飛鳥寺と百済の王興寺
少し前になるのだが、「飛鳥寺の原型、百済の寺院か」という記事が載った。4月16日(水)の新聞である。 韓国にある王興寺(百済の都、扶余)が百済王の発願で 577年2月に創建されたことが新しくわかり、596年完成の飛鳥寺のモデル、との見方が強まってきた、という。飛鳥寺は法興寺、元興寺ともいう。たしかに寺院名が王興寺と似ている。がてんがいく。 これまでは、蘇我氏の氏寺とされてきた飛鳥寺。王興寺が、文字どおり”王が興した寺”だったことが分かり、その性格を見直すべきだとの意見もあるという。「飛鳥寺も仏舎利も技術者も百済と倭の王権間の交流がもたしたものだったはず・・・豪族の氏寺にとどまるものではないだろう」と言う意見だ。 また、古書に「蘇我の馬子らは落成式に百済服を着て参列した」とあることにも注目、「宗教というより支配の秩序やイデオロギーだったのでは」というものや、「王興寺は亡くなった王子の冥福を祈るためにつくったのもの、仏教が国家鎮護の性格を強くするのはどの段階なのか検討が必要」という意見もあるという。 ところで、飛鳥寺には、私も行ったことがある。 お堂の中には飛鳥大仏があった。この飛鳥大仏をみたとき、ふと昔のひとの顔は、こんな顔をしていたのだろうか?と、思った。そして、この大仏のお顔にも、だれかモデルがいてたのではないかとも考えた。 大きな事業を行った人は自分の功績を後世に残したいと思うことだろう、神様といっても具体的な像にするのだから適当な人の顔をつくるほうのが不自然だ。それになにより、実際の昔の人の顔だと思ったほうがより身近に感じられる。 飛鳥大仏の顔は面長の美男子である。インド系の顔にも、ギリシャ様式の顔にもみえなくはないが、比較的、日本人的な顔立ちであった。鼻もそれほど高くないようにみえる。 飛鳥寺は完成に9年を費やし、588年(崇峻元年)に着工した。蜂子皇子の父の崇峻天皇が即位した年である。天皇という称号はまだこの頃にはなく、初瀬部の皇子(崇峻天皇)は 大王と呼ばれた。その大王の顔を大仏の顔にしたとしても不思議ではない。 飛鳥寺の建立は馬子が発願したとされていることや、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺だという言い伝えがある。蘇我氏は、百済服を着るほど、百済とのつながりが深く飛鳥寺との関係も深そうだ。最近、蘇我の馬子が大王であったという説もある。 飛鳥大仏は、崇峻天皇? 蘇我馬子?もし崇峻天皇の顔だったら、蜂子皇子の顔に近いかも・・・とか勝手な妄想が膨らむのだが、蘇我馬子の可能性の方がより高いように思える。 一見、寺を建てただけのこと、なのだが、中国から百済へ、大和へ、人やものの流れやつながりもみえたり、他の関わりがわかってくる出来事だと思う。