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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2020年11月28日
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渋沢の一橋家の家臣として役職は詰所の番人(奥口番)から始まった。平岡の家来として薩摩藩の折田要蔵の行動を調べるために折田の内弟子となり近寄り、スパイ活動(視察/慶喜の御内命)もした。その時、鹿児島弁も習得して三島通傭や川村純義など薩摩藩の多くの著名な人々と知り合った。それは将来につながるの尊王攘夷派の人脈へつながり、後の時代に活きる人のネットワークが見え隠れする。
 また、平岡が暗殺されてからは一橋家の所領(大阪、兵庫、岡山の一部)のあった備中で農兵の募集をして兵力を増強する兵制をつくったり、灘の酒造業者に米を直販(1万両を超える利益を得)したり、硝石の産業育成、綿の藩札発行による資金の運用改革、などの会計の仕事など多くの実績を積み出世もした。

 しかし関八州(取締り)の追手から身を守るためとは言え、討幕(倒幕)の志士である渋沢にとって幕府の家来としての自分の境遇が面白くなく思うのは当然で浪人になろうとしていた矢先、慶応3年(1867年)11月フランス・パリの世界大博覧会に招待された将軍の名代(民部公子/徳川照武)の随行としてヨーロッパへ派遣される。渋沢のフランス行きを推薦したのは慶喜だった、という。

 フランスから帰国したのが、1868年(明治元年)11月3日 横浜に到着したときには蝦夷地を残しすでに東北までの戊辰戦争は終わっていた。ちなみに京都に同行した喜作は蝦夷にわたり函館戦争に参加している。幕府の多くの人々が移住した静岡へ行き、静岡の商法会所頭取になったり、日本で最初の合本(株式)組織を設立することを皮切りに大蔵省出仕、実業界への転身、社会福祉、教育活動など多くの社会活動、社会貢献をしていく。明治時代、日本を近代化するために経済的に支えた立役者の1人となった。

 フランスへ行ったことは日本にいては味わうことのできない、渋沢を他の人より優るおおきなアドバンテージ(利点)を与えたことだっただろう。また日本にとっても本当に幸運なことだった。もし、フランス行きをせずに日本に残っていたなら、幕末の動乱や戊辰戦争に巻き込まれていて命すら危うかった可能性が高かったのだから。

 幕末の志士であった頃のことを渋沢は次のように後悔をする。
「・・・今日の言葉を借りて云えば、政治家として国政に参与して見たいという大望を抱いたのであったが、そもそもこれが郷里を離れて四方を流浪するという間違いをしでかした原因であった、かくて後年大蔵省に出仕するまでの十数年間というものは、余が今日の位置から見れば、ほとんど無意味に空費したようなものであったから、今この事を追憶するだになお痛恨に堪えぬ次第である。・・・実業界に身を立てようとしたのがようやく明治45年の頃(72歳)のことで・・・この時が余にとって真の立志であったと思う・・・(一生涯に歩むべき道「論語と算盤」/「渋沢栄一」鹿島茂著」)」
 無意味に空費とは少し言い過ぎのように思えるがこの後悔の内容は狭義の幕末の志士の思想を持っての行動と考えれば納得できる。この若き渋沢たちを突き動かした尊王攘夷の思想については別の機会に考えたい。



  • Koyamagawa.jpg

  • <小山川>
     生家のある集落はどこか東北に点在する農村の部落(集落)に感じられる雰囲気。東京に近いこともあるからか、過疎にはなっていない感じで昔と現代がいっしょになったようなつかしい昔の雰囲気も残した静かな感じのするよい町でした。


 渋沢と八郎、2人の学んだ儒教思想、学問(陽明学)、剣術など同じものが多く、そういう共通点もあってか2人の行動はとても似ている。2人の年の差は10才。少なくとも渋沢は八郎のことを知っていたし、決して少なくない影響を受けていただろう。次に渋沢と八郎の接点や共通点を見てみたい。

 渋沢と八郎が直接会ったことがあるかについて。渋沢は文久元(1861)年3月から5月までの2か月ほど江戸遊学をしているので2人はともに江戸にいてに玄武館で会っていた可能性はある。文久3(1863)年春、渋沢は2度目の江戸の遊学をする。4か月間実家とを何度か行ったり来たりしている(雨夜譚 余聞)ので、この時期、江戸で浪士組事件の騒動をみた可能性がある。しかし、八郎と会ったという話は見つからなかった。

▷ 渋沢と八郎の接点
間接的だが渋沢の資料に清河八郎に関係する記録として次のようなものがあった。
    (1)尾高長七郎が八郎と会ったという記録
     ・渋沢栄一伝稿本に「渋沢栄一と尾高惇忠は岡部藩の民で文武を身に着け、慷慨(こうがい/正義にはずれた事などを、激しくいきどおり嘆くこと)が強く既にかの清川氏を招いた」、とある。また、「それは長七郎が本庄で会見したこと、の誤り」と訂正もしている。
     
    <渋沢栄一伝稿本 第三章・第七五―七七頁〔大正八―一二年〕但文/ 渋沢栄一伝記資料刊行会>
     「武州本庄在血洗島農渋沢栄一郎、同親族近村に尾高新五郎と申者とも岡部侯御料民文武を心懸、慷慨甚敷既に彼清川氏留置、公辺御調に相成、深く迷惑之咄抔御座候密に申 上巳・正朔○望の誤か 両度之変事とも、乍陰たつさはり候歟と被察候。・・・。
    (但文中に清川八郎を留置きたりとあるは、文久元年七月八郎が安積五郎と共に、本庄附近に於て、尾高長七郎と会見せるを誤り伝へしものなるべし。)」 
     
     ・八郎の日記(潜中紀略)には、(でっちあげ)隠密無礼討ち事件(虎尾の会事件/文久元年7月中旬頃)での逃亡中に「高崎から武州本庄の至り、左折して手斗村(てばかむら)に行った」という記録があり、次のような内容で渋沢の資料と一致する。
    「かねて笠井伊蔵(虎尾の会)が取り立てて、八郎の家にも時々来た事のある尾高長七郎がいるはずで、彼に江戸の様子を問おう」と思った。そして、長七郎は4里ばかり離れた寄居村に行っていて留守だったため会うために寄居村に向かう途中、別の場所で剣術試合をしていた長七郎に会い、その近くの八幡町で会う約束をして八幡町に泊った。
     次の日に新町で会った長七郎から「すべて関東では兄(八郎のこと)の評判がやかましく、浪人の頭取だと言って、幕府においても殊のほか捜索が厳しく、今から出府(江戸へ入る)するのは水火に飛び入るようなものです。あと2、3年は近づいてはなりません。命あっての物種です。早々に西走なさりなさい。」という助言を得て酒を酌み交わし別れた。しかし、その後に安積五郎(虎尾の会)との相談で「同志の者に申し訳ない」という理由で虎尾の会メンバーの安否を確認するため危険を顧みずに7月18日早朝、利根川を下って江戸へ向かった。(清河八郎伝(徳田武著))

    (2)渋沢が八郎に触れて書き残さしたもの
    <渋沢栄一伝稿本 第三章・第四五―五一頁〔大正八―一二年〕/ 渋沢栄一伝記資料刊行会>渋沢伝記資料 遊学P221。"世論の指導者の最も雄なる者"の1人として八郎を挙げている。
    「・・・今や外国関係の発生より、国民の多数は覚醒して、遂に一大変動を生ぜんとす、是れ実に彼等の乗ずべき好機会なりき、此に於て百姓・町人より起りて国事に奔走せる者其人に乏しからず(百姓や町人出身で国事に奔走する者、そういう人は少なくなかった)、薩州の森山棠園、長州の白石正一郎、土州の吉村寅太郎、宇都宮の菊地教中、出羽の清川八郎、武蔵の近藤勇の如きは、其最も雄なる者なりき、而して我が青淵(渋沢)先生も亦此気運に導かれて蹶起(けっき)せる一人なりしなり。」

▷ 清河八郎との共通点
次に2人の人生での共通点を挙げてみたい。
    ・所属する藩がともに徳川譜代(岡部藩と庄内藩)であったこと。
    ・ともに実家は武士ではなく商売を生業にして裕福だったこと(2人とも経済の知識や経験を持っていたと言える)。
    ・実家の商売はともに妹の家族が継いでいること。(これは幕末の政治活動がいかに活動家の親族に犠牲を強いるものかを物語る。)
    ・儒学を学び、その思想に傾倒していたこと。特に陽明学の影響が強かったのだろう2人とも実践を重んじている。
    ・北辰一刀流を習い、お玉が池の玄武館に通っていたこと。これにより多くの同志を得ていること。
     渋沢は江戸への2か月の遊学をした(1回目)。"儒学者になろうとか、剣術家になろうという意図はなく「読書・撃剣などを修業する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を撰んでついに己の友達にして、ソウシテ何か事ある時に、その用に充るために今日から用意して置かんければならぬという考えであった。」"という。
    ・攘夷(横浜異人館の焼討ち)を計画したこと。
    ・倒幕を計画(渋沢は高崎城、清河は甲府城の乗っ取り)したこと。
    ・関東八州(取締り)に狙われて逃亡したこと。同志、仲間が小伝馬町の牢獄につながれ、亡くなったりしていること。
    ・渋沢が慶喜に提出した意見書と、八郎の急務三策と天皇に提出した建白書の内容と文章の使い方。
    ・身分に差別のない兵の編制したこと(農兵の募集、浪士組の結成)。
    ・・・など。

 この時代の志士たちには多くの試練や犠牲を強いられるものがあった。渋沢、八郎など偉人たちは逆境の時に逃亡しながらも乗り切り再起をして事を成しているとも言える。
  • Shibusawa eiichi memorial hall.jpg
  • <渋沢栄一記念館>
     地域内のとてもりっぱな記念館で渋沢栄一のアンドロイドにも会える。記念館前で渋沢が大事にしていた言葉は孔子の"忠恕"という言葉だということを教えてもらいました。これは「まごころと思いやり」、言い換えれば「自分の良心に忠実であること(忠)と、他人に対して思いやって(恕)行動すること」という意味なのだそう。その言葉は、八郎が残している「~のため」と合致していて同じような思想を持っていたということに感心した。


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最終更新日  2021年07月31日 12時08分11秒
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