八郎の回天(推定)ストーリー (1860年以後1860年まで)虎尾の会結成以後の 八郎の実際の行動(幕末での功績)と暗殺後の歴史からみる“回天のストーリー(STORY)”○ は世の中の出来事。 1860/2月 安7/3月末(2月?) 虎尾の会(尊王攘夷党)の結成 1860/3/24 安7/3/3 桜田門外の変 ・ 1860/ 万1/12/05 ・ヒュースケン(アメリカ公使館通訳)暗殺 (薩摩藩士、伊牟田尚平ら) 1861/ 6月 文1/ 5月中頃 ・(横浜)異人館焼打ち計画の決定 (実施予定8・9月頃) 1861/ 6/26 文1/ 5/19 (幕府の逮捕状発行日) ・八郎に対する捕縛命令(八郎逮捕状の日付) 1861/ 6/27 文1/ 5/20 ○「虎尾の会事件」 (でっちあげ)無礼討ち事件(北有馬太郎、西川錬造、笠井伊蔵) ・逃亡生活始まる(約1年半) / 江戸、北関東、奥州、越後、東海道等を転々 1861/ 8/ 6 文1/ 7/ 1 ・山岡と松岡が幕府へ(先頃御尋の趣に付き)上書 1861/12/10 文1/11/9 ○九州遊説の開始 京都から九州へ向かい、京都挙兵を説き始める。 1862/12月 文1/11月 ・「回天封事」の作成(大坂から小倉への船中で) ・三条実美らが江戸へ下向し”攘夷実行”を促進 文久1/11/14 ・入京 文久1/12/7 ・薩摩藩、江戸の芝屋敷を自ら焼き、参勤猶予の許可を得る。 文久1/12/14 ・阿蘇神宮へ至る 1862年: 1861/12月 文2/1/10 ・大阪へ戻る 文2/1/22 ・浪士取立て計画について議論する(松平主税助、杉浦梅譚、勝海舟、坂本龍馬の4人)。 1862/ 1月 文2/2月 ・和宮降嫁を実現(攘夷実行を条件) 文2/3月 ・孝明天皇の強い要望により慶喜が、攘夷実行を約束・浪士組(234人)の編成(江戸-京都) 1862/ 4/14 文2/3/16 ・島津久光1000人余りの兵を率いて鹿児島を発つ。 1862/ 4/22 文2/3/24 ・大阪・薩摩藩邸に入る 1862/ 5/ 9 文2/4/11 ・島津久光(公武合体)は、主命に違反したとして、西郷隆盛(尊皇攘夷)を沖永良部島に遠島(死刑に次ぐ、重罪)にする。 (西郷は下関で久光と合流するという命令を無視して、大阪へ走り行き、尊王攘夷派をなだめてまわった。加えて、久光は、西郷が姫路で尊王攘夷派をあおっていると聞かされた。) 1862/ 5/11 文2/4/13 ・大阪・薩摩藩邸を去る(酒を飲み、騒ぎを起こした理由で) ・島津久光、伏見で公武合体と幕政改革の実現を改めて表明 1862/ 5/12 文2/4/14 八郎、京都へ入る(山崎から向町の旅館へ)。 1862/ 5/21 文2/4/23 ○寺田屋事件 (虎尾の会:神田橋直助) ○寺田屋事件 (薩摩藩、公武合体・尊皇 VS 回天攘夷・尊皇) 1862/ 5/23 文2/4/25 ・「回天封事」(密書)建白書を(孝明)天皇へ送付 (大挙の宣言) 1862/6/6 文2/5/9 ・島津久光(佐幕攘夷)が、(京都で)大原重徳(公家)を勅使として江戸へ派遣することを決定する。 1862/6月 文2/5月 ・徳川慶喜、朝廷(実際は京都公家たち)に横浜鎖港(港の閉鎖)を確約する。 1862/6/27 文2/6/1 ・京都から江戸に立つ。 (文2/6月): ・孝明天皇の勅使が攘夷の実行の要請を幕府へ提出。 1862/7/3 文2/ 6/ 7 ・大原重徳が、島津久光と薩摩兵1000人に随行して江戸へ入り、勅命をたてに幕政改革(文久の改革)を要求する(幕府との交渉の開始) 1862/7/6 文2/6/10 ・島津久光と大原重徳が、徳川家茂(将軍)に対して、一橋慶喜・松平慶永(春嶽)登用の勅旨を伝える 1862/8/4 文久2/7/9 ・一橋慶喜が、将軍後見職に就任する。 (松平春嶽を新設の政事総裁職に任命) 1862/8/5 文久2/7/10 八郎、伊勢を起って吉田(駿河)に至る。 1862/9/14 文2/8/21 ・生麦事件 ・生麦事件 薩摩藩(島津久光ら)、江戸からの帰りに、外国人を無礼切り。 1862/9/17 文2/8/24 八郎、江戸に到着する。 1862/10/ 2 文2/閏8/9 ・水戸での活動と(同志の)大赦のための上書を書き始める 1862/10/14(): 文2/閏8/21 ・島津久光が「12ヶ条からなる建白書」を関白・近衛忠煕・忠房父子に提出。 「朝廷は幕府に攘夷を命じてはならない」ことを強調。 1862/10/16(): 文2/閏8/23 ・島津久光は長州藩の公家との攘夷の計略を知り失意のうちに京都を去る。 1862/10/17 文2/閏8/24 ・松平春嶽への「幕府の元老に上り大赦を論ずるの書」の上書送付(田尻浜の空窪寺(現茨城県日立市)で) ・その後 東北遊説へ(10/7まで) 1863/12/ 8 文2/10/17 ・「国事御用掛」の設置、 「薩摩・長州・土佐」諸藩への開放 1863/12/ 9 文2/10/18 ※講武所剣術教授方・松平主税助が、浪士利用を幕府に提言 1862/12/17 文2/10/26 ・(勅使)三条実美らが攘夷督促のために京都から江戸に来る 1863/ 1/ 1 文2/11/12 ・幕府政事総裁(福井藩主松平慶永(春嶽))への「急務三策」建白書(幕府大執権春嶽公に上る書)の提出(水戸) 一、攘夷の勅令を報じること。 一、天下に大赦をほどこすこと。 一、天下の英材を教育すること。 ・浪士組編成の許可がおりる。 ・急務三策の上書を伝え聞いた伝馬町の牢獄にいた池田徳太郎と石坂周造が、「志士の大赦」と「浪士募集」の必要とを力説した書を獄吏より高家中条中務大輔(経由した後に近衛関白へ)に送る 1962/ 1/ 3 文2/11/14 ・松平主税乃助(ちからのすけ)、講武所で浪士組の募集(先行募集)を始める。 1963/ 1/22 文2/12/ 3 ・松平春嶽が、松平主税之助を講武所剣術教授方兼任のまま、浪士取扱に任命する。 1963/ 1/27 文2/12/ 8 ・急務三策を受けて幕議での浪士組募集の決定 1963/ 1/28 文2/12/ 9 ※松平主税助、「浪士取扱」に任命される、 1963/ 1/29 文2/12/10 ・松平主税助、宮和田光胤に浪士組責任者の依頼をする 1963/ 2/ 1 文2/12/13 ※八郎への浪士組責任者へのきっかけ ・宮和田光胤、松平主税助の屋敷へ行き、浪士組の依頼を断る 1963/ 2/ 3 文2/12/15 ・徳川慶喜、京畿警備のため、江戸を出発。 1963/ 2/ 7 文2/12/19 ○浪士組事件の始まり ・浪士徴募の命令 (文久2年12月頃 松永春嶽(慶永)と山内豊信は浪人牽制策として浪士組を作り、八郎と鉄太郎などに協力を求めた。) 文久2/12/20 松平主税助から杉浦梅譚へ(取立てるべき)浪士の名簿(2回目)が渡される。(八郎、坂本の記載) 松平主税助から杉浦梅譚へ(取立てるべき)浪士の名簿(2回目)が渡される。(八郎、坂本の記載)) 1863/2/12 文2/12/24 ・鵜殿(うどの)鳩翁、浪士組取扱就任 1863/2/14 文2/12/26 ・池田、石坂、熊三郎の赦免 1863/2/17 文2/12/29 ・幕府の浪士募集の命令 (板倉閣老から松平主税助へ) 1863/3/7 文3/1/18 ・八郎の赦免 文3/1/22 ・浪士取立て計画について議論する (松平主税助、杉浦梅譚、勝海舟、坂本龍馬の4人)。 1863/3/22, 23 文2/2/4、5 ・浪士組の採用試験 (浪士組募集50人に対し、250人集まる。) 1863/ 3/22 文3/2/4 ・イギリス軍艦3隻(ユーライアス、ラットラー、レースホース)の横浜港来航 文3/ 2/ 4 松・平主税助、浪士取扱を辞任 1863/ 3/24 文3/2/6 ・浪士組編成終了(合計234名/八郎除く) 1863/ 3/26 文3/ 2/ 8 ・浪士組、江戸を出発 1863/ 3/31 文3/ 2/13 ・将軍家茂が、老中と約3000人の供を従えて江戸を出発 1863/ 4/ 6 文3/ 2/19 ・将軍家茂が、二条城に入る。 ・イギリス艦隊、品川沖に来航。生麦事件の賠償を幕府に要求。 1863/ 4/ 7 文3/ 2/20 ・「国事参政」、「国事寄人」が設置と、「学習院」の「草莽への開放」 1863/ 4/10 文3/ 2/23 ・浪士組、京都壬生村に到着、 ・八郎の「新徳寺演説」と上書連名 ・八郎、父への手紙「4月初めにまたまた、関東に帰り申すべく候」の内容含む ・英国代理公使二―ル、生麦事件賠償金支払いの回答期限を20日から延期(3度目) 1863/ 4/11 文3/ 2/24 ・「学習院」への建白書(浪士一同連判)の提出(1回目) 1863/ 4/16 文3/ 2/29 ・浪士組、朝廷より(八郎作成の攘夷の)勅諚と、朝旨(関白からの達文)を賜る。 1863/ 4/17 文3/ 2/30 ・上書「関東での攘夷の先鋒を勤め度(た)き旨(むね)」 の提出(2回目) 1863/ 4/19 文3/ 3/ 2 ・松平春嶽(公武合体派)の政事総裁職の辞任(慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすることへの反対の理由で) 1863/ 4/20 文3/3/ 3 ・関白・鷹司輔熙(すけひろ)から東下の命(浪士組を江戸に戻す/勅諚)が浪士役人に下りる。(イギリス艦隊来航により) 1863/ 4/21 文3/3/ 4 ・将軍・家茂と一橋慶喜が 攘夷実行の不可能を説くために229年ぶりに上洛 1863/ 4/ 2 文3/3/ 5 ・八郎「将軍に攘夷の勅を奉じ雄断に出でしむる事等の10策」の建白提出 (3回目、「書を国事掛けに上がり、江戸に戻って、攘夷の準備を乞う」という内容含む) ・「英国軍艦数隻が来航し、応接の様子によっては開戦する可能性があると、大名・旗本へ触れ出された。」 (幕末日本と対外戦争の危機/ 保谷徹) 文3/3/ 5 ・高橋精一郎(泥舟)が浪人取締役になる (取締役2人体制) 1863/ 4/26 文3/3/ 9 ・八郎、山岡の名で、幕府御目付・池田修理 宛てに 「攘夷の号令をすみやかに天下に布告すべし」と勧告 1863/ 4/28 文3/3/11 ・孝明天皇の攘夷祈願 (攘夷祈願のため、将軍はじめ諸大名を従え、賀茂上下神社に行幸する) 1863/ 4/29 文3/3/12 ・新徳寺において浪士組全員へ東下の披露会 (八郎から一同に向かって、関白の命によって「攘夷の先鋒となる旨(むね)」を言い渡す) 近藤勇・土方歳三・芹沢鴨の一党の浪士組からの脱退(十三名) ・江戸町民への避難勧告(幕府) 「女・子供・老人や病人はがって次第に避難するよう町触(まちぶれ)が出される」 (幕末日本と対外戦争の危機/ 保谷徹) 1863/ 4/30 文3/3/13 ?・浪士組、江戸への移動(横浜での攘夷決行のため) ・朝廷の勅諚(攘夷)が下る。 ・壬生浪士組(210名)の結成 ・浪士組、京都(新徳寺)を出発し京都を離れる (一同は木曽路を通って江戸に向かう) 文3/3/19 ・幕府は“攘夷の勅”を奉戴することを全国に布告 文3/3/28 ・浪士組、江戸に到着 (浪士200名に加え、500名で攘夷決行を計画) 1863/ 文3/4/1 ?攘夷の期限を5/10とすべき旨を諸藩に布告させた。(大川周明 4/11?) ・高橋泥舟の八郎への隠居勧告と八郎の同意 ・朝廷から幕府に、外国応接の事を水戸の徳川慶篤に委任させることと、 1863/ 5/24 文3/4/7 ・板倉勝静(京都)が、八郎は切支丹なので「だまし討ち取り」にするようにという指令を出す。 (八郎がキリシタンである証拠はなく、この頃の幕府側の作成文書を自分たちに都合のよいように書いていたことが判る例でもある。) 1863/ 5/27 文3/4/10 ・横浜(軍艦と外国人居留地)を下見に行く 1863/ 5/28 文3/4/11 ・風邪で寝込む ・孝明天皇の強い要望による慶喜の苦し紛れの約束 石清水八幡宮への行幸には風邪による高熱を理由に欠席した(天皇から「攘夷の節刀」を受けるのを避けるために仮病を使ったといわれる)。 しかし、「5月10日を以って(将軍徳川家茂による)攘夷を実行する」旨の奉答書を出さざるを得なかった。 1863/5/29 文3/4/12 ・八郎たちの「横浜(軍艦と外国人居留地)焼打ち計画 」が幕府に明らかになる。 ・徳川水戸公が江戸に戻る、 1863/5/30 文3/4/13 ・清河八郎、麻布で幕臣の佐々木只三郎ら6人に暗殺される。 ○浪士組事件の終焉 ***** 以下は八郎の死後の出来事 ***** 1863/ 6/ 1 文3/4/14 ・松平忠敏が浪士取扱に復帰 1863/ 6/ 2 文3/4/15 ・横浜焼打計画実行日 [勅諚による江戸での攘夷実行計画 “横浜に火を放って外国人を切り、海に石油をまいて黒船を焼き払う”予定だったが実行されず)] 1863/ 6/ 6 文3/4/19 ・松平春嶽、政事総裁職を辞任する。 (実際の上奏は4/20、先に情報が入ったのだろうか) 1863/ 6/ 7 文3/4/20 ・攘夷の期限を6/25(文3/5/10)とすべき旨(攘夷実行の約束日)を諸藩に布告させる。) (※大川周明は、4/1としている。) 1863/ 6/ 8 文3/4/21 ・幕府、イギリスとの「鎖港談判」を行うことを大名・旗本へ告げた。 1863/ 6/25 文3/5/10 ・将軍徳川家茂の攘夷実行の約束日。 (孝明天皇の強い要望により約束させられた攘夷実行の約束日) ・長州藩久坂玄瑞らアメリカ船へ発砲。 1863// 文3/ 6/16 ・家茂が、海路にて江戸に帰還する。 1863/ 8/15 文3/ 7/ 2 ○ ・薩英戦争 1863/ 9/17 文3/ 8/ 5 ・下関戦争 1867年: 慶応3/10/14 大政奉還の上表文を朝廷に提出 1868年: 慶応3/12/9 王政復古の大号令 ((将軍への) 1つ目のクーデター) |