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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2021年10月10日
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テーマ:本日のTV番組(41)
大河ドラマ「青天を衝け(29話)」も幕末が終わりこれからは経済の話でどう進むのかと思いながら見ていたところ佐藤政養(まさよし)の名前を目にした。渋沢が立ち上げた民部省内の改正掛(かいせいがかり)会議で円になって議論をしている人たちの中、旧幕臣とはなってはいるが佐藤政養が庄内藩出身の人で今回はセリフもついていてうれしい。

「この国に急ぎ入り用なものとは?」(渋沢)
・・・
「諸藩の測量は民部省でできるのだろうか。」(杉浦)
「藩に測らせればできるはずです。」(赤松)
「藩によって呉服尺も金尺も秤もバラバラじゃ。升の大きさも違う気き。」(長岡)
「そうじゃ、度量衡を調べねば。」(佐藤政養)

 幕臣の中に入り垢抜けて見えるが庄内のことばなまりに近く表現されているかもしれない。
 ドラマの円陣で座っていた15人の人々はそれぞれが近代の礎を築いた人々で、幕臣として出ていた渋沢以外の4人は、前島密(郵便の父/長岡藩)、杉浦譲(駅逓権正/静岡藩)、赤松則良(造船の父/静岡藩)、佐藤政養(鉄道の父/庄内藩)。
官軍側の10名は、大熊重信(総理/佐賀藩)、伊藤博文(総理/長州藩)、長岡謙吉(三河県知事/土佐藩)、岡本健三郎(大蔵大丞/土佐藩)、玉乃世履(明治の大岡/岩国藩)など後に様々な分野で功績を残した人々が集まっていた。

 政養は、日本初として有名な鉄道「新橋横浜間」敷設の鉄道助(てつどうのすけ/最高責任者)を任され「日本鉄道開祖」としての鉄道の父と呼ばれる。また、勝海舟の海軍塾の塾頭にもなり、その頃、勝に神奈川より横浜が港として最適であると献言したことで「横浜開港の父」とも言われる。関西の砲台建設、鉄道敷設にも関わり近代日本の産業の礎を作った。
<左写真:遊佐町のパンフレットから>

 <政養(与之助)の経歴と人物関係>を見ていく。
 1821(文政4)年、現在の山形県遊佐町升川の農家佐藤与兵衛の子に生まれた。
 名は与之助。農家といっても村の代表にもなっているので大きな農家だったのだろう。庄内の佐藤さんは義経の家来だった佐藤兄弟(旧陸奥国信夫郡/現福島市飯坂)を先祖としているところが多い。升川の佐藤家もそのようだ。奥州藤原氏との関係とも言えるかもしれない。ちなみに八郎の祖母は宮曽根村(庄内町余目)の佐藤家で佐藤継信を先祖としているのでかなり遠いが親戚関係といえるかもしれない。

 1840(天保11)年、庄内藩天保義民事件(天保国替騒動)(←リンクを参照)で、庄内領民(村代表)として江戸で直訴を行った。

 この事件は大塩平八郎の乱などとともに徳川幕府の終焉の始まりと言われる事件の1つで、同郷升川村出身で江戸で公事師をしていた"佐藤藤佐(とうすけ)”という人物が活躍する。ちなみに藤佐の子は゛佐藤泰然"といい、佐倉順天堂(現在の順天堂医院)の創始者となった人になる。泰然が江戸から少し離れ蘭学、医学に力を入れていた佐倉藩(現千葉県佐倉市)に請われて佐倉に病院を建てたのもこの天保義民事件が影響している、とも考えらる。

 藤沢周平の「義民が駆ける」↓はこの事件を描いた小説で与之助の父の与兵衛が登場するので紹介したい。
←講談社文庫←中公文庫、ともに「義民が駆ける」/藤沢周平

 与兵衛は八日町村の四郎吉といっしょに藤佐の江戸屋敷を訪ね駕籠訴(直訴)の相手に適した人物の相談に行き、会って内容を聞いた藤佐に"逆さはっつけだぞ(逆さはり付けになるぞ)"と叱られ諭されたように描かれている。藤佐に断られた与兵衛(与平)は与太郎、与助と3人で別の人から助言を得て中山備前の守に庄内農民の中で一番、最初の駕籠訴をした。
  • 夢の浮橋 佐藤藤佐の家で.jpg
 「義民が駆ける」の元資料になったと思われる絵巻物の「夢の浮橋」にも藤佐、与兵衛、四郎吉の3人の会談の様子と駕籠訴の様子などが描かれている。3人の百姓は藤佐に駕籠訴の相談を断られたとされているが、別の資料では藤佐が駕籠訴を渡す相手先の指示をした、とされるので藤沢周平の小説は夢の浮橋をベースにされているように考えられる。そう考えると「夢の浮橋」は幕府に事実が漏れるのを警戒して藤佐の行動が伏せられて作られたとも読み取れる。実際には藤佐は危険をおかして一揆に協力し、中心的な役割となって活躍した。遊佐升川の人たちが駕籠訴一番になったのも藤佐が信頼できる同じ村の人を選んだから、と考えられるのかもしれない。江戸の屋敷では親しく村の近況や懐かしい話で会話がはずんだことだろう。
(↑藤佐の江戸屋敷の様子、絵の中心人物が与之助の父の与兵衛(与平と記載)、右が藤佐、クリック拡大)

  • 夢の浮橋 駕籠訴.jpg
 話を与之助(政養)に戻そう、この時与之助(政養)は20歳だった。江戸に行ったとすれば江戸に父に付き添いで行き駕籠訴を見届ける役だったのかもしれないし、実際に駕籠訴をした可能性もある。絵には数か所で駕籠訴をする場面があるが与之助(政養)が描かれているかは不明。
(←駕籠訴の様子、クリック拡大)

 ◇ 佐藤政養(与之助)の経歴 ◇
 1821(文政4)年、山形県遊佐町升川の農家佐藤与兵衛の子に生まれた。
 1840(天保11)年、庄内藩の天保国替騒動(三方領地替え)が起きる。
 1841(天保12)年、駕籠訴(直訴)のために江戸に行く(20歳)。
 1853(嘉永6)年8月、学んでいた酒田の医師で儒学者の伊藤鳳山の勧めで江戸に出る。荻野流砲術家の広木貫介に学ぶ。(32歳)。
 1854(嘉永6)年、真島雄之助(遊佐町)とともに本間郡兵衛を訪ねた後、3人で清河八郎の家を訪ねる。
 1855(嘉永7)年、ペリー来航(2回目)、横浜上陸。日米和親条約締結。
 1855(安政2)年、勝海舟の蘭学塾氷解堂に入る(後に塾頭となる)。
 1855(安政2)年、庄内藩砲術方を命じらる。品川5番台警備(庄内藩士として)をする。
 1857(安政4)年9月、長崎海軍伝習生として勝海舟に従い長崎に行く。アメリカ人フルベッキにも測量、軍艦操縦を学んだ。(この時、本間郡兵衛と長崎で会う機会があったことだろう。)
 1859(安政6)年、(1月)江戸に戻り、庄内藩御組外徒士格(軍艦操練所蘭書翻訳方/幕府)。(6月)横浜開港。
 1863(文久3)年、大阪海軍操練所教授。
 1866(慶応2)年、大坂台場詰鉄砲奉行。
 1868(明治元)年、(11月)民部省出仕。
 1869(明治2)年、(3月)東京より神奈川までの線路測量の令達。民部省鉄道掛。
            (8月)工部省新設。(12月)工部省出仕。
 1870(明治3)年8月 鉄道寮(旧鉄道掛/鉄道専任部署)設置。(初代)鉄道助(実質の最高責任者)。「新橋横浜間」の鉄道敷設に尽力。新橋-横浜間一部試運転。
            (※井上勝は71年7月から鉱山頭(かみ)兼鉄道頭) 
 1872(明治5)年6月 「品川-横浜間」仮開業。                  
 1872(明治5)年10月「新橋-横浜間」日本初の鉄道開通。 開業式で天皇車に同乗、軍扇を賜る。(荘内日報社)その後、西京在勤鉄道助(大阪に移動、敦賀西京間鉄道敷設に従事)。
 1877(明治10)年、8月、57歳病死(結核)勝海舟邸で亡くなり青山墓地に埋葬。
(参考:荘内日報社他)

 農民として生まれ百姓一揆にも参加、封建時代の中では決して恵まれた環境でなかったが、庄内藩でも認められ経験を積み、その後 幕末の出来事に翻弄されながらも誠実に自分を磨いた。その時々のチャンスを得て実力を発揮、技術者のトップになった政養は経歴から見て地道に歩む技術屋の鏡のような人だ。自分の得意分野を持っていたということと、幕臣として活躍したことでは渋沢栄一に似ている面がある。砲術などに長けていたのに同じように戦争に巻き込まれなかったのも幸いしたのではないだろうか。
 政養は八郎より9歳も先輩だが1854年(安政元)江戸で本間郡兵衛を通じて直接八郎と会った記録があるようだ。一揆に参加し経験の豊富な先輩には学ぶことは多かっただろう。現代風に言えば八郎が文系なのに対して、政養は理系。惜しみなくいろいろな人たちを訪ね歩いた八郎は郡兵衛や政養からも外国の情勢などの情報を得ていたのかもしれない。明治の初め、戊辰戦争などで多くの人がなくなり、政養の豊富な知識と経験は新政府にとって国の発展のためになくてはならないとても貴重なものだったにちがいない。戊辰戦争後の派閥抗争によりその功績の評価が遅れた人のようでもある。





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最終更新日  2023年12月19日 22時10分03秒
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