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2020.02.22
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八郎が訪れたことがある狭山市の広福寺を訪れた。
 「清河八郎・明治維新に火をつけた男」成沢米三著にはこの広福寺の写真が載っている。成沢先生は清川地区の郷土史家でもあり、この本は小学生の時に郷土史の本として手にいれたと思う。挿絵はそれほど多いわけではなくて風景の写真に限っては数枚しかない。当時、高速道路も少なく関東近郊は東京以上に遠い場所だったので、数多くある八郎が訪れた場所の中でなぜこの場所の写真を選ばれたのかはわからないが、距離をいとわずわざわざ足を運んで撮ったというところがとても貴重に感じる。ここを訪れて見ようと思った。

 国道16号線を東南側に入間川を西側にして挟まれた場所、16号線の新狭山2丁目の交差点(ここに古い生越道道標もあるから昔の街道だったのだろう)から西へ入間川の方に向かうと下り坂になりそれを過ぎると一段低い平地のようになる、見渡す限り青空が広がり遮る山などないようなそのような場所にお寺はあった。その向こうにあるだろう入間川は少し距離があり低いからなのだろうそこからは見えない。この地域一帯は市の名前の通り狭山茶で有名な茶畑も広がる比較的温暖な地域だ。広福寺は狭山市立奥富小学校にほぼ隣接するようにしてあり地方のどの地域にでもありそうなお寺だった。奥富小学校の歴史によると明治の初めに”奥富学校”が広福寺を校舎にしてあったというから江戸時代の寺子屋さながらに地域の教育の中心であったことが想像できる。


((上)写真: 成沢米三著「清河八郎」、1976年初版なので70年代の広福寺と思われる。
田園風景になじむ本堂、昔の典型的な裕福な農家の屋敷をさらに大きくしたような感じだ。白黒写真では屋根が茅葺きのようで江戸の農村の雰囲気があるが瓦かもしれない。山門(竜宮門)の漆喰のコントラストが美しい。)


(上)写真: 2020年2月頃撮影、向かって左側からほぼ同じ方角から撮影した。70年代に山門の横の田んぼだったところはお墓になっていたり周りの木々も大きく育っている。道路からだと本堂が見えにくくなっていた。広福寺はお寺なのだが神仏習合のなごりをところどころ感じさせる。江戸時代のころは神道の雰囲気がもっと強かったのではないかと思う。地域に大事にされているお寺の感じがした。)
 
 八郎がなぜここを訪れたのかというと、文久元(1861)年5月20日の無礼打ち事件(虎尾の会事件)で幕府の捕手から追われたので逃亡して潜伏をするためだった。この場所を選んだのは住職の密意(41歳/水戸藩出身)が虎尾の会の発起人メンバーの西川練造(武州入間郡仙波村、45歳)と北有馬太郎(久留米藩浪人、奥富在住、35歳)と懇意でそれを頼ってのことだった。
(※虎尾の会事件は幕府が虎尾の会が横浜の夷人館の焼討ちと討幕の挙兵の計画をしていたことを清河塾の軒下で情報を盗み聞き監視していたが、いよいよ八郎をつけ狙い町で捕まえようとした際、その幕府の捕手を八郎が斬捨てたために起こった事件。)

 5月22日、伊牟田、安積、村上の4名で白子宿(和光市)から広福寺に着いた。住職は寺に出入りする人たちに気づかれない”庫裏の陰の部屋”に隠まってくれた。日を追って西川、北有馬も訪ねてきて一同は意気軒昂、酒を酌んで時勢をを断じたという。しかし、時々間者のような怪しいものが現れては八郎たちの挙動をうかがっているようだった。
 2日後、寺に来た川越のある浪人から入間川の宿(2kmほどしか離れていない場所)の綿貫という村長のところに八州取締り3人と捕手100人あまりが集まっていることを聞き、事件が発覚していて幕府の追手が一党を捕えようとしていることを悟った。寺に迷惑をかけるということもあり、24日の夕方(午後4時ごろ)雨がしとしとと降り出す中、4人で所沢へ向かい(その後新宿へと)逃げた。鉢巻をして捕手と出会ったなら切り殺そうと身構え、傘や雨具に身を隠して寺を後にした。

 この寺で合流していた北有馬は当初一緒に逃げようとしたが、真相がわからない(虎尾の会が清河塾で幕府に監視されていたことを気づいていなかった)ということでそのまま残ることにしたが結果的に西川とともに捉えられてしまった(伝馬町の牢獄)。住職の密意も牢獄に入れられた。また、神田お玉が池の清河塾にいた池田、笠井、熊三郎(弟)、お連(妻)、神崎(千葉県香取郡神崎町)にいた石坂など関係した家族、召仕含めて牢に入れられた。八郎との関係の詳細が不明の人も含めて10人以上が牢に入れられたことになる(亡くなった人もいた)。幕府が捕縛の対象をはじめから八郎のみならず虎尾の会のメンバー全員として一網打尽にしようとしていたことがこの様子から推測される。

 この頃、八郎は虎尾の会を含め多くのメンバーが捉えられたことに心を痛め動揺し絶望の中にいた。進退ここに極まった、捕吏にかかって死にたくない、自首や自害して連座させられた者の釈放を乞う・・・などといろいろ悩み自害することを決める。しかし、安積五郎が機転をきかせて嵩春斎に会うようにしたり、桶渡、神田橋ら皆んなに犬死すべきではないなど必死の説得で諭されたり励まされたりして自首自害をせずに逃亡することになった。髪を商人風に変装し永代橋(隅田川)のたもとに刀の大小と町奉行へ向け書いた連座した人たちの釈放の訴状を置き、入水したように見せかけ逃亡生活へ入っていく(31歳)。

 この頃に残した漢詩がある。
「妻や弟までももはや捕らえられたと聞いて、身の処しようもなくみずからを責めただそうとする。
 男子たる者、汚れた役人などに取り調べられたくはない。自害して・・・
 だが仲間が報国の誓いを重ねて求める。犬死にするよりは、暫し自らを愛す(大事にす)べきだ。
 古来、大望を抱いている英雄豪傑は、元来、波瀾に従い変転にも処する。
 私はこの言葉を聞いて愁(うれ)いの中から立ち上がり、恥を包み隠し恥に耐え忍ぶことを目指す。
 余力を逃亡に尽くして専念することにし、正義を守っていよいよ国に従う理(ことわり)を堅固にしよう。
 願わくは夷狄(外国列強)を懲らしめて以前の罪を償い、再び以前のような名をあげて家子(妻や弟)に報いよう。
 しばらく苦労するのは悲しいことではない、かくてこの身をばあちこちに潜ませる事にしよう。」
 
 生きのびるという言葉ではなく”恥に耐え忍ぶ”という言葉、”名をあげる”など家の名誉などの内容がこの時代の責任感、空気感を示していることが印象的だ。武士的、中世の日本的な価値観もあるように思える。
 ところでこの時の八郎の行動には死んだふりという言葉が当てはまるように思う、もう一度やり直す、再生、再起という言葉も合うかもしれない。当人はそんなことは考えていないと思うが出羽三山の山伏の修行が一度死んで生まれ変わるために山を登ることに似ている。ひどい挫折を味わった時にはこういう頭の切り替え方が必要なのかもしれない。

 また、この地域にもいた幕末の”草莽の志士”たちが強い信念を持って行動していた様子がすごい。自分に降りかかる災難や自分の命をも顧みないで当てのない八郎を支援した。普通であれば幕府の世の中で自分に火の粉が降りかからないようしたい、少しでも関わりなくない、ということになるのだろう。どのような強い思いを持っていたいたのだろうか。八郎を生かすことがこの国のためになる、世の中を変えられるなどのようなことを信じて八郎に何を托そうとしていたのだろうか、そこにはエゴのような自分だけの利益の追求など微塵も感じられない。そのような人々に助けられ、この言葉にあるようにあきらめずに命を大切にしたことがこの挫折を乗り越えることにつながった。その後、浪士組での攘夷計画に向けて、さらに多くの人々のつながりを深め日本の幕末維新を促進させた活動を発展していく。いろいろな人々に支えらて八郎にとってはまさにここは生越(おごせ)道だったのかもしれない。
 
左が竜宮門、右の本殿の名称は瑠璃殿、南国の海をイメージさせる”青”なので、ともにトロピカルな感じがする。


左:白い建物が竜宮門、中央:大きな白い石と木の奥が本堂(瑠璃殿)、東側からの全風景。

 小学生当時、この本の内容については、ストーリーで読むというよりは興味のある部分だけ読み全体的にはキチンと理解できていなかったと思う。小学生ではむずかしく詳しいところは大人になってまた読もうと置いてあるという感じだった。高校のころにやっと読み返すことになるが、パラパラとページをめくって出てきた写真の方が記憶に残っている。特にインパクトがあるこの写真の山門は、あまり見たことのないもので関東にはこういう門が多いのかと思っていたが大人になって珍しい門であることに気づいた。
 狭山市のウェブサイトをみればなるほど”竜宮造り(竜宮門)”といわれる建築様式だという。確かに桃太郎や浦島太郎などの日本昔ばなしに出てくるような門だ。これがお寺の門(山門)だと言われれば見れば見るほど不思議な気持ちになる。
 そう思いながらよく見返えせば、屋根など上半部は日本の武家風建築様式にも見えるし、下半部の緩やかな曲線と漆喰の白さはサンゴを連想させる。なぜ、関東平野の真ん中にこのような建物があるのだろう、そのコンセプトは?歴史は?・・・などと想像してみたくなった。そして、この関東の冬の澄んだ青空と乾いて冷たい空っ風のコントラストの違いはあるものの”青い(瑠璃色)”という色合い、何か南国と共通の雰囲気があるかも?と勝手に納得した。
 幕末の歴史の舞台の1つと言える場所で八郎、北有馬、西川、伊牟田、安積、村上ら虎尾の会、おそらく彼らだけでないこの近く関東の幕末の志士たちも集いくぐっただろうこの山門や本堂が現存し漆喰もきれいに維持され拝見できることはとてもありがたい。

 余談なのだが、前述の八郎の記述に出てくる村長とある”綿貫”氏は、狭山市のウェブサイトを見ると”入間川を本拠地とした商家で入間宿から江戸まで一歩も他人の土地を踏まずに行けた”、”江戸の綿貫、北の本間(現酒田市)、大阪の鴻池と唄に謡われた”という大地主だった。川越藩(入間郡)は庄内藩にとって天保の三方領地換えに出てくる不要な多額の費用を費やしたイメージもある藩なのだがいろいろと行き来もあったのかもしれない。幕末の慶応三年の融資の記録などがあったり庄内藩とも何か関係がある藩のように思えた。

 この寺は八郎が絶望の中にあった時に逃亡して希望を見出し生き延びて次の行動へと好転するために模索する場所の1つだったのかもしれない。






Last updated  2020.03.08 09:51:08
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