2024/04/28(日)22:59
「戊辰物語」山岡鉄太郎の記述
図書館などで本を手に取って見ていると思いがけない資料を見つけることがある。
この本もそんな本のひとつだ。戊辰戦争から干支が一巡した61年後の"戊辰"の年を1つの区切りとして、東京日日新聞社会部(現毎日新聞)が戊辰戦争の様子を伝えるために企画した内容。"記述にはあまりこだわらない気持ち"で、"直接見聞きした古老を訪ねて史実巷説漫談の気安い回顧談を求めた"という趣旨で逸話が集められている。新聞には1927(昭和2)年に12月27日から翌2月4日まで連載された。
これらはいわゆる幕末史の秘話的な回顧録であり、昔話や言い伝えを聞いているかのようにして読める。
この本の中で特に目を引いたのは、若き日の山岡の似顔絵(左)。幕臣の頃のものと思われる。晩年の髭を延ばした写真のイメージが強いのでとても新鮮に見える。右に並べた本の表紙を飾る山岡の今までの写真のイメージとも違い、若々しく少し柔らかい印象だ。似顔絵の下のコメント欄には「若いころは晩年のようにこわい顔をしていなかった。腕は達者、肝っ玉は(の)大きい武士らしい武士であった。」とある。自分が感じたことも代弁してくれ、また多少失敬気味?だが豪快で実直な性格も伝えてくれる。(写真はクリックで拡大) 似顔絵 ←|→ 写真
以前に紹介した"某人傑と問答始末"の話などを清河八郎との肖像画で想像すると幕末当時の雰囲気がよりリアルに感じられるのではないだろうか。(以下、リンク参照)
「某人傑と問答始末1」、「某人傑と問答始末2」
「戊辰物語」には写真とは別に"維新前後"の"新撰組"という題で山岡鉄太郎、浪士組の頃の清河八郎、新撰組の逸話が掲載されている。この記事の出処のすべてが明かされているわけではいないが、文脈からすると多くが山岡の長女、松子さん( 刀自(とじ・中年以上の婦人を尊敬して呼ぶ語))から聞いた言い伝えのようだ。八郎の関係で興味をひかれた内容を次に上げたい。
・八郎が暗殺される当時に寝泊まりしていた山岡の家は、伝通院裏にあったこと。
・山岡の家のすぐ隣が、高橋泥舟の住居であったこと。
・京都に行ってほとんどトンボ帰りのように江戸に戻ってきた浪士組は三笠町旗本小笠原加賀守の空屋敷に駐屯したこと。
・浪士組は新たな募集者が130人加わり350人ほどになっていたこと。
・江戸に来た時に、浪士組が新徴組と名付けられたこと。(新徴組の名は、八郎が亡くなり庄内藩に所属したことからつけられたと考えられているので従来の考え方を訂正する必要があるかもしれない。)
・石坂は色の白いでっぷりとした一見のものやさしい武士で分別もあり腕も達者だったこと。
・八郎の暗殺はかなり用意周到に行われていて、次のような段取り、やり取りだったということ。
<見回り組頭だった剣客(講武館師範役)の佐々木只郎と速見又四郎が前から通りかかり「これは清河先生」といって、自分の被っていた陣笠をとり、幾度も幾度も腰を曲げ丁寧に挨拶をした。そのため、二人を確認した八郎が何気なく挨拶を返して、陣笠をとるしぐさをした。その動作の間隙をねらって、突然後ろから武士が4人、一斉に刀を抜いてばたばたと迫りきて八郎の頭を斬った、という。後ろから斬ったのは、窪田千太郎、中山周助、高久安次郎、外一名。この4名は板倉周防の守により、浪士組が京都から江戸へ帰る道中に八郎を暗殺するつもりで、新徳寺を出るときに新たに浪士組に加わるように命じられた者たちだった。>
・暗殺当日、八郎の行動の情報は誰からか漏らされていて、風邪で体調もすぐれず深く酔っていたところをつけ狙いまちぶせされていたこと。
・暗殺された場所はちょうど一の橋を赤羽橋の方へ渡ったすぐのところ、柳沢邸の前。
断片的ではあるが他の資料にはない詳細な内容が含まれている。浪士組が募集され集合したところは伝通院(文京区、最寄り駅は東京ドームと同じJR飯田橋駅)なので山岡の自宅が近くあったから集合場所に選ばれただろうか。山岡他幕府関係者のサポートが見え隠れするようにも思う。攘夷実行と攘夷阻止について、八郎と幕府との緊迫したやり取り、駆け引きが直に伝わって感じとることができる資料だった。