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あの頃の俺達は、甲子園を夢見て、そろばんの珠を弾いていた。
(めちゃイケ!数取団風) 母校の甲子園出場記念として、ちょっとその当時を振り返ってみます。 自分が高校に進学した頃は、県内では岡山南がダントツに甲子園に近い学校だと、 県内の誰もが思っていたでしょう。実際、甲子園を目指して南校に入学する選手 は多く、南校に対抗意識を持ってる者が、我が東商、関西高校へと進学する、と いった図式だったように思います。 自分も、3年の間に南校は何回甲子園に行くのだろう?うちも1回くらいは出れる といいのにな。と思っていました。 が、南校も、東商も、はたまた関西も、在学中に1度として甲子園に出ることは ありませんでした。 この3校に立ちはだかったのは、阪神の星野SDの母校、倉敷商でした。 ここは本当に強かった。黄金時代といってもいいでしょう。なんせ、夏の甲子園 でセンバツ優勝の愛知・東邦に勝ったくらいなんですから。南校も母校も関西も、 ことごとく倉敷商に行く手を阻まれました。監督の長谷川監督、見るたびに俳優 の斎藤洋介に似てるなーと思ってました。 そして最終学年となり、今年こそ!の思いでいましたが、その年は春も夏も、す ごい事が起こりました。春は玉野光南、夏は岡山城東。両方とも、春夏を通じて 初の甲子園キップを手にしました。これは本当にびっくりしました。 自分が在学していた頃は、東商と言うと「あー、野球の強い学校だね。」とよく 言われました。まあ、県内唯一の甲子園優勝校ですから、そういうイメージが 強かったのだと思うのですが、実際はそこまでの力はなかったかな?というのが 正直な感想です。しかし、1学年下の後輩が夏の甲子園に11年振りに出場し、す ごく嬉しかったのを覚えてます。 その時から数えても、干支が一回り以上してからの甲子園なんですよね。そんな に時間が流れていたのかと、つくづくと思いますが、この頃の思い出って当時の まんま色あせないで覚えてるものなんですねー。 (でも昨日の事とかは、あまり覚えてないんだよなー。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.02.01 21:45:43
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