Last updated  2008.02.28 12:58:17
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2008.02.02
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
玉三郎と菊之助の「京鹿子娘二人道成寺」に続けて、
野田版鼠小僧」も見ました。

お話としては、ケチで「カネカネカネ…」とうるさい棺桶屋の三太が
死んだ兄貴の遺産を自分のものにしようとしたのだけれど、計画通りには運ばず、
当時の芝居小屋で大はやりだった鼠小僧の名を借りて窮地を脱したのを機に、
どうせなら棺桶屋より泥棒になってしまおう、というお話。
クライマックスは時の奉行・大岡忠相とのお白洲での一騎打ち、
「お上」のやることを暴きながらも、
「肩書き」を信じて人の真実を見抜けない大衆に潰されていく三太の非力を描きます。

圧巻は正直者の目明し(中村勘太)をたきつける大岡忠相(坂東三津五郎)。
悪賢いヤツの手玉にとられる小市民を鮮烈に描きます。

役者としての力量を見せ付けたのは、今回も中村橋之助。
善良な男の振りをするも、実は腹の底まで腐っている男・与吉役。
同じ一人の人間とは思えないくらい見事な演じ分けでした。

女形としては、七之助がよかった。
きれいどころとしての七之助には定評があるけれど、
喜劇役者としての緩急のつけ方、デフォルメの仕方が最高で、
ああ、お父さん譲りだなー、と思いました。

「京鹿子娘二人道成寺」と続けて見ると、
正攻法と亜流というか、
「鼠小僧」の方は、歌舞伎らしからぬ舞台のように思えました。
これに比べると、「研辰の討たれ」は同じ野田版でもずっと歌舞伎らしく見えます。

でも何を歌舞伎というのか、それはこちら側の単なる思い込みなのかもしれない、とも思います。
勘三郎(この時は勘九郎)は、大衆演劇としての歌舞伎の魅力を引き出そうとしているのですから。

面白かったけれど、ちょっとくどかった。
私は「研辰」に一票。






Last updated  2008.02.02 22:27:28
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2008.02.01
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
銀座シネスイッチで本日から始まった「シネマ歌舞伎」。
3週間で3本を見せる企画ですが、
第一週は「京鹿子娘二人成寺」と「野田版鼠小僧」の2本です。

「京鹿子娘二人道成寺」は、玉三郎と菊之助の華麗な舞が、
とびきりの画質で見られる(それも1000円で)オトクな1時間です。

いわゆる「安珍・清姫」の道成寺の話は、
安珍が隠れた鐘に清姫は蛇となって取りつき、鐘もろとも想い人を焼き殺してしまって終わりなんですが、
その後日談として書かれた能芝居が、今回の舞台のベースになっています。

前の鐘に替わり、新しく鐘を建立し、今日はその供養だという日に、白拍子・花子が現れる。
舞を舞うなら、という条件で寺に入る花子。
しかし彼女は清姫の怨霊だった!   …という筋立て。

「舞を舞うなら入ってよし」という坊主たちのスケベ根性というか
美人に弱い男のサガというか、
その程度のモノで始まっちゃうわけですから、
お話自体に「感動」しようという舞台ではありません。

この「舞」そのものが、舞台のキモなのであります。
白拍子の花子と桜子二人に舞わせるのが「京鹿子娘二人道成寺」の基本パターン。
そこを玉三郎は、もうひとひねり、
「花子の二面性を二人に分けて踊らせる」という仕掛けにしました。

だから、玉三郎と菊之助は、
あるときは二人重なるようにして出てきます。
まるで細胞分裂の瞬間のように、一つのシルエットから二人が出てくる時が見事です。
その後も双子星のように、離れては近づきを繰り返します。
ぴったりしたユニゾンの美しさに、惚れ惚れします。

菊之助は、とにかく美しい。
体の運びに切れがあります。
特に下半身の強さと体のしなり、スピード感には伸び盛りの意志を感じます。

かたや、玉三郎。
菊之助に遅れて花道からせり上がってきたときは、
さすがに大画面のどアップですから、歳は争えません。
やっぱり若さには勝てないのねー、と思っていたら、そこからです。

眼力。

鐘の方を見上げたその瞬間、玉三郎の表情に怨念が宿ります。
恐ろしい殺気。
となりの菊之助は自分のしなや作りの完璧さの方に気がいっている感じ。
美しいけど、人形なんです。

玉三郎がふと菊之助の顔を見やるとき、そこには姉が妹を慈しむ優しさがにじみ出る。
手毬で遊ぶときは、幼女の無邪気さ。
手ぬぐいの先を片手で持って、ひょい、ひょい、と前に投げるときは、
想い人のつれなさに、いけずを訴えるような目つき。
そして、最後に鐘の上によじ登って見栄を切る寸前、
身を焦がすような安珍との恋路をはるかに思い出すような陶酔の表情、
絶望の淵で咲く一輪の花のような美しさ、はかなさ、いじらしさ…。
それが一瞬で般若の形相に立ち代り、僧たちを上から睨みつける!

この人は、舞っているだけじゃない、演じているんだ!

そんなことを思いつつ、帰りに寄った本屋で「ダンスマガジン」の3月号を見たところ、
高岸直樹(東京バレエ団プリンシパル)と三浦雅士(ダンスマガジン編集長)の対談がありました。



DANCE MAGAZINE (ダンスマガジン) 2008年 03月号 [雑誌]


その中に、高岸がノイマイヤーの作品「月に寄せる」を踊っている公演中に、
玉三郎にけいこをつけてもらったことが書いてあったのです。

(踊っている高岸と斎藤友佳理の)目の表情がそれぞれ違ったらもっと素敵なんじゃないか
といって、文化会館の部屋を借りて30分くらい指導してくれたのだけれど、
「自分ではできるけど、人におしえるのは難しい」と。
それで、一、二、三で
一は自分を見ている、
二は人を見ている、
三は遠くを見て何かを思い出している
、というトレーニングをさせられた、
という話でした。

そのくだりを読みながら、
今日観た映像の中の玉三郎を思い起こさずにはいられませんでした。

「京鹿子娘二人道成寺」は、
美術という点でも最高級の舞台です。
「鐘の供養」というおめでたい日だから紅白の幕、
その前に、ラインダンスのように並ぶ坊主たちの白と黒の法衣。
舞が始まると、後ろは満開の桜の山。
お囃子の人々は、黒の紋付に桜色地に桜の花の模様の裃と袴を着けて、
背景の中にほどよく溶け込んでいます。

二人の舞姫は、最高級の振袖を色彩豊かに着替えながら、
ある時は一人で、ある時は二人で、舞い続ける…。
贅沢の上に贅を尽くした、美の世界でした。






Last updated  2008.02.02 11:18:34
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2008.01.18
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
東劇でシネマ歌舞伎を見てきました。
「シネマ」ですからカテゴリーは「日本映画」ですが、
中身は「歌舞伎」それも演出は野田秀樹。
いわゆる劇場中継の映画版です。

「野田版・研辰の討たれ」
2007年に、野田秀樹が中村勘三郎と組んで歌舞伎らしからぬ歌舞伎をやってしまい、
歌舞伎の「決まりごと」も何のその、
意欲と勢いだけで突っ走ってきたものの初日を前にコワくなったが、
結果は「歌舞伎座始まって以来のスタンディングオベージョン」という吉と出た
という、あの第一弾です。

面白かった~! 声出して笑っちゃいますから。
勘三郎ってほんと、すごい役者です。
セリフ操りの巧みさ、絶妙な間合いの取り方もさることながら、
顔いっぱいに汗かきながら、
ずーっとテンションキープする、そのエネルギーに感服。
真正面から鋭い立ち回りを力の限りにぶつけあう
市川染五郎、中村勘太郎の気迫に思わず
「若い~!」と身をよじり(ここでまた爆笑)
「若いもんに負けないためにはテンション、もっと高く、高く」と観客に宣言するみたいに口にする。
彼を観てると、いつも藤山寛美を思い出します。

虚実ないまぜのアドリブはその後も満載。
野田や勘三郎がアメリカやイギリス公演で苦労させられた組合(ユニオン)の強さから
勘太郎の私生活暴露まで、
2007年当時の世相やら、その時はやったお笑いやら、
いろいろ入っています。

勘三郎が斬新なことをやろうっていうときは、必ず「お客さん」との距離を狭めようとしている。
歌舞伎はその昔、床の間に飾られた行儀のいい文化じゃなかったことを、
その「一流の猥雑さ」を、
彼は復興させようとしている。

橋之助の老け役にも拍手!
前半の与力は清清しいのに、後半の寺の住職!
大画面のアップになってもわからない。
メークもそうだが、歩き方、喋り方、ほんとの老人としか思えなかった。

そして、野田が作るものは、やっぱり恐ろしいわけで。
「研辰の討たれ」は、
本当は人を死なせて「仇」として追われる身となった「研ぎ屋あがりの辰次」が
口八丁手八丁で「実は仇を探している」とウソをついて、
仇討ちから逃れようとするお話で、
木村鏡花作の小説を歌舞伎化したもの。
その時も大正14年に書かれた小説をすぐに歌舞伎にしているから、
斬新だったのかも。
「敵討ちを逃れようとする卑怯者だが、憎めない」という設定はその時からのテーマである。

野田は、これを
「赤穂浪士の討ち入り」で一種の「敵討ちLOVE」ブームが世間に起きていた時代の話として、
無責任な「世間」に翻弄される両者の悲喜劇を強く描いた。
「桜のように潔く散るばかりがいいのではない」という冒頭の
ただの売り言葉に買い言葉のような言い草が、
やがてラストの
「もみじのように、散りたくねぇ、散りたくねぇ、と…」という
辰次の観念しきった涙声に変わっていく、その伏線の張り方。
そして、思わぬ幕切れ。
いつもながら、野田ワールドの設計図の緻密さと
心の中にぐいぐい押し入ってくる荒々しさとを感じた。

「シネマ歌舞伎」とは、
世界の人々に日本の伝統文化と先端技術を容易に体感してもらう様式として、
「新日本様式100選」に選ばれたのだとか。
今年から、アジアを皮切りに、海外での上映を開始するそうです。

世界と言わず日本でも、たった2000円で、思いっきり歌舞伎を楽しめるツール。
ただ、上映期間が短いのが玉に瑕。
去年の今頃やっていた玉三郎と菊之助の「京鹿子娘二人道成寺」も
すごーく見たかったのに、すぐに終わってしまった。

今回も東京では東劇での公開が2/1(金)までなので、
興味のある方、今すぐ東銀座へ!
(その後、順次全国公開だそうです)






Last updated  2008.01.21 08:10:34
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2007.09.28
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
三人吉三(さんにんきちざ)」は、
「お坊吉三」「お嬢吉三」「和尚吉三」と呼ばれる3人の盗人と、
その中でも中心的存在・和尚吉三の家族の物語。

三人の盗賊たちには、それぞれの過去があり、
3つの要素にからみとられて運命の最期を遂げる。

庚申丸という名刀、
その刀を買うための100両、
その刀で切った孕み犬。

この3つがぐるぐると回って、話が進む。

刀は、武士の出のお坊吉三の家宝、
金は、商家の出のお嬢吉三の実の親が振り出したもの、
孕み犬を切ったのは、和尚吉三の父親

たったそれだけの話である。
それだけの話が、3時間半。それも、緻密で一つもほころびがない。
一見何のつながりもないようなものでも、
必ず「三つの要素」が発端になっていることが明らかになってくる。

一つひとつの場面の完成度は言うまでもない。
歌舞伎の台本らしく、役者の「しどころ」満載で、錦絵を見るよう。
川だ家だ寺だ辻だと場所がめまぐるしく変わるのに、
感情の流れがせき止められることがない。
クライマックスは何度も来て、
ここが最大の山場だと思うと、そのあとからもっと大きな波がやってくる。

「脚本さえよければ、芝居は成功する」とは、俳優にして映画監督でもある津川雅彦氏の言。
「三人吉三」を観ながら、私はその言葉をかみしめていた。
この話を作った河竹黙阿弥は幕末の人で、明治の半ばまでは生きていたという。
おそろしいまでに完璧な設計図。
話の構成が見事さに、私はめまいを覚えたほどである。

その設計図の通りに、立派な迷路を作り上げたのが串田和美。
「コクーン歌舞伎」というと、歌舞伎座の格式から自由になって、
破天荒で、歌舞伎を逸脱したものをやるように思われるかもしれない。
たしかにそういう面は多分にある。
音楽が椎名林檎だったり(まったく違和感なし)、
歌舞伎俳優以外の役者が出ていたり(笹野高史、見劣りせず)。

でも、内容は、とことんオーソドックス。
演出的にはところどころに現代的な味付けを配置するが、
セリフの一文一文は重厚、100年以上前に書かれた世界を浮かび上がらせる。
「新しく作るというより、原作の意を忠実に伝えたかった」と本人が言うだけのことはある。

それにしても、歌舞伎役者は力がある。
若い勘太郎、七之助にして、一瞬で観客をとりこにする。
川端で夜鷹の七之助が「もし、お遊びなされておゆきなしゃんせ・・・」と声をかけ、
勘太郎が足をとめ、
二人みつめあいながら気づけば手に手をとって・・・という場面など、
息をのむほど美しい。

福助のお嬢吉三は、猫をかぶった時の女のシナと、地を出した時の落差の大きさに感心する。
また立ち回りの見事さ、体の柔らかさなど、
振袖に大きな鬘をつけて、よくもここまで自由自在に動けるものだと感心してしまう。

橋之助がまたいい男ぶり。
冒頭すぐに斬られてしまうちょい役でも顔を出しているが、
その軽妙な道化ぶりから一転、お坊吉三という侍崩れの盗賊は、
鋭い切れ味と暗い翳を合わせもち、セリフ回しに惚れ惚れする。

ただ一人、歌舞伎役者でないのに重要な役で出ている笹野高史は、
三つの要素の交差をなした張本人・伝吉の苦悩、
人間の業を一身に受けて身悶えする弱くて強い男の一生を演じ、
まったく他と見劣りすることがなかった。

とはいえ、やはり勘三郎である。
出だしは商人役で藤山寛美ばりの演技、
「申告しまっせ」など、自虐ネタも織り交ぜて笑わせておいて、
和尚吉三として出てからは、盗賊ながら義に厚いまっすぐな人間性がまぶしいほど。
本当は嬉しいのに憎まれ口しかきけない父親とのかみ合わない会話の中ににじみ出る、
愛に飢えた息子としての情、
その父親の死に盟友吉三たちが関わりがあると知った時の目、
そして「二つ棺桶を用意してくれ」と搾り出すように言い放った時の口・・・。

すべては巡る因果の糸車。
いかなる人間も、悪行の代償を払わなければならない。
その残酷なまでの徹底ぶりが、
ご都合主義にとどまらない黙阿弥のすさまじい作家根性を見せつける。

6年ぶりの再演は、いよいよ深みを増したとの評判も高い。
観客を情念うずまく江戸の空間にひきずりこんだ。
シアターコクーンの客席を半分平土間にして、
通路は縦横無尽の花道となる。
座布団と座布団の間に役者が割り込んで、大衆劇の匂いを醸し出す。
カーテンコールでは勘太郎が中心となって「ブートキャンプ」まで披露するサービス精神。
勘三郎の「もともと歌舞伎はアングラ」というポリシーを体現している。

私たちが演劇に求めるカタルシスの、すべてが入っている宝箱、
それが、このコクーンでの「三人吉三」だったような気がする。

先日の日記で申し上げたように、WOWOWでの視聴感想です。
ほんっと、ナマで観たかった(無念)。






Last updated  2009.12.01 23:39:48
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2007.09.24
カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
本日、WOWOWにてコクーン歌舞伎『三人吉三』を観ました。
ナマで観ている方、
6年前の初演をご覧になっている方、
スタンダード歌舞伎『三人吉三』をご存知のお方、
一度も公演に足を運んでいない不見識な私めをお笑いくださいませ。
もうもう、脳天割られるくらい感動しました。
河竹黙阿弥のものすごい構成力にひれ伏します。

今日は見ているだけで体中の力を使い果たしてしまいました。
いまだに頭がボーっとしているので、
今日はご容赦くださいませ。
レビューは後日、必ず書きます。

WOWOWに加入している人で、『三人吉三』に興味はあったものの、
「えーっ、4時間? ムリ!」と本日の視聴をパスしてしまったアナタ、
もし再放送があったら、その時は、録画してでも、細切れでもいいですから、
必ずご覧ください。

福助の悪女変幻自在、
七之助の絶世の美女、
橋之介の・・・ああ、書き出すと止まらなくなるので、
後からちゃんとまとめますね。

それでは、失礼いたします。






Last updated  2007.09.28 08:01:09
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