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出羽の国、エミシの国 ブログ

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源義経

2005.12.11
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テーマ:『義経』(331)
カテゴリ:源義経
 歴史に もしは、ないといわれるがあえて、
秀衡の遺言どおりに、藤原3兄弟で 義経を大将にして戦っていたら、
泰衡ではなく、国衡を4代目にしていたなら、
国見ではなく、白河の関で鎌倉軍を迎え撃っていたなら・・・など。

 昔から多く語られてきたことだが無念さが残る。

 ところで 安宅の関の話の後、義経主従は無事に平泉に到着したが、
途中の行動が、ドラマでは演じられていないので少し。

 北陸路から念珠ヶ関を越えて 当時平泉の所領であった山形県(庄内)に入り、
清河(庄内町)にある五所の王子社に参拝し、最上川(最上峡)をさかのぼっている。

 現在の国道47号線を新庄へ向かう道である。
その数百年後、”奥の細道”で有名な芭蕉も同じ道を通るのだが、
義経のルートとはちょうど逆方向(新庄から庄内)に通る。

 途中の羽黒山には、頼朝が寄進したといわれる黄金堂(こがねどう・国の重要文化財)がある。
頼朝が平泉を討つにあたり、勝利祈願(1193)し、その御礼に寄進したとも伝えられる。

 黄金堂という社名は、平泉の金色堂を思い起こさせる。
他にもたくさんある出羽三山の神社、寺院のなかで、
なぜ、頼朝は黄金堂を寄進したのだろう?
それも場所が羽黒山の随神門や山頂からかなり離れている
羽黒山の宿場町、手向(とうげ)の入り口近くに。
社名からして頼朝も平泉の金色堂を意識したのかもしれない。
Koganedo
 ドラマでは、頼朝が念仏堂にこもっているのに、政子と時政がはしゃいでいて
ふと藤原氏や義経が敗北したのは頼朝ではなく 北条氏なのかな?と思ったりした。
 藤原氏や義経の無念さでは終わらせないで
きれいな形でよい印象に残すように配慮されていたと思う。


(※ 写真は黄金伝説などがある黄金堂。雪囲い中の05年秋に撮影。
色は金色ではなく何も塗られていない無垢のお堂。
正善院という寺でもあり、建立は、
古く聖武天皇の時代、728年(神亀5)とも伝えられる。)






Last updated  2005.12.12 00:15:05


2005.11.29
テーマ:『義経』(331)
カテゴリ:源義経
「安宅の関」の話は、とても感動的だった。

 弁慶の白紙の勧進帳の読み上げ方、富樫の関守との羽黒山の
山伏修行(春・夏・秋・冬の峰)についての問答など、
迫力があってたいへん見ごたえがあるものだった。

 その山伏のことについて少し、書きたい。

 先週から義経主従は山伏に変装している。しかし、義経主従の中に
山伏の修行のことを知っていて、実際の山伏の経験のあるものは弁慶しかいない。
弁慶がいたからこそ 義経主従は山伏になりきってこの難局をのりきれたといえる。
さすがは弁慶という外はない。

 弁慶は、比叡山の僧侶であったが、武蔵”坊”という名前から山伏ともいえる。
宗教的にくわしいことはわからないのだが、むかしから、僧侶と山伏との区別は
あまりないようだ(密教系だけ?)。今でも寺の住職が山伏の姿で
祈祷をする姿はあちこちでみかけるので、特別、変なことではない。

 さて 義経主従のふんする山伏だが、羽黒山の山伏か?熊野の山伏か?
個人的に気になった。 

 ドラマで、弁慶は 山伏にふんしながらも自分自身を比叡山の僧侶と名のっている。
「義経記」には、
”(もし、義経主従が途中で山伏でないという疑いをかけられたら、)
越後の直江津までは、羽黒の山伏が熊野に下向してきたこととしよう。
直江津から先は 熊野の山伏が羽黒に修行に参るところであると言おう。”
というやりとりがあるので、両方の山伏にふんしたと思う。

 予断だが、ドラマでは義経が弁慶にうたれるシーンは、安宅であったが、
”義経記”では直江津でのことになっている。

 出羽の国では、今の時期 羽黒山の山伏の人たちが 家内安全、無病息災を願って
各集落を、歩いてまわる(まつの勧進)。法螺貝を吹き、訪れた家々では賽銭をおさめてお札(おふだ)をもらう。
 法螺貝は家の玄関口で吹かれるので家中に響きわたる。年末のこの時期の風物詩でもある。
出羽の国では山伏さんはとても身近な存在なのだ。

 今年のはじめに 山伏のドキュメンタリー映画をみたときに書いたが、
山伏の修行は他言厳禁の規律であり、その内容も厳しいといわれる。
山伏やその修行は、羽黒山にしか残っていない大変、貴重な文化である、
と同時に義経の時代のものと変わらないものが現在も残っていて
見ることができるというのはとても幸せなことだとも思う。






Last updated  2005.11.29 23:44:20
2005.09.23
テーマ:『義経』(331)
カテゴリ:源義経
義経は、三種の神器の、鏡と勾玉をとうとう手にいれた。
やっと手に入れた鏡と勾玉だが、それを簡単に後白河法皇に献上してしまった。

頼朝と北条氏はその報告を聞いておどろく。
頼朝が、三種の神器を手に入れらたどうしていたであろうか?
清盛みたいに自分が天皇の後ろ楯になっていたであろうか、
のちの足利尊氏みたいに新たな天皇をたてただろうか、
はたまた、平将門のように自ら新皇と名のっていただろうか。

この三種の神器、とても有名なのだけども、歴史的な信憑性にかけその意味付けは とてもむずかしいようだ。

”三種の神器”とは、
八咫鏡(やたのかがみ)、
草薙剣くさなぎのつるぎ)/ 別名・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことを言う。

天皇の皇位継承の象徴であり、天皇の主権の存するところを象徴する天皇家伝世の神器として代々の天皇が伝承・伝授して絶えることなく今日におよんでいる聖なる器、とされている。

ドラマ「義経」(平家物語)では、鏡と玉は無事だったが、剣が壇ノ浦に沈み発見することができなかった。剣は今も壇の浦の底、に眠っているということになる。

一方、神話では天照大神より三種の神器が皇孫代々に伝えられたが、崇神天皇のときに天照大神親授の鏡、剣を模造し、真の”鏡”は伊勢神宮に”剣”は熱田神宮におかれ、”勾玉”は代々、天皇に引継がれてきているともいわれる。そうだとすれば、平家物語との整合性がつかない。

仮に 三種の神器が実在したとしても公開するものでもないので、出所(作られたところ)やその経緯ははっきりわかっていなく、なぞだらけ、といったほうがよさそうである。

ただ、この鏡・玉・剣を ”三種の神器”とよぶということはある程度の長い間、語り継がれてきたことのようだ。それらを天皇の権威の象徴としたり、日本民族の祖先となるものとしたり、主な3つの民族(縄文系・弥生系とか)の象徴をそれぞれの神器とし、さらにそれらをもつことで統合の象徴である、と考えたり、はたまた、鏡を太陽神、勾玉を月神のシンボルと考えるとしたり、様々な意味付けがあるようだ。

そんな多くの人々の三種の神器に対する崇拝とか思い入れとかが、歴史として語り継がれてきたのだろう。それが実存するのかどうかはわからないのだが実存するとしたらどういうものかだったのか、大変興味をひかれる。






Last updated  2020.11.05 22:57:11
2005.07.24
テーマ:『義経』(331)
カテゴリ:源義経
院の御所での後白河法皇と丹後局との会話に、
「頼朝が鎌倉に都を造ろうと画策している、武士の分際で恐れ多いことを思いつくものである・・・」というやりとりがあった。そこで、頼朝は法皇に”東夷(あずまえびす)”と蔑称で呼ばれている。

 ”夷(えびす)”は、恵比寿(えびす)毛人(えみし)蝦夷(えみし)と同じ意味で、古代から東方にすみ まつろわざる人(朝廷に従わなかった人びと)のことをいった。
”えみし・えぞ”というと、東北やアイヌの人をイメージしがちだが、時代・地域によってその呼び名は異なる。古代の朝廷政治の復活をめざす後白河法皇にとってみれば、”頼朝”も”えみし”ということなのだろう。

 遣唐使の時代(659年)、ある遣唐使が蝦夷の男女2人を同道し唐の高宗と謁見したことがある。その時、唐の高宗に「蝦夷は何種類あるか」を尋ねられ、
「類(種類)に3種あって、遠き者を都加留(つかる)、次の者を麁蝦夷(あらえびす・荒々しい蝦夷)、近き者を熟蝦夷(にきえびす・従順な蝦夷)という。これは熟蝦夷である。」と答えたという。
 都加留は津軽だろうか?東方の蝦夷の種類を限定することは今ではむずかしい。

 ところで、出羽に郡が建てられた頃(714年)、尾張、上野、越前、越後から農民が移住したという記録もあるように 古くから出羽、陸奥には少なからずの東国人が移住していた。
また、武装植民(柵戸)や”夷をもって夷を制す”の政策(元慶の乱など)で駆りだされた兵士には東国(坂東諸国)人も多かった。陸奥と東国は関わりが深かく、朝廷からみればともに”夷”とみられていたことがくみとれると思う。

 義経の時代は、平安貴族社会の終焉の時代。今回の放送での法皇のやりとりは、朝廷の東国に対する見方が古代からの流れもくんでうまくあらわされている。

 東国には平将門の乱があり、陸奥には前九年、後三年の役(戦争)という大きな内乱があった。”頼朝”の決起を後押ししたものには、西の朝廷に振り回されてきた歴史を変えて、東国(武士)が自立(独立)するという意味合い(悲願)もあったのだと思う。






Last updated  2017.12.30 11:49:13
2005.05.28
カテゴリ:源義経
 今年の初詣で、茨城の息栖神社に行ったが、近くで平泉という地名を見つけた。
偶然、奥州の平泉と同じだ地名だなあと思いながら、めずらしい地名なので、写真を撮った。
 出羽の国のテーマと、直接、関係ないので、そろそろ消去しようかとも思ったが、”義経”の話が盛り上がっているので、ご紹介したい。
 奥州の平泉の人たちが関東に移り住んだ(落ちのびた)場所だったら・・・などと、想像をかきたたせてくれる地名でもあるが、その由来は、よくわからない。
 落人の里は、関東では栃木県栗山村などが有名であるが、奥深い山の中の場合が多い。ここは北浦東岸(昔は利根川はここを通ってなかったが)で息栖神社の近くなので、人里はなれた感じはしない。
 やはり、ただの偶然か・・・とも思いながらも、日記に追加。






Last updated  2005.05.28 22:52:27
2005.04.24
テーマ:『義経』(331)
カテゴリ:源義経
 頼朝は、鶴岡八幡宮造営に功績のあった大工に、褒美の馬を贈るための馬引きの役に義経を指名する。頼朝は、まだ義経を心から弟とは認めてはいなく、味方としての信用さえしていない様子である。
 この舞台となった鶴岡八幡宮のある鎌倉に行ったことがある。もう7.8年前になるだろうか。鎌倉の大仏、建長寺、頼朝の墓などをまわった。修学旅行の定番なのかも知れないが、正直、それまで行ったことがなかった。
 私は、親”蝦夷”派なので、”よくも藤原氏を滅ぼしてくれたな~”などと少し、今のアジアの反日感情に似た(?)ような気持ちで訪れた。
 そして、鶴岡八幡宮の入り口近くだったと思う。看板があって、確か、鎌倉の寺々の多くは、奥州攻めの後に平泉に感かし作られ、永福寺などは、奥州の合戦の戦没者の慰霊のために、平泉の寺院をまねて作られたという内容が書いてあった。
 なんとも、複雑な思いがしたことを覚えている。やっぱり戦争はよくないね。






Last updated  2005.04.24 23:53:57
2005.04.11
テーマ:『義経』(331)
カテゴリ:源義経
新郎十郎義盛の名は、世界遺産登録で有名な熊野古道の中の熊野の新宮に住んだことに由来するという。彼は、源行家と名前を変えて、木曾義仲、源頼朝、源義経らに平氏打倒、源氏の決起を呼びかけた。東国への旅の道中での身なりは、源の姓に改めたにもかかわらず、熊野の山伏の服装だ。後に、義経が頼朝に追われた時に、羽黒山の山伏の服装で 奥州に逃げのびたように、山伏は 関所や国境を自由に越えられる特権を得ていたようだ。
 実際、山伏は武力も持っていた。山伏が、山武士と書かれたりしたのも、うなづける。義経の時代は、まだ 武士の社会が確立されていない時代だが、武士は古くから”もののふ”と呼ばれてきた。今回、北条家の人たちが、その”もののふ”という言葉を連呼するのが、とても印象的だった。
 ちなみに、山伏修験の三大拠点は、羽黒山(出羽三山)、熊野三山、英彦山。
熊野といい、羽黒といい、山伏と源氏との繋がりが深いことが読み取れるように思う。






Last updated  2018.02.25 19:56:18
2005.03.19
テーマ:『義経』(331)
カテゴリ:源義経
義経は、平泉に到着、秀衡の伽羅の御所の宴の席で、秀衡の子、泰衡、国衡、忠衡と家臣団の紹介を受ける。
 家臣団には、河田次郎、照井高道、佐藤元治、田川太郎、金剛別当秀綱らが登場するが、このうちの田川太郎の一族は、出羽の国、現在の庄内地方東田川郡・西田川郡を所領していた。
 また、秀衡の妹は 徳子、徳前とよばれ、岩城次郎太の未亡人とだったので、徳子尼(トクコアマ)、徳尼公、徳尼さまともよばれた。平泉が鎌倉に敗れた後、彼女の一族でもある、田川太郎をたよろうと大勢の従者とともに一時、立谷沢地区に隠れ住んだ。そこは、妹沢(イモトサワ)と呼ばれ 現在では集落はなく、徳子尼の遺跡や伝説のみが残る。
 徳子尼は、さらにその後、酒田へと移り住んだ。泉流寺のある場所といわれている。そのときの従士、子孫らは、36人衆と呼ばれ、徳子尼を祀り、酒田の街つくりをした。

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Last updated  2020.12.28 18:13:51
2005.02.03
カテゴリ:源義経
陰明師・鬼一法眼(美輪明宏氏)の呪文(じゅもん)

 牛若の武道の師匠とも言うべき、鬼一法眼(きいちほうげん)は、その いでたちからして、山伏である。遮那王との別れの際に唱えていたのは、「ざんげ・ざんげ・ろっこんしょうじょう(懺悔、懺悔、六根清浄)」と聞き取れた。ある漢和辞典によると、懺悔も六根清浄も仏教語で、”懺悔”は過去の過ちを悔い改めること、”六根清浄”は、六根(目・鼻・耳・舌・身・意)の迷いを捨てて汚れの無い身となることらしい。修行者が 山に登るときに唱える文句でもあるという。神仏習合の宗教徒との山伏つながり、天狗との修行の伝説など、やはり、義経は、山の民や山伏などとのつながりが深い設定とされている。






Last updated  2005.04.13 23:40:05

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