298122 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

出羽の国、エミシの国 ブログ

出羽の国、エミシの国 ブログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

2019年03月28日
XML
現代風に言えば清河ハ郎の職業は学者だった。そんなように昔、聞いたことがある。確かに江戸唯一の文武両道の塾を開いたのだから、"塾の先生=学者"で間違いなさそうだ。だが、回天唱始(革命を言い始めること)の幕末志士のイメージからすれば政治家、革命家となるし、家業を手伝っていたのだから商人、実業家と言ってもいいのかもしれない。
 現代では学術書や専門分野の資料を見て研究するというイメージのある学者だが八郎はそういう学者ではなかった。旅をよくして色々なところを訪れた。そして、そこで見たり聞いたりして感じたことからも学びとった。

 ペリーの来航により日本の歴史は泰平の眠りを覚ませられるように激動期に入り、ペリーは日本の近代の幕開けをしたとも言われる。幕末偉人のご多分に漏れず八郎はペリーの黒船艦隊を見に行っている。こういう経験を経たことも学者から革命家となる動機の1つだったのかもしれない。ペリーが日本に来た頃のハ郎の行動を追ってみたい。

 当時、八郎は学者を目指し学問(安積艮斎塾)と剣術(北辰一刀流)に励む真面目な学生だった。嘉永6年(1853年)の3月にハ郎は実家から重大な相談があるということで郷里の清川に帰っている。その後、実家での相談の結果がどうなったかは不明だが、4月には蝦夷地に視察に行っている。(アメリカのペリーが来る以前、日本が対外交で悩まされていたのが欧米列強の内のロシアだった。)その1、2ヶ月後の6月3日、ペリーが浦賀沖に来航、6月9日に上陸、12日に香港へ向かった。八郎がもし江戸にいたら黒船を見に行っていたにちがいないが実家の清川に戻り蝦夷地に行っていたこと(約3か月の単身蝦夷地の視察:5月12日:酒田港を出立、、青森から陸路秋田を経て清川に帰る)やペリーの1回目の滞在が短かったこともありこの時は黒船を見られていない。
 

▼ ペリーが来航した時、最初に上陸した久里浜(ペリー公園/横須賀市)


▼ 久里浜海岸(ペリー公園/記念館前)

・左に連なる山沿いの小さな岬の裏側、左奥が浦賀港、この久里浜の方が広く見通しのよい場所のようだ。
※初回のペリーの来航時、八郎は清川から酒田港を出て蝦夷地(北海道)に行っていた。ロシア船などを見るためだっただろう。

 嘉永7年2月(1854年)、1度目の来航から約7ヶ月後、ペリーは2度目の来航をする。そして、2月11日(3月8日)に今度は横浜に上陸した。八郎は清川を出て江戸へ向かった。江戸に着いた2月24日当日に神奈川へ向かっている。ペリーについては郷里で噂を耳にしていたようなので、江戸に向かったというのはペリーの黒船を見に行く目的があったからなのだろう。

▼ ペリーが2度目に来航した時に上陸した横浜の象の鼻(旧埠頭)


 大川周明の「清河八郎」には、時事に言及するようになってまもなく、初めて憤慨した内容のものとして嘉永7年4月29日(23歳)の手紙が紹介されている。
「・・・異国船(ペリー艦隊)は、国元(庄内藩)で噂があったとおり、2月11日頃神奈川沖へ次々に乗り込んで来たというので、24日に着替えもせずに神奈川(宿)にやってきました。すると軍艦船4隻、蒸気船3隻、合わせて7隻が1里(4km)ほど沖で(碇に)繋がっていました。一旦、浦賀で応対したが異人(アメリカ人)が神奈川沖の横浜で対応してほしいと強く主張するので、仕方がなく横浜で対応して(広さ)千畳敷の屋敷を建築して浦賀奉行が出張して対応いたしました・・・」

「私も翌日(25日)横浜にやってきたところ黒船の様子もとても良く見えて、おおよそ30間(54メートル)ほどの大きさでした。右の応対場に異人が毎日上陸して、いろいろなカラクリものなどを組立てていました。火の車と言って3人ぐらいが車の上に乗り、水火の仕掛けで平地を馬が駆けるように走る車などを毎日試していました。・・・異国人で1人、亡くなった人がいて日本の地に葬らさせてほしいという願い出があったので真田公が本陣の下に埋めさせることに決めましたが、異人たちが墓参りと言ってその近辺に徘徊し、傍若無人の振る舞いをしました。彼らは正当に亡くなった人を埋葬したことにかこつけ日々、上陸の理由としたように思え・・・」

「私が横浜から帰る日などは、異人3、40人が上陸して墓参りをしてひそかに見物をしていました。異人はもともと夷狄と言われながら、前述のとおり傍若無人の振舞い決められた場所も守らないで、勝手気ままに往来して、田畑に出ては野菜を取り、沿道や近辺の百姓は大憤激して畑作業の邪魔になっていましたので追い払われる度に、もしできるならば、私たち(百姓たち)が寄せ集まって逮捕すべきだなどと申し出る村もあるぐらいに遠近で迷惑にしていました。幕府はとにかく平穏に取り計らい、どんなことでもするが関わらず放っておくように言われ、頼るところもなく見捨ておかれることになりました。誠にもって苦々しいことでした。」
「先日幕府より料理がふるまわれた際、8艘の頭(アメリカ人の艦長)全員が千畳敷に招待されもてなしを受けました。ことごとくつまみ食いをして、食べにくいものはそのまま吐き出し左右の屏風などに振捨て、言語道断犬に物を食わすあんばいで見かねた様子のことだったそうです。」

「いづれ彼らの考えは、思うさま乱暴をして日本を呆れさせ戦さを仕掛ける様子を見せ、それ故防ぎ取り接戦いたす申すべき(そういう理由で防戦して交戦しようとする)様子故、相成る(交渉する)だけ不肖いたし(おろかで)、こちらから手を出し始めるよう仕掛けているように見えるが、とても終りは戦いの事(最終的には争いとなること)なので、その様な恥辱を受ける前にこちらから打ち払いべくことに・・・追々黒船渡来、乱暴なことではあったが頃合いよく将軍家の下知に関わらず(将軍の命令があったにも関わらず)、国司方の大名衆より天下の為に乱暴を打払うの義兵を越し可申(大名から国のために義兵を募集すること)も計られず、然る時は乱却って国内より起り申すべし(こういう時は国が乱れて内乱が起こる可能性がある)・・・」

▼ 象の鼻(旧埠頭)から見た横浜の港と現在の街並(ペリーの2度目の来航、上陸の地)
神奈川県庁と横浜税関
・左端の四角錐のとんがり帽子のような塔が神奈川県庁、中央は横浜税関。
・神奈川県庁、開港資料館、開港広場公園があるこの辺りにペリーたちのために建てられたという応接所が設けられたという。

▼ 象の鼻方向から見た開港広場公園と開港資料館方面
開港広場公園方面
・かつてこの辺りは砂浜で開港資料館の中庭にはペリー上陸当時の"たまくす"の木が残っている。有名なハイネの"ペリー提督横浜上陸の図"の絵と照らし合わせれば当時の位置関係が想像できる。おそらく、この辺は開港資料館から続く砂浜を盛り土をして埋め立てられた岸壁なのではないだろうか。

▼ 開港広場公園と隣接する開港資料館

・海岸通りの先の右奥にはランドマークタワーが見える。この辺りは砂浜だった。ハイネの絵のたまくすの木は中央の開港資料館の中庭にある。ペリー艦隊乗員が上陸して整列した場所とも言えるだろう。安政6年3月3日、ここで「日米和親条約」が締結された。


 水火の仕掛けとはSLのことなのだろう。おそらく他にも多くの群衆がいてその中で見物したにちがいない。現在の神奈川県庁や開港広場公園辺りと考えられる。

 長旅で疲れているし上陸して異国を見てみたいという衝動はどこの国の人でも同じだろう。生活や風習の違いなど外国人にとって食事も慣れないもので同情するところが多い。しかし、野菜を取ったり食事のマナーの様子は当時のアジアの国、日本の弱い立ち場、国際情勢を現しているようだ。ただ、この当時アメリカは威圧的な態度での交渉をしながらも本音ではまったく戦争をする気はなかった、ペリーは本国から戦争をしてはいけないと命令を受けていたとされる。南北戦争を控えていて外国での戦争どころではなかった、こういうことは外交が情報戦でもあり戦略的な目で見なければならないといういい例なのだろう。当時は後進国で決して大国ではなかったアメリカだが交渉が上手なのは伝統なのかもしれない。
 

 大川周明の言葉を借りれば、その後八郎は "さりながら、尚未だ起って国事に奔走しようとしなかった。"とされるが、この時には思想的なものが固まっていたのかもしれない、ここでの内容が後の攘夷運動へつながる内容となっているのでとても興味深い。

 そして八郎は江戸で学問を続けた。3月上旬に安積艮斎の推薦を受けて昌平黌に入学する。諸国から来学する50人もの人たちの中に入った。緒方士が集まっていて面白いことは面白いとしながらも、
「繁雑にて甚しく騒がしき、学問のためには毛頭益には相成らず、それ故従古(湯島)聖堂より大豪傑の出でたる事さらに之無し、唯だ大名より命ぜられ、やむをえず2、3年づつ学問に参上するところの為、一向に励むものも之無く、その上多人数ゆえ、酒色などにはかり相走り・・・誠につまらぬ事に御座候。」と昌平黌に失望している。
 実践行動主義で多くを学び、自ら全国を回って見識が広く深くなっていった八郎。世界と日本の現状を知り純粋に学問をより高い水準で探究しようとしていたから違和感を感じたのだろう。当時の心境の様子からみれば少なくとも御用学者のような学者を目指してはいなかったことがはっきりする。そして、自分が求め必要とされる道を探して進んで行った。

 23歳の八郎は開港直後の横浜の様子を見ていた。その時、住民がわずか90戸ほどと言われる横浜の半農半漁の小さな村からの発展はその後著しかった。八郎はその後、横浜異人館焼討ちを2度計画するのだが、村から街への変貌は想像以上であり八郎の計算を狂わせたのではないか。この時横浜に訪れてからおよそ10年後、再び横浜の町を見たときの大発展ぶり、国際的な港町の重要性が高まっていたことに戸惑いを感じたのではないかと思った。
 1859(安政6)年3月31日:日米和親条約締結、
 1859(安政6)年7月 1日:横浜港開港、町づくり完成






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022年04月14日 22時14分09秒
[幕末の歴史 清河八郎と庄内藩] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X