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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2021年07月24日
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テーマ:本日のTV番組(41)
徳川慶喜への次のような報告で少しだけ庄内藩の話が出てくる。

家臣:「ご注進、ご注進!」
慶喜:「どうした」
家臣:「三田の庄内屯所が銃撃を受けたとのこと。江戸では奸族薩摩を討つべし、との御老中の命を受け庄内を先鋒とする諸兵が薩摩屋敷を砲撃。直ちに戦と相成りましてございます」
渋沢(喜作):「薩摩屋敷を焼き払っただと?」
家臣:「ハッ」
慶喜:「戦端を切ったのか。何があっても耐えろと申したのに・・・耐えて待ちさえすれば時がくると・・・。」

 戊辰戦争のきっかけになったといわれる庄内藩の薩摩藩邸焼討ち事件だが、西郷隆盛らが関係し江戸を恐怖で震撼させたと言われる薩摩御用盗(江戸城二の丸放火含む(薩摩藩が天璋院を奪おうとして火を放ったという風説が流れた))が絡むからなのか、ドラマなどで取り上げられることが少ない。しかし、2018年の「西郷どん」での錦絵での紹介に続き、少しだけだが取りあげられた。戊辰戦争の歴史的な事柄の流れとして省いてはいけない事件だと思う。

 この事件は事件というには規模的には大きく市街戦での戦争と呼べるものだった。多くの人がなくなり、焼失した広大な三田の薩摩藩屋敷は後に周辺の人々に「薩摩原(さつまっぱら)」といわれるほどの広さだった。田町、高輪、品川辺りまで焼けたというから、その規模が想像できると思う。

 きっかけは江戸市中の警護にあたっていた三田同朋町の荘内藩屯所に数十人が銃を仕掛けたことだった。庄内藩兵は応戦して撃退したが暴徒たちはみな三田の薩摩藩邸と佐土原藩邸に逃げ込んだ。庄内藩主酒井忠篤は薩摩藩邸の討伐を願い出たが、老中稲葉正邦は断を下すことができない。そこで天璋院(篤姫)にうかがいたて許しを得た。翌日の夜半、庄内藩兵を先鋒に幕府騎兵隊、歩兵隊、上山、前橋などの諸藩兵が加勢して、薩摩藩邸を包囲した。
 そして、夜が明けた早朝、幕府の使者と庄内藩士10名ばかりが、薩摩藩邸に入り前日同朋町の屯所を襲った暴徒を引き渡すように要求したが、「薩摩藩士はそのようなものはいない」、という。再三の要求のやり取りの後、暴徒を引き渡す意思が薩摩藩側にみられないので、「それでは兵力を以て暴徒を受けるべし」という結論となり、使番と庄内藩士が表門から出て号令するのをきっかけにして、表門、通用門から一斉に庄内藩兵と幕府歩兵が乱入し、大砲を抱えて砲撃を開始した。同時に隣接する徳島藩邸に布陣した上山藩士が土塀を砲撃で崩し、突入した。

 庄内藩は事前に(映画)ラストサムライのモデルのブリュネ砲兵大尉(フランス軍)によりヨーロッパ式の近代兵器での戦い方のレクチャーを受けていた。4斤山砲(4kg弾/前装ライフル式の青銅製山砲)などを使い薩摩藩邸を砲撃した。ヨーロッパに渡航した渋沢のような人たちだけでなく国内の人たちも少なからずヨーロッパの学問や技術に接していた。ちなみに上野戦争や会津戦争有名な薩長軍のイギリス製アームストロング砲は鉄製で6ポンド(2.72kg)弾と推測されていてその威力は当時の最先端レベルだったが、実際には4斤山砲の方が実践向きだったという説もある。この事件は、八郎の関係した虎尾の会や新徴組、西郷を含めてその他のいろいろな人間関係が絡む事件だった。

 この薩摩藩邸焼討ち事件については、以前に書いたので参照↓。
戊辰戦争の発端、江戸での市中騒擾作戦と薩摩藩邸焼打事件

 少し、慶喜がかっこよすぎの感じがあったり、成一郎(喜作)が奥右筆の要職にあるとは言え慶喜に少し近すぎたりはするが歴史の事柄の時系列が整理され因果関係も含めてより自然な流れになっている、ドラマとしても面白い。今後、さらに内容を掘り下げてもらえると嬉しい、と思ったりした。





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最終更新日  2023年05月16日 21時03分38秒
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