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往々にして人間とは無い物ねだりである。そのジェラシーの増幅度といったら隣の芝は青いどころの騒ぎではない。隣の芝は青を通り越して黄金に輝き始めるのだ。あぁ幻の国ジパングはここに存在せり。
一頻りの嫉妬を燃やした後は、頼んでもないのにその芝を刈る作業に入る。その敏捷性といったら出る杭が「出ようかな」とか考えているころから彼らは釘バット片手に我々を待ち構えているのだ。そのエネルギーを違うベクトルに回せないものなのか。我々はため息を漏らす。そんで、しっかり打たれる。 一番醜悪なケースをここで紹介しよう。「老い」と「若さ」は遡ること1万年前からこの血まみれの戦争を行ってきていた。オールド・ピープルは剣を握れなくなった代わりにペンを、盾を持てなくなった代わりに書類の束を、そして斧を振りかざす代わりに権力を、といった具合にヤングメンたちをひらりひらりといなしてきた。若人はその余りあるエネルギーのぶつけ方が分からず、そのアウェイ戦を落とし続け、つけられたあだ名が「ゆとり」である。的確過ぎて涙も出ない。 しかしその実、なぜ彼らが御老体に鞭打ってまでこのような労働に勤しむかといえば、何のことはない彼らは淘汰を恐れているのである。「俺たちの屍を越えてゆけ!」なんてワンピース的な威勢のいい高齢者は最早この世において絶滅危惧種であり、仮にいたとしてもフガフガ言ってて何が何だかわからない。名場面がしまらない。よってカウントには入らない。 若者は舐められっぱなしである。セクシーな女性になら寧ろ御褒美だが、何が嬉しくて腹の出た年寄りに舐められなくてはいけないのか。しかし若者はそれなりに阿呆な事をこれでもかというくらいやらかしているので、いかんせん分が悪い。「若気の至り」で全部すんだら京都府警は週休5日制になるだろう。 今の若者たちに足りないものは何なのか、私は腕を組んで考える。考えてるうちに「待てよ、アホが多いほうが相対的に私の評価はうなぎ上りになるではないか。ってことはこのままでいいではないか」という結論に至る。私は自分のことで精一杯なので若者の愚行を憂いている暇はない。仮に暇があっても憂うことはない。自己責任は社会の大法則である。 諸君、走りたまえ。君は思っているより足が遅いのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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