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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2021.07.24
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テーマ:本日のTV番組(34)
徳川慶喜への次のような報告で少しだけ庄内藩の話が出てくる。

家臣:「ご注進、ご注進!」
慶喜:「どうした」
家臣:「三田の庄内屯所が銃撃を受けたとのこと。江戸では奸族薩摩を討つべし、との御老中の命を受け庄内を先鋒とする諸兵が薩摩屋敷を砲撃。直ちに戦と相成りましてございます」
渋沢(喜作):「薩摩屋敷を焼き払っただと?」
家臣:「ハッ」
慶喜:「戦端を切ったのか。何があっても耐えろと申したのに・・・耐えて待ちさえすれば時がくると・・・。」

 戊辰戦争のきっかけになったといわれる庄内藩の薩摩藩邸焼討ち事件だが、西郷隆盛らが関係し江戸を恐怖で震撼させたと言われる薩摩御用盗(江戸城二の丸放火含む)が絡むからなのか、ドラマなどで取り上げられることが少ない。しかし、2018年の「西郷どん」での錦絵での紹介に続き、少しだけだが取りあげられた。戊辰戦争の歴史的な事柄の流れとして省いてはいけない事件だと思う。

 この事件は事件というには規模的には大きく市街戦での戦争と呼べるものだった。多くの人がなくなり、焼失した広大な三田の薩摩藩屋敷は後に周辺の人々に「薩摩原(さつまっぱら)」といわれるほどの広さだった、その規模が想像できると思う。
 庄内藩は事前に(映画)ラストサムライのモデルのブリュネ砲兵大尉(フランス軍)によりヨーロッパ式の近代兵器での戦い方のレクチャーを受けて、4斤山砲(4kg弾/前装ライフル式の青銅製山砲)などを使い薩摩藩邸を砲撃した。ヨーロッパに渡航した渋沢のような人たちだけでなく国内の人たちも少なからずヨーロッパの学問や技術に接していた。ちなみに上野戦争や会津戦争有名なイギリス製のアームストロング砲は鉄製で6ポンド(2.72kg)弾と推測されていてその威力は当時の最先端レベルだったが、実際、4斤山砲の方が実践向きだったという説もある。この事件は、その他、八郎の関係した虎尾の会や新徴組、西郷を含めていろいろな人間関係が絡む事件だった。

 この薩摩藩邸焼討ち事件は、以前に書いたので参照。
戊辰戦争の発端、江戸での市中騒擾作戦と薩摩藩邸焼打事件

 少し、慶喜がかっこよすぎの感じがあったり、成一郎(喜作)が奥右筆の要職にあるとは言え慶喜に少し近すぎたりはするが歴史の事柄の時系列が整理され因果関係も含めてより自然な流れになっている、ドラマとしても面白い。今後、さらに内容を掘り下げてもらえると嬉しい、と思ったりした。






Last updated  2021.08.29 21:58:54


2021.07.05
テーマ:本日のTV番組(34)
秦の始皇帝(BC259ーBC210)の作った秦の都、咸陽(離宮の林光宮)から起点に北にまっすぐに作られた軍用道路。この道は全国にめぐらされた街道とは別に「匈奴」への対策として作られ、秦長城と呼ばれる万里の長城まで、幅30mで長さ700kmにも達するもので「直道」と呼ばれたという。
 番組ではこの直道をいろいろな角度で紹介する。
 始皇帝が匈奴を恐れた理由にはその強さだけではなく、ある日、方術師に「秦を滅ぼすものがいるとすればいったい何者だろう」と尋ねたところ、「秦を滅ぼすのは「胡」なり」と答えた予言にもあるという。
 始皇帝の死の後、皇帝を継いだ子の胡亥が家臣に操られ各地の反乱を抑えられずに秦を滅亡させたことから、後の人々は、予言にいわれたの胡とは北方の遊牧民の胡ではなくこの胡亥のことを意味していたのだと噂しあった、という物語の落ちにも似たような逸話を紹介して終わる。

 予言の胡が遊牧民のことではないと分かっていたならこの軍用道路はできなかったのだろうかとか、方術師は実はもっと詳しく予言していたのではなかっただろうかとか、巨大な権力者相手に方術師も命がけで具体的には言えなかっただろうかとか、とか考えてしまうような余韻のようなものがある内容だった。

 今回、番組の内容で個人的に注目したのは「胡」のことだ。
 以前から「胡」には注目してきたが今回不思議に思ったことは、始皇帝の時代に「胡」は「匈奴」とされていることだ。匈奴は歴史の教科書に出てくる紀元前4C、5C頃から活躍した北方の強大な騎馬民族のことである。中央アジアを東西に広げて支配して、西ではローマを弱体化させたゲルマン人の大移動を引き起こしたフン族でもあるという説もある。シルクロードを通してユーラシアの東西を融合させた古代の国家の1つと言って間違いはないだろう。
 「胡」の由来の文字は多く日本でも身近で、胡瓜(きゅうり)、胡椒(こしょう)、胡桃(くるみ)、胡弓などがあったり、その人たちは日本にも来ていて多胡などの地名があったりもする。日本にも物的にも人的にも歴史的にも影響を与えた国であることも間違いない。匈奴が最盛期に活躍した場所の南側は現在の中国新疆ウィグル自治区にもなるようだ。中国は広く周辺を囲む少数民族も多い。
 「胡」は匈奴(BC5C~2C頃)を指すのか、イラン系ともトルコ系とも言われるソグド人(不明 BC2C~8C)を意味するのか、北方系遊牧民を意味するのか、アレキサンダー大王(BC356ーBC323)に代表される西域からのコーカソイドの部族を意味するのか、時代的によって意味合いが変わるのか、まだまだ不明なことが多いようだ。

 秦の始皇帝の血筋は北方、西域の民族出身だったという説がある。父の名は「異人」。子の胡亥の名前に胡がついているのも匈奴、異民族との関係が疑われる。古代中国、戦国時代の秦の領域は西隣を羌(きょう/現在の新疆ウィグル自治区あたり、チャン族)に接し、北は匈奴と接した。時代的にもギリシャ人(マケドニアなど)の影響があっても不思議ではない。中国を統一するほどの優秀な自分と同じ民族が隣り合っているととらえそれを意識すればするほど、また認めているからこそその表裏でその民族への恐怖が強くなるという心理が生まれるのも当然かもしれない。
 逸話などを取り混ぜてとても工夫された面白いテレビ番組だった。


↑西瓜もシルクロードから伝わった野菜と言われる。






Last updated  2021.07.27 14:27:16
2021.05.08
テーマ:本日の1冊(3529)

図書館などで本を手に取って見ていると思いがけない資料を見つけることがある。
この本もそんな本のひとつだ。戊辰戦争から干支が一巡した61年後の"戊辰"の年を1つの区切りとして、東京日日新聞社会部(現毎日新聞)が戊辰戦争の様子を伝えるために企画した内容。"記述にはあまりこだわらない気持ち"で、"直接見聞きした古老を訪ねて史実巷説漫談の気安い回顧談を求めた"という趣旨で話が集められている。新聞には1927(昭和2)年に12月27日から翌2月4日まで連載された。それらをまとめた本。いわゆる幕末史の秘話的な回顧録であり、昔話や言い伝えを聞いているかのようにして読める。


 この本の中で特に目を引いたのは、若き日の山岡の似顔絵(左)。幕臣の頃のものと思われる。晩年の髭を延ばした写真のイメージが強いのでとても新鮮に見える。右に並べた本の表紙を飾る山岡の今までの写真のイメージとも違い、若々しく少し柔らかい印象だ。似顔絵の下のコメント欄には「若いころは晩年のようにこわい顔をしていなかった。腕は達者、肝っ玉は(の)大きい武士らしい武士であった。」とあり、筆者が感じたことを代弁してくれる。また多少失敬?気味だが豪快で実直な性格も伝えてくれる。

  • 山岡鉄太郎 戊辰物語.jpg 似顔絵  ←|→ 写真
  武士道 山岡鉄舟.jpg

 以前に紹介した"某人傑と問答始末"の話などを清河八郎との肖像画で想像すると幕末の雰囲気がよりリアルに感じられるのではないだろうか。(以下、リンク参照)
  ​「​某人傑と問答始末1​」、「​某人傑と問答始末2​」

  • 清河八郎.jpg

 「戊辰物語」には写真とは別に"維新前後"の"新撰組"という題で山岡鉄太郎、浪士組の頃の清河八郎、新撰組の逸話が掲載されている。この記事の出処のすべてが明かされているわけではいないが、文脈からすると多くが山岡の長女、松子さん( 刀自(とじ・中年以上の婦人を尊敬して呼ぶ語))から聞いた言い伝えのようだ。八郎の関係で興味をひかれた内容を次に上げたい。

 ・暗殺される当時に寝泊まりしていた山岡の家は、伝通院裏にあったこと。 
 ・山岡の家のすぐ隣が、高橋泥舟の住居であったこと。
 ・京都に行って浪士組が江戸に戻ってきた浪士組は三笠町旗本小笠原加賀守の空屋敷に駐屯したこと。
 ・浪士組は130人新たな募集者が加わり350人ほどになっていたこと。
 ・江戸に来た時に、浪士組が新徴組と名付けられたこと。(新徴組の名は、八郎が亡くなり庄内藩に所属しからつけられたと思っていたので従来の考え方を訂正する必要があるかもしれない。)
 ・石坂は色の白いでっぷりとした一見ものやさしい武士で分別もあり腕も達者だったこと。
 ・八郎の暗殺が、かなり用意周到に行われていて次のような段取り、やり取りだったということ。
  見回り組頭だった剣客(講武館師範役)の佐々木只郎と速見又四郎が前から通りかかり「これは清河先生」といって、自分の被っていた陣笠をとり、幾度も幾度も腰を曲げ丁寧に挨拶をした。そのため、二人を確認した八郎が何気なく挨拶を返して、陣笠をとるしぐさをした。その動作の間隙をねらって、突然後ろから武士が4人、一斉に刀を抜いてばたばたと迫りきて八郎の頭を斬った、という。後ろから斬ったのは、窪田千太郎、中山周助、高久安次郎、外一名。この4名は板倉周防の守により、浪士組が京都から江戸へ帰る道中に八郎を暗殺するつもりで、新徳寺を出るときに新たに浪士組に加わるように命じられた者たちだった。
 ・暗殺当日、八郎の行動の情報は誰からか漏らされていて、風邪で体調もすぐれず深く酔っていたところをつけ狙いまちぶせされていたこと。
 ・暗殺された場所はちょうど一の橋を赤羽橋の方へ渡ったすぐのところ、柳沢邸の前。

 他の資料にはない、断片的ではあるが詳細な内容が含まれている。浪士組が募集され集合したところも伝通院(文京区、最寄り駅は東京ドームと同じJR飯田橋駅)なので山岡の自宅が近くあったから集合場所に選ばれただろうか。何かしらの関係が見え隠れするようにも思う。攘夷実行と攘夷阻止との八郎と幕府との緊迫したやり取り、駆け引きを距離感が近くなって感じとることができる資料だった。






Last updated  2021.09.07 21:48:46
2020.11.28
渋沢の一橋家の家臣として役職は詰所の番人(奥口番)から始まった。平岡の家来として薩摩藩の折田要蔵の行動を調べるために折田の内弟子となり近寄り、スパイ活動(視察/慶喜の御内命)もした。その時、鹿児島弁も習得して三島通傭や川村純義など薩摩藩の多くの著名な人々と知り合った。それは将来につながるの尊王攘夷派の人脈へつながり、後の時代に活きる人のネットワークが見え隠れする。
 また、平岡が暗殺されてからは一橋家の所領(大阪、兵庫、岡山の一部)のあった備中で農兵の募集をして兵力を増強する兵制をつくったり、灘の酒造業者に米を直販(1万両を超える利益を得)したり、硝石の産業育成、綿の藩札発行による資金の運用改革、などの会計の仕事など多くの実績を積み出世もした。

 しかし関八州(取締り)の追手から身を守るためとは言え、討幕(倒幕)の志士である渋沢にとって幕府の家来としての自分の境遇が面白くなく思うのは当然で浪人になろうとしていた矢先、慶応3年(1867年)11月フランス・パリの世界大博覧会に招待された将軍の名代(民部公子/徳川照武)の随行としてヨーロッパへ派遣される。渋沢のフランス行きを推薦したのは慶喜だった、という。

 フランスから帰国したのが、1868年(明治元年)11月3日 横浜に到着したときには蝦夷地を残しすでに東北までの戊辰戦争は終わっていた。ちなみに京都に同行した喜作は蝦夷にわたり函館戦争に参加している。幕府の多くの人々が移住した静岡へ行き、静岡の商法会所頭取になったり、日本で最初の合本(株式)組織を設立することを皮切りに大蔵省出仕、実業界への転身、社会福祉、教育活動など多くの社会活動、社会貢献をしていく。明治時代、日本を近代化するために経済的に支えた立役者の1人となった。

 フランスへ行ったことは日本にいては味わうことのできない、渋沢を他の人より優るおおきなアドバンテージ(利点)を与えたことだっただろう。また日本にとっても本当に幸運なことだった。もし、フランス行きをせずに日本に残っていたなら、幕末の動乱や戊辰戦争に巻き込まれていて命すら危うかった可能性が高かったのだから。

 幕末の志士であった頃のことを渋沢は次のように後悔をする。
「・・・今日の言葉を借りて云えば、政治家として国政に参与して見たいという大望を抱いたのであったが、そもそもこれが郷里を離れて四方を流浪するという間違いをしでかした原因であった、かくて後年大蔵省に出仕するまでの十数年間というものは、余が今日の位置から見れば、ほとんど無意味に空費したようなものであったから、今この事を追憶するだになお痛恨に堪えぬ次第である。・・・実業界に身を立てようとしたのがようやく明治45年の頃(72歳)のことで・・・この時が余にとって真の立志であったと思う・・・(一生涯に歩むべき道「論語と算盤」/「渋沢栄一」鹿島茂著」)」
 無意味に空費とは少し言い過ぎのように思えるがこの後悔の内容は狭義の幕末の志士の思想を持っての行動と考えれば納得できる。この若き渋沢たちを突き動かした尊王攘夷の思想については別の機会に考えたい。



  • Koyamagawa.jpg

  • <小山川>
     生家のある集落はどこか東北に点在する農村の部落(集落)に感じられる雰囲気。東京に近いこともあるからか、過疎にはなっていない感じで昔と現代がいっしょになったようなつかしい昔の雰囲気も残した静かな感じのするよい町でした。


 渋沢と八郎、2人の学んだ儒教思想、学問(陽明学)、剣術など同じものが多く、そういう共通点もあってか2人の行動はとても似ている。2人の年の差は10才。少なくとも渋沢は八郎のことを知っていたし、決して少なくない影響を受けていただろう。次に渋沢と八郎の接点や共通点を見てみたい。

 渋沢と八郎が直接会ったことがあるかについて。渋沢は文久元(1861)年3月から5月までの2か月ほど江戸遊学をしているので2人はともに江戸にいてに玄武館で会っていた可能性はある。文久3(1863)年春、渋沢は2度目の江戸の遊学をする。4か月間実家とを何度か行ったり来たりしている(雨夜譚 余聞)ので、この時期、江戸で浪士組事件の騒動をみた可能性がある。しかし、八郎と会ったという話は見つからなかった。

▷ 渋沢と八郎の接点
間接的だが渋沢の資料に清河八郎に関係する記録として次のようなものがあった。
    (1)尾高長七郎が八郎と会ったという記録
     ・渋沢栄一伝稿本に「渋沢栄一と尾高惇忠は岡部藩の民で文武を身に着け、慷慨(こうがい/正義にはずれた事などを、激しくいきどおり嘆くこと)が強く既にかの清川氏を招いた」、とある。また、「それは長七郎が本庄で会見したこと、の誤り」と訂正もしている。
     
    <渋沢栄一伝稿本 第三章・第七五―七七頁〔大正八―一二年〕但文/ 渋沢栄一伝記資料刊行会>
     「武州本庄在血洗島農渋沢栄一郎、同親族近村に尾高新五郎と申者とも岡部侯御料民文武を心懸、慷慨甚敷既に彼清川氏留置、公辺御調に相成、深く迷惑之咄抔御座候密に申 上巳・正朔○望の誤か 両度之変事とも、乍陰たつさはり候歟と被察候。・・・。
    (但文中に清川八郎を留置きたりとあるは、文久元年七月八郎が安積五郎と共に、本庄附近に於て、尾高長七郎と会見せるを誤り伝へしものなるべし。)」 
     
     ・八郎の日記(潜中紀略)には、(でっちあげ)隠密無礼討ち事件(虎尾の会事件/文久元年7月中旬頃)での逃亡中に「高崎から武州本庄の至り、左折して手斗村(てばかむら)に行った」という記録があり、次のような内容で渋沢の資料と一致する。
    「かねて笠井伊蔵(虎尾の会)が取り立てて、八郎の家にも時々来た事のある尾高長七郎がいるはずで、彼に江戸の様子を問おう」と思った。そして、長七郎は4里ばかり離れた寄居村に行っていて留守だったため会うために寄居村に向かう途中、別の場所で剣術試合をしていた長七郎に会い、その近くの八幡町で会う約束をして八幡町に泊った。
     次の日に新町で会った長七郎から「すべて関東では兄(八郎のこと)の評判がやかましく、浪人の頭取だと言って、幕府においても殊のほか捜索が厳しく、今から出府(江戸へ入る)するのは水火に飛び入るようなものです。あと2、3年は近づいてはなりません。命あっての物種です。早々に西走なさりなさい。」という助言を得て酒を酌み交わし別れた。しかし、その後に安積五郎(虎尾の会)との相談で「同志の者に申し訳ない」という理由で虎尾の会メンバーの安否を確認するため危険を顧みずに7月18日早朝、利根川を下って江戸へ向かった。(清河八郎伝(徳田武著))

    (2)渋沢が八郎に触れて書き残さしたもの
    <渋沢栄一伝稿本 第三章・第四五―五一頁〔大正八―一二年〕/ 渋沢栄一伝記資料刊行会>渋沢伝記資料 遊学P221。"世論の指導者の最も雄なる者"の1人として八郎を挙げている。
    「・・・今や外国関係の発生より、国民の多数は覚醒して、遂に一大変動を生ぜんとす、是れ実に彼等の乗ずべき好機会なりき、此に於て百姓・町人より起りて国事に奔走せる者其人に乏しからず(百姓や町人出身で国事に奔走する者、そういう人は少なくなかった)、薩州の森山棠園、長州の白石正一郎、土州の吉村寅太郎、宇都宮の菊地教中、出羽の清川八郎、武蔵の近藤勇の如きは、其最も雄なる者なりき、而して我が青淵(渋沢)先生も亦此気運に導かれて蹶起(けっき)せる一人なりしなり。」

▷ 清河八郎との共通点
次に2人の人生での共通点を挙げてみたい。
    ・所属する藩がともに徳川譜代(岡部藩と庄内藩)であったこと。
    ・ともに実家は武士ではなく商売を生業にして裕福だったこと(2人とも経済の知識や経験を持っていたと言える)。
    ・実家の商売はともに妹の家族が継いでいること。(これは幕末の政治活動がいかに活動家の親族に犠牲を強いるものかを物語る。)
    ・儒学を学び、その思想に傾倒していたこと。特に陽明学の影響が強かったのだろう2人とも実践を重んじている。
    ・北辰一刀流を習い、お玉が池の玄武館に通っていたこと。これにより多くの同志を得ていること。
     渋沢は江戸への2か月の遊学をした(1回目)。"儒学者になろうとか、剣術家になろうという意図はなく「読書・撃剣などを修業する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を撰んでついに己の友達にして、ソウシテ何か事ある時に、その用に充るために今日から用意して置かんければならぬという考えであった。」"という。
    ・攘夷(横浜異人館の焼討ち)を計画したこと。
    ・倒幕を計画(渋沢は高崎城、清河は甲府城の乗っ取り)したこと。
    ・関東八州(取締り)に狙われて逃亡したこと。同志、仲間が小伝馬町の牢獄につながれ、亡くなったりしていること。
    ・渋沢が慶喜に提出した意見書と、八郎の急務三策と天皇に提出した建白書の内容と文章の使い方。
    ・身分に差別のない兵の編制したこと(農兵の募集、浪士組の結成)。
    ・・・など。

 この時代の志士たちには多くの試練や犠牲を強いられるものがあった。渋沢、八郎など偉人たちは逆境の時に逃亡しながらも乗り切り再起をして事を成しているとも言える。
  • Shibusawa eiichi memorial hall.jpg
  • <渋沢栄一記念館>
     地域内のとてもりっぱな記念館で渋沢栄一のアンドロイドにも会える。記念館前で渋沢が大事にしていた言葉は孔子の"忠恕"という言葉だということを教えてもらいました。これは「まごころと思いやり」、言い換えれば「自分の良心に忠実であること(忠)と、他人に対して思いやって(恕)行動すること」という意味なのだそう。その言葉は、八郎が残している「~のため」と合致していて同じような思想を持っていたということに感心した。


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Last updated  2021.07.31 12:08:11
1863年(文久3年)横浜異人館焼討計画を延期した渋沢たちはある種の熱狂から覚めた。我に返り、自分たちが危険な立場にあることに気づいた。渋沢たち、血洗島グループ(慷慨組)は離散して逃げた、そして郷里を出奔した。渋沢が24歳の時で、従兄(いとこ)の渋沢喜作が同行した。
 「そのころ、幕府に"八州取締り"という今でいう探偵吏というようなものがあって、それが少しでも変な風評を聞くとすぐに探索をしてたちまち召し捕ることになっていた。大橋訥庵(とつあん/坂下門外の変)の計画者)を縛したときにも、かかわりのある者(長七郎など)を田舎まで手配して探偵をした。(今回の件で)自分たちも、すでに捕縛されようとした危険の場合もあった・・・自分と喜作とはこれから京都へ行くことに定めて近隣や親類へは伊勢神宮かたがた京都見物に行くと吹聴して、故郷を出立した。(雨夜譚 余聞)」

 "八州取締り"は八郎の虎尾の会事件や逃亡の話にも出てくる。この前後のいきさつは八郎の時と数多く様子が似ているところがあり興味深い。この郷里出奔から一橋家の家来になるまでの渋沢の行動には水戸藩との不自然な経緯がいくつかみられ、何か敢えて述べられていないようにも思える。

 渋沢栄一と従兄の喜作が郷里を離れたのは11月8日、江戸に向かうのに水戸を経由した。京都に向けて江戸を立ったのが11月14日。渋沢はこれを「関東八州(取締り)の尾行をまくためだった」とするのだが、鹿島茂氏(著書「渋沢栄一」)はこの水戸に立ち寄った理由を「尾高惇忠の代理として水戸の尊王攘夷派と連絡を取る必要になったからに違いない」と考える。

 水戸での行動は不明だがとにかく江戸で一橋家の関係者と接触した。慶喜は水戸藩徳川斉昭の子なのでこの頃には水戸藩の関係者とのつながりがあったことは間違いない。一橋家との関係のきっかけについては
"先生が江戸滞在の間に、偶然にも一橋家との関係を生ずるに至れり。(渋沢栄一伝稿本)"と、偶然なこととしているがそれ以前から何らかの関係があったことを述べている。一橋家の川村恵十郎と出会ったのは江戸に遊学していた時だったのだろうか、川村と身の上の相談できるほどの緊密な関係ができていたようだ。さらに川村から平岡円四郎(一橋家用人/最も権力のあった人)を紹介され懇意にもなっていた。この辺の水戸藩だけでなく他藩の尊王派とのネットワークの詳細は伏せられているようだ。

 江戸で平岡を訪ねると本人は京都にいて不在だったが、その奥さんが一橋家家来になることを承諾する平岡の伝言を受けていたので、一橋家の家来として京都に向かう。後になってみればこのことが渋沢の命をつなぎ、将来への道を開かせた。1864年(元治元年)京都に着いたのは11月25日だった。そして、京都では慷慨(こうがい/正義にはずれた事などを、激しくいきどおり嘆くこと)家と会ったり、周辺を旅行するなどをして過ごした。

  • Chiaraijima.jpg
  • <血洗島の地名>
     なんとなく穏やかではない感じのする血洗島の地名の由来はいくつかあるそうだが、"地粗い島"と呼ばれた説がしっくりくるように思う。この地域は利根川の砂が土に混じりレンガの材料にもなるような粗い土壌で、その地名は意味的にぴったりとあてはまる。島は川と川に囲まれた土地をいうので、または利根川と小山川に挟まれた土地の意味にあてはまる。上州などにも近く国境で養蚕や藍玉で裕福な地域を他から荒らされないようよそ者が好まない漢字を地名にあてたのではと思われる。

 年明け(1864年)の2月の初旬、長七郎から突然の手紙が届いた。
それは"長七郎が何かことの間違いから捕縛されてついに入牢した(雨夜譚 余聞)"、というものだった。捕まえられた時には渋沢が以前送った手紙を所持していてそれが見つかってしまったこと、見つかった手紙には「攘夷鎖港の談判のために幕府はつぶれるにちがいない」という幕府批判の内容が含まれていたので渋沢にもいづれ幕府の嫌疑がおよぶだろう、という警告の内容が書かれていた。長七郎と同じく同志の中村三平と福田滋助も投獄された。手紙は江戸小伝馬町の牢獄から送られたものだった。

 長七郎は文武の両道(海保塾、新堂無念流など)に精通した英才で渋沢に大きな影響を与えた人だ。「尾高長七郎という吾々の大先輩が剣術家になるつもりで早くから江戸に出て居り、その交友も広く、吾々と異なって天下の大勢を比較的弁(わきま)へて居った為めに、長七郎が江戸から帰村する毎に、当時の模様を委(くわ)しく説き聞かされて、私の血潮はいやが上にも沸き立つのであった。」(青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著)とされるほどの人だ。

 後に渋沢はこの事件について"長七郎は一時の精神病で中山道の戸田原(戸田の渡し)で人を殺し(往来の者を斬り殺し)、幕府の捕吏に捕縛された(竜門雑誌)"と書いているがにわかには信じがたいものがある。横浜異人焼討ち計画の中止を提案する見識をもち、わざわざ渋沢のために牢獄から危険を知らせる手紙を送る人が精神病だったとは考えにくくないだろうか。

 幕府が渋沢たち、血洗島での大人数での挙兵の計画を見逃すことはなかっただろう。清河塾の土蔵の地下に穴を掘ってまでして偵察していた八州取締りである。渋沢たちは狙われていた、と考えるのが経緯も含めて自然だ。特に長七郎は坂下門外の変でも嫌疑をかけられていたので重きを置いて偵察されていただろう。
 長七郎が"誤(っ)て行人(通行人)を傷けた/(雨夜譚)"とも言われるものは八郎が"隠密を一撃した(斬った)"のと同じ状況だ。隠密は本人が自覚しない正当防衛のような形で相手に斬らせるやり方、または斬ったように見せる高等な技をもっていたのだろう。これは幕府の捕吏、八州取締りの当り屋的手法でパターン化した手法だったように思える。"でっちあげ"で長七郎を捕まえようとしたのではないだろうか。それを裏づけるようにいっしょにいた事件に関係のないはずの中村や福田も捕らえられている。(中村は捕縛されて5年後に亡くなった。福田の動向は不明。)幕府は渋沢たち血洗島グループを一網打尽にとらえようとしていたのだろう。その後の牢獄から手紙のやり取りなどその様子は驚くほど虎尾の会事件のときと似ている。

 この長七郎投獄の話は幕府を通して平岡にも話が入ったため、渋沢たちは呼び出され事実関係を問いただされたりした。その時の話し合いの中から幕府の追手から逃れるために平岡の薦めで一橋家へ士官することになる。渋沢は素直に家来となるだけでは事足りず召し抱えられるときの願い事として、慶喜に「見込書(意見書)」を提出することと拝謁することを願い出た。そして驚くことに許された。

 この見込書には「・・・申せば非常の時勢がこの非常の御任命を生み出した次第なので、この御大任(京都の守衛総督になったこと)を全うされるにはまた非常の英断なくしては相ならざること、こうしてその英断を希望する第一着は人材登用の道を開いて天下の人物を幕下に網羅し、おのおのその才に任ずることを急務とする。/(雨夜譚 余聞)」などがあり、八郎の「急務三策」と向かって言う人の対象が違うだけで内容はほとんど同じ、文章もとても似ているものがある。他に天皇に提出した建白書の一部の内容、文の言い回しの内容にも似ているものがあり八郎の影響を受けていたか、八郎が影響を受けた同じ人に影響を受けたことが推測される。

 すごいと思うのは慶喜の前で話した次の内容。渋沢の血気盛んな様子が現れている。
「・・・今日は幕府の命脈もすでに滅絶したと申し上げてもよいありさまであります。・・・畢竟(結局)幕府を潰すことは徳川家を中興する基であります。能々(よくよく)熟考してみればこの事は全く道理に当たるということが理解し得らるるようになります。/(雨夜譚 余聞)」

 慶喜に激怒され牢獄に入れられてもおかしくない内容に思えるが、「一橋公(慶喜)はただふんふんと聞いておられるだけで一言の御意もなかった」という。八州取締りに追われて士官した一橋家によく言えたものだと思うし、慶喜の方もよくそのような人を取り立てたと思う。ここだけを切り取った感じで幕府に命を狙われている人間が幕府の次期将軍に言っていると思えば、冗談かとびっくりするような喜劇のような内容だ。渋沢の尊王攘夷の思想の怖いものなさ、志士としての勢いがすさまじい。

 この中で1つ注目したいのは渋沢が幕府は滅絶したといいながら徳川家を中興できると考えている点だ。江戸徳川の時代が終わっても次の時代では徳川家はいくつかの担い手の一つという構想をもっていた、ということなのだろう。討幕、倒幕とはあくまで徳川家を政治の担い手の中心から降ろすという意味だったのだろう。過激尊王攘夷派の渋沢がそう思っていたのだから、尊王攘夷派の多くの共通認識で、戊辰戦争は必要がなく多くの人々が望んではいなかったのではないだろうか。現に渋沢喜作や尾高惇忠らは戊辰戦争で徳川方(幕府側)として戦っている。徳川家の存続を守る立場が佐幕派として混同されているのかもしれない。







Last updated  2021.04.24 21:29:29
幕末、儒学を学び北辰一刀流を習い、文久3年に横浜異人館焼討ちを計画した人、と言えば誰を思いうかべるだろうか。私なら迷うことなく”清河八郎”と答えるのだが、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公で2024年度から新一万円札の顔となる渋沢栄一もその1人だった。
 渋沢は現在にもつながる大企業を含めた多くの企業の礎にたずさわった明治の実業家、経済人としてとても有名で明治になってからの彼の功績が強調されるが、若いころは過激な志士でもあった。攘夷を唱え、実際に横浜異人館焼討ちの計画し倒幕を考えていた。
  • DSC00486A.jpg(←幕末の志士の頃の渋沢栄一の銅像/旧渋沢邸「中の家(なかんち)」)


 幕府末期、徳川譜代の藩の中から倒幕を目指す人が出てくるほど、幕府の求心力はなくなっていた。幕末の情勢は多くの若者を憂えさせ、尊王攘夷、倒幕へと立ち上がらせた。春に一斉に芽吹く草花のように多くの草莽の志士たちが出現したのは偶然ではなかった。渋沢も"ペリー来航(1853年6月)により重大な憂慮すべき時代の雰囲気を受け熾烈な希望で国に尽くそう"(雨夜譚)と考えた。時代の状況が多くの人々をそういう考えにさせたとも言える。
 清河八郎は傑出して時代を先駆けているため、特別な思想で独自の行動を起こしたかのように思いがちになるが、冷静に考えればその基本にあるものは当時あったものの延長、つながるものになるのだろう。全国で起った攘夷、倒幕運動を考えるとき、同時代の活動が参考になる。また、特に東北や関東での志士の動きは西国に比べてあまり知られていないことが多く、幕末の動乱を生き残って見届けた人という意味でも渋沢の資料は貴重だ。
 八郎たち虎尾の会がリードした尊王攘夷、回天倒幕運動について渋沢と八郎の行動を辿ってみると共通点が多いことに気づく。そういう意味で年齢こそ違うが渋沢栄一の人生は当時の八郎の行動や思想を考える上でとても参考になる。渋沢栄一の攘夷計画も八郎が亡くなった後に起こった虎尾の会関係者も関わり全国で起った一連の倒幕運動の1つとしてとらえて考えることもできる。

     
  • 渋沢栄一の幕末の行動を知りたくて深谷市を訪ねた。渋沢の幕末の志士としての行動を見ていきたい。内容は主に雨夜譚とこの本を参考にした。

 渋沢栄一は1840年(天保11年)に武蔵国榛沢郡血洗島村(岡部藩/現埼玉県深谷市)の藍玉の生産と養蚕をする大きな農家の家に生まれた。8歳ごろから10歳年上で従兄弟(いとこ)の尾高惇忠という漢籍(儒学など)を学んだ。師の尾高は"知行合一の水戸学に精通"(深谷市パンフレット)していたとされ、徳川斉昭を崇拝していたともされる。渋沢は尾高淳忠と尾高の弟の長七郎を通じて陽明学と水戸学による尊王攘夷思想に大きな影響を受けた。ちなみに尾高は1830年(天保元年)生まれで八郎と同い年になる。

 渋沢栄一の家は豪農と呼ばれる農家で2町歩ほどの土地持ちだったというが米農家ではなかった。血洗島(深谷市)の周辺は利根川が運んだ砂を含む荒い土壌で水はけがよく水田稲作には不向きの土地だったからだ。深谷市一帯は冬の季節風が強く寒暖差が大きい少し寒い地域で、虫などを寄せ付けない気候のため一般的な作物ではない桑と藍に向いた土地だった。江戸時代、1700年代の後半ごろから裕福な人が増えたことや関東地方での綿産業の発展もあり、この地区の人々の養蚕や藍玉による収入が増えていき莫大な富を得るようになった(渋沢家の藍玉の売上は1万両を超えたという)という。渋沢家は地区の名家で昔よくあった地区の名家どおしの濃い血縁関係で結ばれていて、これから登場する人物たちもも親戚筋にあたる人が多い。

 栄一は卓越した商売のセンスを持っていた。藍の原料の藍玉の商売、生産の才能を発揮させた。17歳で父の代わりに幕府の御用金要請のために陣屋に赴いた際、岡部藩(安倍(あんべ)氏)の代官とのやり取りの理不尽さ、侮辱を感じた出来事(渋沢は代官事件と呼ぶ)から倒幕へと駆り立てられていく。そして、攘夷運動に傾倒していく。

  • DSC00488A.jpg(←旧渋沢邸/渋沢栄一生地「中の家(なかんち)」)
 



 1861年(文久元年)、22歳で父をかき口説いて2か月ほど江戸に文武両道の遊学をする。儒学では海保章之助の塾で儒学を、剣術では八郎と同じ神田お玉が池の千葉周作の道場(玄武館/栄次郎)で北辰一刀流を学んだ。その主な目的は「読書・撃剣(剣術)などを修業する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を撰んでついに己の友達にして、ソウシテ何か事ある時に、その用に充(あて)るために今日から用意しておかなければならぬという考えであった」(雨夜譚(ばなし)余聞)というような同志や仲間をつくることだった。

 1863年(文久3年)、再度江戸に出て4か月ほどして、渋沢は仲間内の議論に煽られ(影響を受けて)倒幕計画を立てた。高崎城を乗っ取り兵備を整えてから鎌倉街道をつかって横浜の外国人居留地を襲って焼討ちにするという内容だった。栄一は機密が漏れないようにするため、江戸の仲間ではなく郷里に帰って尾高淳忠と同じ従兄の渋沢喜作に相談した。そして、69名の同志(真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、中村三平、親戚郎党など)を集めた(便宜上、渋沢のこの一党を血洗島グループと呼ぶことにする)。決行日は冬至の日の旧暦11月23日となった。
 ちなみに攘夷計画をした時の父親との夜通しでの話合ったという話がとてもおもしろい。渋沢のお父さんは渋沢が述懐するように非凡の人だったことが感じられるやり取りが繰り広げられている。

 いよいよ最終謀議をした10月29日の晩になって、前年に蜂起のための情報を得るために京都に行き3、4日前に戻ってきた尾高長七郎が隆起の中止を言い出したという。栄一に尊王攘夷を焚きつけてきた長七郎でもあるが、大和五条で蜂起した天誅組の失敗を見てきて考えが変わっていた。長七郎の意見は次のような内容だった。

    「つくづく天下の形勢を見るに、今日わずか67十人の農兵を以て事を挙げても一敗地にまみれることは火を賭るよりも明らかである。面(おもて)もそれが幕府を倒壊する端緒となるならば尊い犠牲として瞑すべきであるが、結局は百姓一揆と同様に見なされて、児戯に類した軽挙だと世人の笑いものとなり、吾々に続いて起こる志士も無く、言はば犬死に終る(の)は必然である。もし仮りに高崎の城を抜く事が出来たと仮定しても、横浜まで乗り込んで外人の居留地を襲撃しようとするには十分に訓練した兵でなければ不可能である。諸君の考えている通り、幕府の兵は弱いには違いないが、とにかく人数が多いから横浜に至る前に失敗に帰するは云うまでもあるまい。・・・

     猶また、幸ひにして居留地焼討ちが成功したとしても、野心満々、虎視眈々たる外国人に対して、徒(いたづ)らに口実を与ふるのみであって、これが為めに幕府が倒れるとするも、それと同時に皇土を外人のために汚される結果となるかも知れぬ。外国との戦争の結果は兎に角として、国内の政治に対し外国をして干渉せしめるような端を開いては、国家の大恥辱であるからこの見地からしても断然この度の計画は思い止どまれたい。但し、諸君にして拙者を裏切者と思うなら甘んじて諸君の刃に死するであろう」
    (青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著)

 それに対して、渋沢は「一旦死を決して旗挙げをしようと盟(ちか)ひ合った以上は、成敗は天に委ねて唯決行の一字あるのみである」と言い譲らず、長七郎が栄一を刺し殺しても計画を中止させるといえば、栄一も長七郎を刺しても決行すると言い返し、あやうく刃物沙汰になるところだったが尾高惇忠が間に入って止めた。そして日を改めて議論の続きをおこなうことにした。

 その夜、渋沢は一睡もせずに長七郎の議論を反芻して熟考を重ねたがどれ1つ取っても長七郎の言い分の方が正しいように思え、翌朝、皆を集めその席で自らの非を認め、長七郎の説に従って隆起を一旦中止し、翌日、天下の形勢をうかがって初志貫徹することを提案した。すでに尾高惇忠も渋沢喜作も中止に傾いていたので異論はなかった。69人の同志たちには手当てを与え解散を伝えた。そして、渋沢は幕府の探索の手から逃れるために郷里を出奔して水戸を経て江戸に向かった。近隣、親戚には伊勢参りと京都見物ということにしていた。

 八郎の死が文久3年4月13日で、渋沢が攘夷計画を計画したのが同じ年の11月23日。八郎の計画の後、7か月後に同じ横浜の外国人居留地を襲って焼討ちをするという計画を企てている。渋沢たちの兵器は"旧式のまるで昔の野武士の扮装(いでたち)だったろう(雨夜譚余聞)"という。家のお金200両を使い込んで、150~60両で刀や(竹)槍、着込み(剣術の稽古着のようなもの)、提灯などを用意した。鉄砲、最新のライフル銃のようなものはなかった。当時の志士レベルの攘夷、倒幕運動では装備が十分ではなく脆弱なものがあったことを教えてくれる。攘夷や倒幕は成り行きなどではなく倒幕後の構想も含めよほどしっかりしている人たちが連係していなければむずかしいことだっただろう。

 「今にして思えば実に無謀至極の暴挙であったが、もし当時長七郎の諌止がなかったならば恐らく私はその際に犬死をして無謀の誹りを後世に残したろう思う。」(青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著)「じつに長七郎が自分ら大勢の命を救ってくれたといってよい」(雨夜譚余聞)と後述している。
 ちなみにこの後の言動からすると渋沢の気持ちの上での倒幕はあくまで"一旦中止"であって断念したわけではなかった。おそらく頭を切り替えて、当時、多くの志士たちが集まっていた京都へ活動の場を求めたのだろう。まもなくして京都に行くことになる。こうして、本人も述懐するようにこの時攘夷は中止となり渋沢は命拾いをした。
  • DSC00511A.jpg(←最終謀議は尾高惇忠の家の2階で行われた。)





<参考>、"可堂(桃井)先生事蹟"(渋沢栄一伝記資料刊行会)
(桃井可堂は八郎と那珂通高とともに一堂門の三傑と言われ、ともに親友とされる)
 横浜異人館焼討ちについてまとめて並べられた記述があるので参考として掲載したい。
 ちなみに桃井可堂自身(天朝組)も渋沢栄一たち(慷慨組)と呼応しながら同年12月に挙兵と攘夷を企てたが裏切りのために失敗して亡くなっている。
     「元来横浜焼討なるものは、是より先志士の計画したること一再に止まらず。
    (①)万延元(1860)年の冬水戸浪人之を計画して成らず、
    (②)文久元(1861)年八月二十一日には、浮浪の徒海上より横浜を襲ふの説あり、幕府令して警備を厳にしたることあり。
    (③)文久二(1862)年八月二十八日には、長門の来原良蔵外国人を斬らむとして横浜に往き、同藩吏の捕ふる所となり、
    (④)十一月十二日には、長門土佐の藩士神奈川に集りて、横浜を焼かむとし、亦果さず。
    (⑤)殊に先生の親友たる清河八郎の如きも、文久二(1862)年六月京都より江戸に帰るや、実に横浜焼討を策し、幕府を紛擾せしめて事を挙げむと欲し、終に文久三年四月十三日、先生の帰還後二旬ならざるに暗殺せらる。
     然り而して謂ふ所の横浜焼討が然かく屡(しば/たびたび)計画せられて、竟に(きょう/結局)成らざりしもの、実に先生等の大に鑑みる所也。」

     清河八郎はここにある⑤の"浪士組事件"とそれより以前に"虎尾の会事件(1861年)"と2度計画をしている。渋沢たちを含め多くの人々が横浜異人館焼討ちを計画していた。解りやすいようにこの文の中の攘夷の回数を( )で補足した。



 深谷市のもう1つの名物、ほうとう。この地区の人々は元は武田氏の家臣たちで武田氏滅亡後、現在の山梨県から移住したので、山梨と似た郷土料理が伝わっていると考えられているそうだ。






Last updated  2021.04.24 21:32:01
2020.07.26
テーマ:本日の1冊(3529)
カテゴリ:出羽国の地名
「出羽の国」の地名について、以前から考察してきたがその再考をしたい、今回で3回目となる。
前回には出雲の国との比較で、地名の語源はわからなくなっていて、文字(漢字)については後世の創作で意味がない、その創作の当て字に捉われてはいけない、という説に則り考察してきた。しかし、イデハ(イテハ)という音の意味、語源が、地形や土地の特性、人や生活を象徴する何かしら、漢字の意味とは違う意味があったのではないか思う一方、出雲(イヅモ)と出羽(イヅハ)は同じ"出"という漢字を使っていることと音の響きもとても似ていることからに表記としての漢字としての何かしらの共通点があったのではないかという考えもあり捨てきれないように思った。

 漢字はアルファベットとは違いその形状自体に意味をもつ表意文字で、このことをもっと重要視しなければならないのではないかという考えが強くなった。もともとあった音に多くの漢字の中から2文字を当てたということはそれなりの理由があったことだろう。漢字が日本に入る前の古い時代の意味の音の呼称、「イデハ」などの地名が現地に先に存在して、その語源の意味が忘れ去られ現在解明されていないとしても、「出羽」という漢字があてがわれた以上、当てがわれた文字(当て字)にまったく意味がないとは思えない。
 ちなみに漢字の日本への伝来は5世紀ごろと言われているが、日本だけでなく漢字が広く東アジアで普及した経緯での漢字の優位性の1つである。

 漢字は1つ1つの文字自体が意味を持つ。話す言葉がわからなくても文字で会話ができる。例えば日本人が中国の人と文字での会話、筆談ができることはよく知られている。古代中国で漢字が普及した背景には黄河や揚子江流域の国々の言葉の違った人たちが筆談できたことにあった、と言われる。言葉や発音が違ってもコミニュケーションができるツールだった漢字は漢字文化圏として発達して共通の文化圏として歴史を作った。日本もその例外ではなく話す言語、語順など違いを乗り越え、文字として一つ一つの漢字の持つ意味から文章を作りだし古代から中国の王朝とも交渉を含め、交流できた。さらに、明治期には熟語などをつくり中国へ逆輸入させその漢字の表現を発展させることもできた。そう考えれば漢字の表記には重要な意味があると考えるべきなのだろう。

 これまで見てきたように「出羽」の国の由来には出羽国風土記(明治)を代表にして大きく分けて主に2つの説があった。それぞれ整理しながら再検証したい。
 
 1."越の国から突出した出端(いではし)、陸奥の中にあって端のようにある(位置
)の意味。"の説について。
 もし、出羽を出端の意味とするなら「出端国」とそのまま表記してもよかったはずではないだろうか。"1"の説にはなぜ「端」ではなく「羽」という文字を当てたのか、説明が不足している。「葉」でも「波」でも「八」でも"ハ"と読める漢字であれば何を当てはめてもよかったはずだ。逆に「端」を使わなかった理由はなんだったのだろう。「崎」や「瑞」などのつく地名には確かにそういう意味を含む場合もあるのだが広い国などの地名の場合はそれほど多くない。
 この説は陸奥国が"道の奥"の由来とされているところから同じように類推しているのではだろうか。

 「陸奥」の地名は天武天皇の時代(673~)に中国にならって"5畿7道"という行政区の集合体に分類したことに関係する。これはこの行政区の東山道や東海道の中で、奈良や京の都から見て遠い奥の辺境を"道の奥(ミチノク)"と言ったことから始まった。陸奥は現在の東北地方全域に比定されている。そして、676年ごろには道奥国が"陸奥国"に変更された。陸奥という地名は5畿7道より都から遠い広い地域を漠然と示すものなので逆に言えば陸奥と比定される陸奥村や陸奥郡というような小さな地区名があった訳ではなかった。つまり、陸奥は7道の内、東山道の奥で、畿内から遠い方面をさす関東以北の全体の総称だったと言える。

 一方、出羽国はそれとは逆の成立ちがある。庄内平野の最上川周辺から羽黒山周辺の狭い流域の呼称だったある地域名がその後拡大して、隣接の区域の代表名のような形で現在の秋田県と山形県の広い地域を含む地域の総称となった。陸奥と出羽の国名では成立ちが大きく異なる。はじめは広くても郡名でおそらくは里の名だったろう「出羽」の地名を陸奥の国名の由来と同じ方法で類推することは間違いになるだろう。ちなみにその地区の区域については以前に考察している。
https://plaza.rakuten.co.jp/gassan/diary/200611260000/


 2.文字の意味から允恭朝(推定5世紀前半)に鳥(鷲鷹)の羽を土地の産物として(産出)献上したことからの意味(出羽郡の設置は708年)、について。結論を先にいえば、この"羽が産出された地区"というのが妥当のように思える。

 武蔵国(現東京都)の多摩川周辺にいくつか見られる「調布」という古い地名の云われがある。その成立ちに似ているのでそれを例に考えたい。調布は律令制下の租税である租庸調のうち、「調」としてその土地の特産物であった麻の布を納めていた地域の名として有名だ。7世紀前半に歌われたという万葉集にまで遡れるというがこの成立ちが出羽の地名の成立ちと同じだと推測する。次の万葉集の調布の歌は国語の教科書にも出てくる有名な歌だ。

    「たまがわ(多摩川)に さらすたづくり(調布/布のこと)さらさらに なに(何)そこのこ(児)の ここだかなしき(愛おしい)」(多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎) 

 ここでは調布はあくまで"たづくり"という発音であり古代の言葉であるということ、多摩は多麻(麻が多い)と書かれこれも名産品の当て字となっていることも興味深い。
 この布を納めたと同じ、出羽国では言わば"調羽"のような形で羽を納めたと考えられないだろうか。


 それでは庄内地方で羽が取れたと仮定するならば、どのような種類の鳥の羽が考えられるだろう、そしてその鳥の羽は何に使うために献上されたのだろうか。

 出羽国風土記(明治時代)ではさらに少し古い時代「允恭天皇(推定5世紀前半)鷲の羽を土地の産物として献上した」(神學類聚鈔 第4巻 風土記(931年))ことを引用して、これを郡名の云われの1つとしている。以前にも紹介したが、允恭朝以外の時代にも出羽郡から鷲や鷹の羽が献上されていてその羽は鷲や鷹の羽と考えられているが、その資料的な根拠はないとも言われる。これが土地の産物として当時郡名にするほど珍しかった、多くとれた、貴重なものだった、という内容を考えるとどうも腑に落ちるものがあまりない。出羽国風土記には"平鹿鷹千島杯"というように秋田県横手市(出羽国)の平賀地区は鷹が多く住む地域であったことが紹介されているが、それは庄内平野の出羽郡の地区が同じように鷲や鷹が多かったとは言えるか疑問が残る。

 現在でもあるものから素直に推測すれば量(数)や捕獲しやすさから考えてみて白鳥ということになるのではないだろうか。白鳥は初冬にシベリアから越冬のために数多く飛来して庄内平野では田んぼや河川で餌をついばむ様子が冬の風物詩ともいえるほどだ。古代に庄内平野が現在のようなほとんど目につく限りに田んぼが広がる平野ではなかったとしても白鳥の餌やその量は現在とあまり変わらなったのではと思われるので、白鳥の羽であれば比較的容易にある程度の量を取ることができただろう。また、庄内地方はオオハクチョウの南限とされる地域ともいわれ大和(奈良)からみれば貴重さも加わる。オオハクチョウの羽であれば他の地域と比べても量的な差別化もできたのではないだろうか。

 白鳥の羽は何に使われたのか。
 現在でも白鳥の羽は矢羽根に使われたりしているので、一般的な用途としては弓矢の矢の矢羽根に使われたと考えられる。宮中では奈良、平安の古代から「射礼(じゃらい)」という弓競技が行われていた。白鳥の白くきれいな羽は武器としての矢羽根はもちろんのこと、神聖な宮中行事にもうってつけのように思える。初詣などで神社にある破魔矢など白い矢羽根を思い浮かべれば縁起物として珍重されただろうことが推測できる。関東などでもコハクチョウや鴨などは多く飛来するのでコハクチョウの羽であれば多く献上できただろうがオオハクチョウだと数が少なくなる。オオハクチョウとコハクチョウとの矢羽根に使った場合の違いは不明だがオオハクチョウの方が体長が大きいので見栄えの良さと矢として遠くに飛ばせるなどメリットが多くあったのかもしれない。

       👈※関氏のユニークな説が満載の「謎解き古代史 独学のすすめ/関裕二著」。

 ここから、話を「白鳥の羽」に移して、関雄二氏の本の学術的ではないが何か示唆を与えてくれるようなユニークな話を取り上げ、仮説を立ててみたい。

 この本で関氏は「カゴメ歌」と京都府宮津市の籠神社の豊受大神の伝承などを通して”天の羽衣が白鳥の羽、そのものだった”という説を唱えている。これから白鳥の羽が天の羽衣に使われたのではないかと類推する。

 「天の羽衣」とは何か。
 身近な例では「竹取物語」でかぐや姫が月に帰るときに羽織ったり、「丹後国風土記」、能の「羽衣」、日本海沿岸地方などにある「天女伝説・羽衣伝説」で天女が羽織っている軽い帯のような(羽)衣。日本の昔ものがたりにも出てくる。ある意味、ドラえもんのタケコプターのような機能をもつ空を飛ぶための道具なのだが、辞書では 

①「天人が着て空を飛ぶという薄くて軽く美しい衣。鳥の羽で作るという。」
②「天皇が大嘗祭・新嘗祭などで沐浴する時に身に着ける湯かたびらの称」などとされる。

 この鳥の羽で作るというところを留意していただきたい。絵本やアニメなどでは透き通る軽い帯のように描かれているもの多いものだが、正確には鳥の羽でできているもののようなのだ。空を飛ぶという科学を超越していてハリーポッターやオカルトのような内容でもあるが話を進めたい。
 ②の天皇が宮中行事の大嘗祭や新嘗祭などの祭事で沐浴するときに使われる白い衣の湯かたびらも天の羽衣と呼ばれるが、現在ではこの天の羽衣は白練平絹(黄色味を消して白くした絹を平織したもの)となり天皇の行事として古代から今に引き継がれているようだ。仁和3年(1168)の大嘗祭の記録では、「三河の和妙の天羽衣(絹製)」と「阿波の荒妙の天羽衣(麻製)」の2種類があったという(1枚を着けて湯に入り、湯の中でこれを脱いで上がり、他の1枚で身体をふく(兵範記))。この仁和の頃には名前は羽衣と呼びながらも白鳥の羽は使われなくなっている。

 関氏のいうように古代に宮廷の儀式で天の羽衣にオオハクチョウの羽が使われたとすれば出羽国の白鳥の羽が献上されたことは重要なものとしてつながりができる。そして、その鳥の羽を献上した地域が「出羽」と名つけられた(当て字された)、とすれば地名の由来になってもおかしくないのかもしれない。

 おとぎ話の鳥の羽で作られた天の羽衣がどのように重要なものだったのか。
 高校古文の「竹取物語」の一般的な現代語訳によれば天の羽衣は"着ることによって空を飛べ、心が変わってしまう"もの、”地上で感じていた物思いや人情がなくなってしまうもの"のように説明されている。
 関雄二氏によれば、"古代において権力の象徴として使用されたのではないかと思われる節がある"という。"豊受大神は来ていた天の羽衣を奪われて神通力を失っている”、"これ(天の羽衣)が、いかに重要視されていたかは、大嘗祭のクライマックスで、天皇が天の羽衣を着ることで人間から神のような存在になると信じられていた"、"かぐや姫は天の羽衣を着ると人間の心がわからなくなると『証言』している"として、”天の羽衣”とは、"神通力をもつ最高の呪具であるとみられていた”としている。

 その説明を後押しするように、梅沢美恵子(著書「悲の巫女 額田王」)は万葉集の持統天皇(在位686~697年)の歌で教科書にも出てくる有名な歌、
 「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたえ)の衣乾したり天の香久山」について次のように従来の解釈とは違う持統天皇の"天の羽衣盗みの歌"と解釈した。

 "白い衣が天香久山に干してあったのは、「洗濯物」などではない。これは、天女が沐浴しているという意味である。・・・今この白い衣(天の羽衣)を盗めば、天女(前政権/天武天皇)は身動きがとれなくなる。春が過ぎて夏が来るように、動乱が起こり、天下は自分のものになる。チャンスがやってきたのだ・・・" 
 天の羽衣を盗むことにより持統天皇が天下を取るというように天の羽衣がまるでヨーロッパ王族の王冠のような権力の象徴として使用されたように表現している。

 補足になるがこの歌の時代的背景には"持統天皇を背後から操っていたのは、いうまでもなく藤原不比等であり、持統天皇が潰しにかかったのは、ヤマト朝廷誕生以来頑なに合議制を守り抜こうとした蘇我氏や物部氏を中心とする豪族主体の政権にほかならなかった。そして、持統天皇は藤原不比等とともに、新たな王家を築くことに成功しているのである。"と関氏は説明する。竹取物語(かぐや姫)の物語は藤原氏批判の内容とも言われているが関氏のこの本はそれを深堀りして解説する。ざっくりと誤解をおそれず言えばこの時に焚書坑儒のようなことがあったのではないかというような内容だ。

 現在の天皇はいうまでもなく憲法にうたわれているように日本国と日本国民統合の象徴なので直接権力を行使することはなくなり、天皇の儀式も憲法に書かれた国事行為の1つとなっている。歴史的にかつて持統天皇の時代の白妙の衣が白鳥の羽だったか、絹織物だったかは別として古代において白鳥の羽でできた"天の羽衣"の権威的なものとされていたかもしれないことがキーとなる。
 古代から天皇の権威の象徴としては三種の神器が特に有名だが、その他に同じような扱いとされるものに”天の羽衣”もあったのかもしれない。それらの役割の違いは分らないが、中国の玉璽、ヨーロッパ王族の王冠のようなものと同様に扱われていたと考えれば、古代、宮中行事において天皇の即位における権力の象徴としての天の羽衣はとても重要なもので白鳥の羽を調のように献上することはとても名誉なことで、通商、献上品として産出するところの地名としてふさわしいものだったと考えることができるかもしれない。

 古代日本(ヤマト)の人々は本名を直接呼ばないようにするなど現代では信じられないような迷信や風習があったりする。白鳥の羽の天の羽衣で空を飛べたり、神通力を持つなどは現代では想像もできない、科学の常識から外れたばかげた迷信と一蹴されるような内容でもあるのだが、当時の人々の常識としては、とても重要なものだったと想像をすれば、神通力をもつ羽衣、これを産出する地区、となりそれは国の名前に当てられるほど重要な意味を含んでもおかしくなく古代歴史ロマン?があるように思える。

 その他、白鳥についていくつの有名な伝承がある。日本の神話には稲作の発祥として"大鳥(鷲)が稲穂を持って飛来した"とする瑞穂の国の伝説。この大鳥はいつの頃からか鷲と混同されているが古い文献の多くでは白鳥だったといわれ、多くの大鳥神社では白鳥を祀る。たしかに白鳥が稲の籾を咥えたり体に付着したりすることはありそうだが鷲が籾をつかんだり咥えることはイメージとしては難しい。その大鳥神社でも祀られるヤマトタケルは白鳥になったという古事記の物語で有名だ。継体天皇の墓と言われる今城塚古墳には白鳥の埴輪が多く埋葬してあった。白鳥が古代の人々にどのように考えられていたものか謎が解ければ出羽の国の名前の謎もわかるのかもしれない、遠い国を海や山、国境も関係なく簡単に行き来できる白鳥には何かロマンを感じさせるものがある。

(東京駅レリーフの写真)







Last updated  2021.09.11 00:10:14
2020.02.22
八郎が訪れたことがある狭山市の広福寺を訪れた。
 「清河八郎・明治維新に火をつけた男」(成沢米三著)にはこの広福寺の写真が載っている。成沢先生は清川地区の郷土史家でもあり、この本は小学生の時に郷土史の本として手にいれたと思う。挿絵はそれほど多いわけではなくて風景の写真に限っては数枚しかない。当時、高速道路も少なく関東近郊は東京以上に遠い場所だったので、数多くある八郎が訪れた場所の中でなぜこの場所の写真を選ばれたのかはわからないが、距離をいとわずわざわざ足を運んで撮ったというところがとても貴重に感じる。この広福寺を訪れて見ようと思った。

 地図でみると広福寺は国道16号線を東南に入間川を西にしてその挟まれた場所にある。16号線の新狭山2丁目の交差点(ここに古い生越道道標もあるから昔の街道だったのだろう)から西へ入間川の方に向かうと下り坂になりそれを過ぎると一段低い平地のようになる、見渡す限り青空が広がり遮る山などないようなそのような場所にお寺はあった。寺の裏手側向こうにあるだろう入間川は少し距離もあり低いからなのだろう境内からは見えない。この地域一帯は比較的温暖な地域で市の名の通り狭山茶で有名な場所でところどころに茶畑が広がる(狭山茶の生産量は狭山市よりとなりの入間市の方がは多いそうだ)。広福寺は狭山市立奥富小学校にほぼ隣接するようにしてあり地方のどの地域にでもありそうなお寺だった。奥富小学校の歴史によると明治の初めに”奥富学校”が広福寺を校舎にしてあったというから江戸時代の寺子屋さながらに地域の教育の中心であったことが想像できる。


    (上写真: 成沢米三著「清河八郎」、1976年初版なので70年代の広福寺と思われる。
    田園風景になじむ本堂、昔の典型的な裕福な農家の屋敷をさらに大きくしたような感じだ。白黒写真では本堂が江戸の農村の雰囲気をもっている。山門(竜宮門)の漆喰とのコントラストが美しい。)


    (上写真:2020年2月頃撮影、門の左側からほぼ同じ方角から撮影した。70年代に山門の横の田んぼだったところはお墓になっていたり周りの木々も大きく育っていて道路からだと本堂が見えにくくなっていた。広福寺はお寺なのだが神仏習合のなごりをところどころ感じさせる。江戸時代のころは神道の雰囲気がもっと強かったのではないかと思う。地域に大事にされているお寺の感じがした。)

 
 八郎がなぜここを訪れたのかといえば、文久元(1861)年5月20日の(隠密)無礼打ち事件(虎尾の会事件)で幕府の捕手から追われたので逃亡して潜伏をするためだった。この場所を選んだのは住職の密意(41歳/水戸藩出身)が虎尾の会の発起人メンバーの西川練造(武州入間郡仙波村、45歳)と北有馬太郎(久留米藩浪人、奥富在住、35歳)と懇意でそれを頼ってのことだった。
(※虎尾(こび)の会事件とは虎尾の会が横浜の夷人館の焼討ちと討幕の挙兵の計画をしていたことを幕府のスパイが清河塾の軒下で情報を盗み聞き監視していたが、いよいよ八郎をつけ狙い町で捕まえようとした際、その幕府の捕手を八郎が斬捨てたために起こった事件。)

 5月22日、八郎は伊牟田、安積、村上の4名で白子宿(和光市)から広福寺に着いた。住職は寺に出入りする人たちに気づかれない”庫裏の陰の部屋”に隠まってくれた。日を追って西川、北有馬も訪ねてきて一同は意気軒昂、酒を酌んで時勢をを断じたという。しかし、時々間者のような怪しいものが現れては八郎たちの挙動をうかがっているようだった。
 2日後、寺に来た川越のある浪人から入間川の宿(2kmほどしか離れていない町)の綿貫という村長のところに八州取締り3人と捕手100人あまりが集まっていることを聞き、事件が発覚していて幕府の追手が一党を捕えようとしていることを悟った。寺に迷惑をかけるということもあり、24日の夕方(午後4時ごろ)雨がしとしとと降り出す中、4人で所沢へ向かい(その後新宿へと)逃げた。鉢巻をして捕手と出会ったなら切り殺そうと身構え、傘や雨具に身を隠して寺を後にした。

 この寺で合流していた北有馬は当初一緒に逃げようとしたが、真相がわからない(虎尾の会が清河塾で幕府に監視されていたことを気づいていなかった)ということでそのまま残ることにしたが結果的に西川とともに捉えられてしまった(伝馬町の牢獄)。住職の密意も牢獄に入れられた。また、神田お玉が池の清河塾にいた池田、笠井、熊三郎(弟)、お連(妻)や神崎(千葉県香取郡神崎町)にいた石坂など関係した家族、召仕含めて牢に入れられた。八郎との関係の詳細が不明の人も含めて10人以上が牢に入れられたことになる(亡くなった人もいた)。幕府は当初から捕縛の対象を八郎のみならず虎尾の会のメンバー全員として一網打尽にしようとしていたことがこの様子から窺い知れる。

 この頃、八郎は虎尾の会を含め多くのメンバーが捉えられたことに心を痛め動揺し絶望の中にいた。進退ここに極まった、捕吏にかかって死にたくない、自首や自害して連座させられた者の釈放を乞う・・・などといろいろ悩み自害することを決める。しかし、安積五郎が機転をきかせて嵩春斎に会うようにしたり、桶渡、神田橋ら皆んなに犬死すべきではないなど必死の説得で諭されたり励まされたりして自首自害をせずに逃亡することになった。髪を商人風に変装し永代橋(隅田川)のたもとに刀の大小と町奉行へ向け書いた連座した人たちの釈放の訴状を置き、入水したように見せかけ逃亡生活へ入っていく(31歳)。

 この頃に残した漢詩がある。
    「妻や弟までももはや捕らえられたと聞いて、身の処しようもなくみずからを責めただそうとする。
     男子たる者、汚れた役人などに取り調べられたくはない。自害して・・・
     だが仲間が報国の誓いを重ねて求める。犬死にするよりは、暫し自らを愛す(大事にす)べきだ。
     古来、大望を抱いている英雄豪傑は、元来、波瀾に従い変転にも処する。
     私はこの言葉を聞いて愁(うれ)いの中から立ち上がり、恥を包み隠し恥に耐え忍ぶことを目指す。
     余力を逃亡に尽くして専念することにし、正義を守っていよいよ国に従う理(ことわり)を堅固にしよう。
     願わくは夷狄(外国列強)を懲らしめて以前の罪を償い、再び以前のような名をあげて家子(妻や弟)に報いよう。
     しばらく苦労するのは悲しいことではない、かくてこの身をばあちこちに潜ませる事にしよう。」

 生きのびるという言葉ではなく”恥に耐え忍ぶ”という言葉、”名をあげる”など家の名誉などの内容がこの時代の責任感、空気感を示していることが印象的だ。武士的、中世の日本的な価値観もあるように思える。

 ところでこの時の八郎の行動には死んだふりという言葉が当てはまるように思う、もう一度やり直す、再生、再起という言葉も合うかもしれない。当人はそんなことは意識していないと思うが出羽三山の山伏が修行として一度死んで生まれ変わるために山を登ったりすることに似ている。ひどい挫折を味わった時にはこういう頭の切り替え方が必要なのかもしれない。
 また、この地域にもいた幕末の”草莽の志士”たちが強い信念を持って行動していた様子がすごい。自分に降りかかる災難や自分の命をも顧みないで当てのない八郎を支援した。普通であれば幕府の世の中で自分に火の粉が降りかからないようしたい、少しでも関わりなくない、ということになるのだろう。どのような強い思いを持っていたいたのだろうか。八郎を生かすことがこの国のためになる、世の中を変えられるなどのように信じた。八郎に何を托そうとしていたのだろうか、そこにはエゴのような自分だけの利益の追求など微塵も感じられない。そのような人々に助けられ、この言葉にあるようにあきらめずに命を大切にしたことがこの挫折を乗り越えることにつながった。その後、九州遊説、浪士組での2度目の攘夷計画に向けて、さらに多くの人々とのつながりを深め日本の幕末維新を促進させた活動を発展していく。いろいろな人々に支えらて八郎にとってはまさにここは生越(おごせ)道だったのかもしれない。
     
    左が竜宮門、右の本殿の名称は瑠璃殿、瑠璃は南国の海をイメージさせる”青”なので、ともにトロピカルな感じがする。


    左の白い建物が竜宮門、中央の大きな白い石と木の奥が本堂(瑠璃殿)、東側からの全風景。

 小学生当時、この本の内容については、ストーリーで読むというよりは興味のある部分だけ読み全体的にはキチンと理解できていなかったと思う。小学生ではむずかしく詳しいところは大人になってまた読もうと本棚に置いてあるという感じだった。高校のころにやっと読み返すことになるが、パラパラとページをめくって出てきた写真の方が記憶に残っている。特にインパクトがあるこの写真の山門は、あまり見たことのないもので関東にはこういう門が多いのかと思っていたが大人になって珍しい門であることに気づいた。
 狭山市のウェブサイトをみればなるほど”竜宮造り(竜宮門)”といわれる建築様式だという。確かに桃太郎や浦島太郎などの日本昔ばなしに出てくるような門だ。これがお寺の門(山門)だと言われれば見れば見るほど不思議な気持ちになる。
 そう思いながらよく見返えせば、屋根など上半部は日本の武家風建築様式にも見えるし、下半部の緩やかな曲線と漆喰の白さはサンゴを連想させる。なぜ、関東平野の真ん中にこのような建物があるのだろう、そのコンセプトは?歴史は?・・・などと想像してみたくなった。そして、この関東の冬の澄んだ青空と乾いて冷たい空っ風のコントラストの違いはあるものの”青い(瑠璃色)”という色合い、何か南国と共通の雰囲気があるかも?と勝手に納得した。
 幕末の歴史の舞台の1つと言える場所で八郎、北有馬、西川、伊牟田、安積、村上ら虎尾の会、おそらく彼らだけでないこの近くの関東の幕末の志士たちも集いくぐっただろうこの山門や本堂が現存し漆喰もきれいに維持され拝見できることはとてもありがたい。

 余談なのだが、前述の八郎の記述に出てくる村長とある”綿貫”氏は、狭山市のウェブサイトを見ると”入間川を本拠地とした商家で入間宿から江戸まで一歩も他人の土地を踏まずに行けた”、”江戸の綿貫、北の本間(現酒田市)、大阪の鴻池と唄に謡われた”といわれる大地主だった。川越藩(入間郡)は庄内藩にとって天保の三方領地換えに出てくる不要な多額の費用を費やしたイメージもある藩なのだがいろいろと行き来もあったのかもしれない。幕末の慶応三年の融資の記録などがあったり庄内藩とも何か関係がある藩のように思えた。

 この寺は八郎が絶望の中にあった時に逃亡しながら生き延び希望を見出して次の行動へと好転することを模索した場所の1つだったのかもしれない。






Last updated  2021.02.14 22:24:17
2019.06.29
テーマ:本日の1冊(3529)
清河八郎が暗殺された後、リーダーを失った「浪士組」のゆくえは?本書はその疑問や興味を補完する資料の1つだろう。

 これまで見てきたように、虎尾の会の画策や八郎の新徳寺の演説により「浪士組」の進む方向は幕府主導の攘夷から天皇主導の攘夷へと変えられた。しかし、リーダー八郎の暗殺により「浪士組」は「新徴組」へと名前を変え、幕府直属から江戸で市中一手取締り役(警察職)をしていた庄内藩の下へ組み入れられた。新徴組は委任された庄内藩の元で庄内藩士として江戸の町(市中)の治安維持・警護でおまわりさんの元語となる活躍をし、戊辰戦争では兵士として活躍して激動の時代を歩んだ。外国との戦い(攘夷)から国内の治安維持活動、(戊辰)戦争へと、本人たちの思想は置き去りにされ剣客たちが傭兵として歩んだ歴史とも言える。
 浪士組が庄内藩に組み入れられた理由は決して八郎の故郷の藩だから、ということもあったのかもかもしれないが、何か偶然と片付けられない不思議な縁を感じる。

 この本は、慶応2(1866)年3月、千葉弥一郎という名の19歳で新徴組に入隊した組士の証言録である。千葉は江戸の出身だが、川越の出身の父の新六郎が浪士組に息子の雄太郎と参加した、という。弥一郎の兄である雄太郎は浪士組解散後も引続き新徴組に入隊(組)していたが、江戸での乱心幕臣斬り・組士切腹事件で切腹して亡なってしまったため、弟の弥一郎が新規に庄内藩士として召し抱えられたという。その後、激動の幕末、戊辰戦争、明治、大正を生き延び、昭和の初め88歳まで生き東京で亡くなった。
 この証言録は、出来事として「浪士組」の編成から、清河八郎が暗殺される場面、薩摩藩邸焼討ち事件、戊辰戦争、「ワッパ事件」まで、人物録としては、幕末の重要人物、300人以上の浪士組隊士の名前や年齢、出身地、判る範囲の経歴、人物評などがおさめられている。

 ただ、注意が必要な点は内容が時代の背景を添えて詳しく書かれていたり屈託のない表現で描かれていて当時の雰囲気が伝わる一方、本人が直接体験したものは「新徴組」に参加してからの慶応2(1866)年以降のもので、それ以前の内容については父や組士など他の人からの「伝聞」による内容と考えられる点だ。特に「浪士組」の記述に対しては実体験ではない記述になる。その都度、取上げられた発言者の主観や時世の勢いなどが入るためなのであろう、その主張は散発的で一貫性がないように感じられるものも見受けらる。

 そのため、この資料を慎重に扱いたいという考えもある。編者の西脇氏は、地元庄内で地域史に詳しく、清河八郎や新徴組の著書を出している小山松勝一郎氏を介して「(小山松氏の)著書の中では、千葉弥一郎の著書を2.3参考文献には挙げているものの、本書後半で紹介した証言録をほとんど引用・参照していない。それはなぜであろうか。同氏がこの証言録の存在を知悉(ちしつ/よく知っていること)していたとするならば、証言録に対してあまり信を置いていなかったと判断される。だからと言って証言録すべてを排除するのもいかがなものかと思われる。・・・」としている。また「(小山松氏が他にもあった)証言録を全部知らなかったのではないか」などわざわざその信憑性について触れて解説している。
 とはいうもの、作者が言うように他の資料との整合性や当時の組士たちの考えの一端を知ることができとても興味深く貴重な資料だと感じた。

 この本には前半で「清河八郎」についての多くのことが割かれている(第1章 清河八郎と新徴組)。また、時代の多くの出来事が背景を添えて詳しく書かれていて興味深い。その中で特に印象深い内容を以下にいくつかピックアップしたい。

 全体的として八郎について「国家有為(才能があること)の士」などと高く評価している部分が多く占める。その中で、浪士募集の内容の中で1つだけ八郎と浪士組の幹部たちに対して厳しい表現を使っているところがあった。
「幕府では・・・幕末にあって一定の政策なく、朝令暮改なりしは周知の事実なれども、浪士の募集は拙の拙なるものであった。・・・山岡鉄舟、高橋泥舟の如きも一定見なく、極言すれば清川八郎の傀儡たるに過ぎず。八郎は非凡の豪傑であったが、短所として徳望なく傍若無人・傲慢不遜と誹(そし)られ、長所たる果断は志業の障碍(しょうげ/障害)を招いた結果である」

 もしかしたら、この資料のこの部分が八郎の印象を短所として誤解を与えてきたのかもしれない。この部分は新徳寺の演説の頃を言っていると考えられる。以前にこのブログでイギリス艦隊が横浜に現れ、八郎が攘夷に焦っていたからこのような強硬な態度をとったのではないかと考えていた内容だ。浪士組が大きな組織になりながらも生麦事件が起こったために攘夷を急を要して推し進めなければならなくなったこと、あまりの短期間では浪士組内での意思疎通をとるのはむずかしく、説明をする時間の余裕がなく八郎の役割や理解も浸透させることがむずかしかったことなどを考えた。

 当時、浪士組は寄せ集めの集団で組織がさまざまな人々で構成されていたので、いろんな考え方が混在して当然だった。この見解は八郎や虎尾の会とはあまり関係が深くなかった人々から浪士組幹部たちへ向けられた手厳しい見方の1つだったのではないか、と推測する。

 話を浪士組の募集のところに少し遡ってみるとその状況がわかりやすい。
「また、剣客近藤勇の如きも・・・その他の門弟20余名を連れてきた。家の子・郎党を伴って来た。なかには武州兜山の根岸友山(のちに倒幕へと転じる)、上州の金子龍之進等もあった。募集の名義が報国尽忠の有志というのであるが、実際は貴賤・貧富・老若の差別はもちろん、いわゆる玉石混淆で博学の者もあれば、姓名を記すあたわざるあり。天下の名人と称せられる剣客もあれば、竹刀(しない)の持ちようも知らぬ者あり。温厚篤実にして人格高きものもあれば、田夫野人(でんぷやじん/教養がなく、礼儀を知らない粗野な人)にして卑下(ひげ)すべき族(やから)も少なからず。しかれども、八郎はそれらのことは厭(いと)わなかった。・・・」

 後の藩内の組織としての新徴組とは違う、掻き集めの感のある浪士組の中の人間関係の様子が垣間見られる。山岡鉄太郎が後に"八郎を語ることは自らを語ることになる"と言ったことを考えれば、この山岡や高橋、虎尾の会や尊王派の志士たちは連係プレーで組織だった行動をしていたのだろう。先ほどの手厳しい言葉はその時のリーダー、幹部と一部の組士たちとのギャップにより生じた言葉だったように取れる。強い信念、自信ある堂々とした態度、強いリーダーシップと傍若無人や傲慢と言う言葉は紙一重でもある。そのような誤解は歴史的に八郎や虎尾の会の人々が行った勇気ある行動とそれからの意図を汲み取り、理解すれば容易に溶けるように思える。

 このように八郎への良いコメントだけでなくあまり良くないと思われることも取り上げられている。これは300人以上いる新徴組には様々な意見があったことを意味していて逆にこれらの証言が組士の屈託のない意見を吸い上げていることを示しているだろう。(作者の千葉本人も浪士組には参加をしていないはずなのに自由に述べている。)


 次に、浪士組が攘夷を強く推し進めたことについて、次のような記述があった。
「ちなみにいう。井伊大老が安政の大獄を惹起して以来、尊王攘夷の4字は流行になり、報国尽忠の4字もまた流行となった。・・・いわんや尊王ばかりを唱うることは徳川氏に対しはばかるところがある。それで尊王攘夷と関連せしめて流行せしめているのである。
 そもそも関西の志士は王政復古と討幕が目的であるけれども、討幕の名義は朝敵にあらざれば下されない。無名をもって唱うることはできぬ。それゆえ開国の時運に向かい、攘夷の不可能なるを知りつつ、朝紳(公家、公卿)を動かし、攘夷の令を下さしめ、幕府を苦しめ違勅の種を造って討幕の名を得んと画策したのである。
 八郎の如きはしからず(そうではなかった)、真面目に尊王攘夷を実行せんとしたので、討幕の意思はなかった。彼が3月5日(に提出/3度目)の建白書中「第四、京都の守護は一切会津侯に御委任、他の掣肘(せいちゅう/そばから、あれこれと干渉して自由に行動させないこと)なからしむること(はあってはならない)」「第七、将軍(が)勅を奏ずる上は、速やかに帰府(東京に帰ること)して天下に号令し、征夷の大業(攘夷実行)を逐ぐること」とあるを見ても、彼は何の欲望もなく至誠もって尊王攘夷の決行にありしを知るべし(しるべきだ)。 
 八郎が初め報国尽忠を名とし、浪士募集の進言をなしたるは、尊王攘夷の名をもって進言するも、幕府は採用せぬと考案せしならん(尊王攘夷の名目で提案しても幕府は採用しないと考えたのだろう)。とにかく人数を集むることを主眼とせしにほかならず(主の目的とした)。応募者中主義の何たるを了解せず、単に報国尽忠を名の下に集まり来たるもの十中の八、九。・・・」

 少し、長い引用になったがここで八郎が「真面目に尊王攘夷を実行しようとしていて、討幕の意思はなかった」としていることが興味深い。八郎は「回天唱始」、「革命」を最初に言い始めた人なのだが、「討幕の意思はなかった」という言葉からすれば徳川氏や佐幕派の排斥を考えていなかったことになる。推測にはなるがこの言葉を信じれば、もし仮りに八郎が生きて明治を迎えていたならば、後の大義のない東北戊辰戦争には反対の考えだったと言っていいだろう。


 「長屋玄蔵」という千葉の友人で山岡鉄太郎を師事し清河八郎を崇拝していた人物の話がでてくる。長屋は千葉とは姻戚関係であり入間郡川越村出身の浪人だった。29歳で浪士組に入り、荘内(湯田川寄宿舎)にも移住して戊辰役に出兵し矢島城陥落(秋田県由利本荘市)にも参加した。

 長屋はいつも八郎が詠んで書いた次の書の掛軸を床上に掛け、八郎の死後、朝夕香花を手向けていたという。
 「さくら木を削りしたたむまこころは すめらいくさ(皇戦)の魁の花」

 この歌からは桜木を削った時の何となくほのかないい香り、清々しい香りが伝わってくるように感じる。そして、それは八郎の当時の心境にもなぞらえられる。八郎の行動と実直な人柄が偲ばれる歌でもある。
 掛軸は直接八郎からもらって大切にされていたのかもしれないし、長屋玄蔵が山岡鉄舟を師事していたということだから山岡鉄太郎から譲り受けたのかもしれない。とにかく八郎を厚く慕っていたことが伝わってくるエピソードだ。
 詠まれた時期の詳細については不明だがその時期は京都、あるいは江戸に戻ってきてからのものだろうか。それとも暗殺される直前の頃の歌だったのだたろうか。
 歌の内容を理解するには、この歌が歌われた時期が問題になるが、”すめらいくさ”が当時から考えれば横浜異人館焼討ちだろうとすれば、やはり外国との戦争(攘夷)を具体的に考えていたのだろうと思われる。

 淡いピンク色の桜木で削られていたものは何だったのだろう。桜木を削るとは削った後に何か形が完成するというプラスの意味にも感じられるし、身を削るというマイナスの意味にもとれる。
 浪士組の組士たちへの励ましの歌の可能性が高いようにも思えるが、横浜の焼討ちを直前に思いとどまり戦争を回避しようとしていたと言われることと関係があるようにも思えたりもする。
 この当時のこの清々しい歌とその後の八郎の暗殺とのギャップ、とても不思議な歌に思えた。


 この本には300人以上の人の名前が出てきてその人の経歴や人となりが書かれている。その交友関係を丹念につないでいくといろいろな人間関係がみえておもしろい。
 その中で発見したものの1つ、先ほどの長屋玄蔵を恩人とし意気投合の間柄だったという備後出身の山口三郎という浪人の話を紹介したい。この人は蘭学や砲術を学び、井伊直弼を日本の救世主と仰いでいたという。「八郎とは大いに意見を異にする攘夷論者だったが、開国論者だった」という。また、虎尾の会の池田徳太郎とは"お互い信頼した仲"だとして池田徳太郎の話もでてくる。この辺りの内容はハ郎が画一的な鎖国論者だったかなど、少し一方的で内容的に浅い部分があるのでもう少し精査が必要のように思えた。ただ、攘夷と言って一つの集団にいても主義主張は微妙に違っている、今でも組織内でよく見られることでリアルな内容に思えた。
 
 この本全体を通じて作者の千葉が清河八郎をとても高く評価していたことが伝わってくる。
新徴組の人々は関東の出身者が多かったため厳しい冬の庄内の寒さに慣れることなく、関東に戻り帰った人が多かったと、昔新聞の記事などで読んだことがある。リーダーの清河八郎が亡くなったことにより、歴史にほんろうされたのではないかという少し申し訳なく思う気持ち、戊辰戦争での活躍、庄内を守ってくれたことへの強い感謝の気持ちなど、複雑な想いが交錯する「新徴組」のその構成員の人々の1人1人の歴史が知れる本だった。


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Last updated  2021.05.16 13:40:11
2019.03.28
現代風に言えば清河ハ郎の職業は学者だった。そんなように昔、聞いたことがある。確かに江戸唯一の文武両道の塾を開いたのだから、"塾の先生=学者"で間違いなさそうだ。だが、回天唱始(革命を言い始めること)の幕末志士のイメージからすれば政治家、革命家となるし、家業を手伝っていたのだから商人、実業家と言ってもいいのかもしれない。
 現代では学術書や専門分野の資料を見て研究するというイメージのある学者だが八郎はそういう学者ではなかった。旅をよくして色々なところを訪れた。そして、そこで見たり聞いたりして感じたことからも学びとった。

 ペリーの来航により日本の歴史は激動期に入り、ペリーは日本の近代の幕開けをしたとも言われる。八郎は幕末偉人のご多分に漏れずペリーの黒船艦隊を見に行っている。こういう経験を経たことも学者から革命家となる動機の1つだったのかもしれない。ペリーが日本に来た頃のハ郎の行動を追ってみたい。

 当時、八郎は学者を目指し学問(安積艮斎塾)と剣術(北辰一刀流)に励む真面目な学生だった。嘉永6年(1853年)の3月にハ郎は実家から重大な相談があるということで郷里の清川に帰っている。その後、実家での相談の結果がどうなったかは不明だが、4月には蝦夷地に視察に行っている。(アメリカのペリーが来る以前、日本が対外交で悩まされていたのが欧米列強のロシアだった。)その1、2ヶ月後の6月3日、ペリーが浦賀沖に来航、6月9日に上陸、12日に香港へ向かった。八郎がもし江戸にいたら黒船を見に行っていたにちがいないが実家の清川に戻り蝦夷地に行っていたことやペリーの1回目の滞在が短かったこともありこの時は黒船を見られていない。

▼ ペリーが来航した時、最初に上陸した久里浜(ペリー公園/横須賀市)


▼ 久里浜海岸(ペリー公園/記念館前)

・左に連なる山沿いの小さな岬の裏側、左奥が浦賀港、この久里浜の方が広く見通しのよい場所のようだ。
※初回のペリーの来航時、八郎は清川から酒田港を出て蝦夷地(北海道)に行っていた。ロシア船などを見るためだっただろう。

 嘉永7年2月(1854年)、1回目の来航から約7ヶ月後、ペリーは2度目の来航をする。そして、2月11日(3月8日)に今度は横浜に上陸した。八郎は清川を出て江戸へ向かった。江戸に着いた2月24日当日に神奈川へ向かっている。ペリーについては郷里で噂を耳にしていたようなので、江戸に向かったというのはペリーの黒船を見に行く目的があったからなのだろう。

▼ ペリーが2度目に来航した時に上陸した横浜の象の鼻(旧埠頭)


 大川周明の「清河八郎」には、時事に言及するようになってまもなく、初めて憤慨した内容のものとして嘉永7年4月29日(23歳)の手紙が紹介されている。
「・・・異国船(ペリー艦隊)は、国元(庄内藩)で噂があったとおり、2月11日頃神奈川沖へ次々に乗り込んで来たというので、24日に着替えもせずに神奈川(宿)にやってきました。すると軍艦船4隻、蒸気船3隻、合わせて7隻が1里(4km)ほど沖で(碇に)繋がっていました。一旦、浦賀で応対したが異人(アメリカ人)が神奈川沖の横浜で対応してほしいと強く主張するので、仕方がなく横浜で対応して(広さ)千畳敷の屋敷を建築して浦賀奉行が出張して対応いたしました・・・」

「私も翌日(25日)横浜にやってきたところ黒船の様子もとても良く見えて、おおよそ30間(54メートル)ほどの大きさでした。右の応対場に異人が毎日上陸して、いろいろなカラクリものなどを組立てていました。火の車と言って3人ぐらいが車の上に乗り、水火の仕掛けで平地を馬が駆けるように走る車などを毎日試していました。・・・異国人で1人の人が亡くなった人がいて日本の地に葬らさせてほしいという願い出があったので真田公が本陣の下に埋めさせることに決めましたが、異人たちが墓参りと言ってその近辺に徘徊し、傍若無人の振る舞いをしました。彼らは正当に亡くなった人を埋葬したことにかこつけ日々、上陸の理由としたように思え・・・」

「私が横浜から帰る日などは、異人3、40人が上陸して墓参りをしてひそかに見物をしていました。異人はもともと夷狄と言われながら、前述のとおり傍若無人の振舞い決められた場所も守らないで、勝手気ままに往来して、田畑に出ては野菜を取り、沿道や近辺の百姓は大憤激して畑作業の邪魔になっていましたので追い払われる度に、もしできるならば、私たち(百姓たち)が寄せ集まって逮捕すべきだなどと申し出る村もあるぐらいに遠近で迷惑にしていました。幕府はとにかく平穏に取り計らい、どんなことでもするが関わらず放っておくように言われ、頼るところもなく見捨ておかれることになりました。誠にもって苦々しいことでした。」
「先日幕府より料理がふるまわれた際、8艘の頭(アメリカ人の艦長)全員が千畳敷に招待されもてなしを受けました。ことごとくつまみ食いをして、食べにくいものはそのまま吐き出し左右の屏風などに振捨て、言語道断犬に物を食わすあんばいで見かねた様子のことだったそうです。」

「いづれ彼らの考えは、思うさま乱暴をして日本を呆れさせ戦さを仕掛ける様子を見せ、それ故防ぎ取り接戦いたす申すべき(そういう理由で防戦して交戦しようとする)様子故、相成る(交渉する)だけ不肖いたし(おろかで)、こちらから手を出し始めるよう仕掛けているように見えるが、とても終りは戦いの事(最終的には争いとなること)なので、その様な恥辱を受ける前にこちらから打ち払いべくことに・・・追々黒船渡来、乱暴なことではあったが頃合いよく将軍家の下知に関わらず(将軍の命令があったにも関わらず)、国司方の大名衆より天下の為に乱暴を打払うの義兵を越し可申(大名から国のために義兵を募集すること)も計られず、然る時は乱却って国内より起り申すべし(こういう時は国が乱れて内乱が起こる可能性がある)・・・」

▼ 象の鼻(旧埠頭)から見た横浜の港と現在の街並(ペリーの2度目の来航、上陸の地)
神奈川県庁と横浜税関
・左端の四角錐のとんがり帽子のような塔が神奈川県庁、中央は横浜税関。
・神奈川県庁、開港資料館、開港広場公園があるこの辺りにペリーたちのために建てられたという応接所が設けられたという。

▼ 象の鼻方向から見た開港広場公園と開港資料館方面
開港広場公園方面
・かつてこの辺りは砂浜で開港資料館の中庭にはペリー上陸当時の"たまくす"の木が残っている。有名なハイネの"ペリー提督横浜上陸の図"の絵と照らし合わせれば当時の位置関係が想像できる。おそらく、この辺は埋め立てられた岸壁なのではないだろうか。

▼ 開港広場公園と隣接する開港資料館

・海岸通りの先の右奥にはランドマークタワーが見える。この辺りは砂浜だった。ハイネの絵のたまくすの木は中央の開港資料館の中庭にある。ペリー艦隊乗員が上陸して整列した場所とも言えるだろう。


 水火の仕掛けとはSLのことではないだろうか。おそらく他にも多くの群衆がいてその中で見物したのだろう。現在の神奈川県庁や開港広場公園辺りと考えられる。

 長旅で疲れているし上陸して異国を見てみたいという衝動はどこの国の人でも同じだろう。生活や風習の違いなど外国人にとって食事も慣れないもので同情するところが多い。しかし、野菜を取ったり食事のマナーの様子は当時のアジアの国、日本の弱い立ち場、国際情勢を現しているようだ。ただ、この当時アメリカは威圧的な態度での交渉をしながらも本音ではまったく戦争をする気はなかった、ペリーは本国から戦争をしてはいけないと命令を受けていたとされる。南北戦争を控えていて外国での戦争どころではなかった、こういうことは外交が情報戦でもあり戦略的な目で見なければならないといういい例なのだろう。当時は後進国で決して大国ではなかったアメリカだが交渉が上手なのは伝統なのかもしれない。
 

 大川周明の言葉を借りれば、その後八郎は "さりながら、尚未だ起って国事に奔走しようとしなかった。"とされるが、この時には思想的なものが固まっていたのかもしれない、ここでの内容が後の攘夷運動へつながる内容となっているのでとても興味深い。

 そして八郎は江戸で学問を続けた。3月上旬に安積艮斎の推薦を受けて昌平黌に入学する。諸国から来学する50人もの人たちの中に入った。緒方士が集まっていて面白いことは面白いとしながらも、
「繁雑にて甚しく騒がしき、学問のためには毛頭益には相成らず、それ故従古(湯島)聖堂より大豪傑の出でたる事さらに之無し、唯だ大名より命ぜられ、やむをえず2、3年づつ学問に参上するところの為、一向に励むものも之無く、その上多人数ゆえ、酒色などにはかり相走り・・・誠につまらぬ事に御座候。」と昌平黌に失望している。
 実践行動主義で多くを学び、自ら全国を回って見識が広く深くなっていった八郎。世界と日本の現状を知り純粋に学問をより高い水準で探究しようとしていたから違和感を感じたのだろう。当時の心境の様子からみれば少なくとも御用学者のような学者を目指してはいなかったことがはっきりする。そして、自分が求め必要とされる道を探して進んで行った。

 23歳の八郎は開港直後の横浜の様子を見ていた。その時、住民がわずか90戸ほどと言われる横浜の半農半漁の小さな村からの発展はその後著しかった。八郎はその後、横浜異人館焼討ちを2度計画するのだが、村から街への変貌は想像以上であり八郎の計算を狂わせたのではないか。この時横浜に訪れてからおよそ10年後、再び横浜の町を見たときの大発展ぶり、国際的な港町の重要性が高まっていたことに戸惑いを感じたのではないかと思った。







Last updated  2021.06.29 23:07:21

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