194726 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

出羽の国、エミシの国 ブログ

PR

X

全12件 (12件中 1-10件目)

1 2 >

その他の国<外国>の歴史

2021.07.05
XML
テーマ:本日のTV番組(34)
秦の始皇帝(BC259ーBC210)の作った秦の都、咸陽(離宮の林光宮)から起点に北にまっすぐに作られた軍用道路。この道は全国にめぐらされた街道とは別に「匈奴」への対策として作られ、秦長城と呼ばれる万里の長城まで、幅30mで長さ700kmにも達するもので「直道」と呼ばれたという。
 番組ではこの直道をいろいろな角度で紹介する。
 始皇帝が匈奴を恐れた理由にはその強さだけではなく、ある日、方術師に「秦を滅ぼすものがいるとすればいったい何者だろう」と尋ねたところ、「秦を滅ぼすのは「胡」なり」と答えた予言にもあるという。
 始皇帝の死の後、皇帝を継いだ子の胡亥が家臣に操られ各地の反乱を抑えられずに秦を滅亡させたことから、後の人々は、予言にいわれたの胡とは北方の遊牧民の胡ではなくこの胡亥のことを意味していたのだと噂しあった、という物語の落ちにも似たような逸話を紹介して終わる。

 予言の胡が遊牧民のことではないと分かっていたならこの軍用道路はできなかったのだろうかとか、方術師は実はもっと詳しく予言していたのではなかっただろうかとか、巨大な権力者相手に方術師も命がけで具体的には言えなかっただろうかとか、とか考えてしまうような余韻のようなものがある内容だった。

 今回、番組の内容で個人的に注目したのは「胡」のことだ。
 以前から「胡」には注目してきたが今回不思議に思ったことは、始皇帝の時代に「胡」は「匈奴」とされていることだ。匈奴は歴史の教科書に出てくる紀元前4C、5C頃から活躍した北方の強大な騎馬民族のことである。中央アジアを東西に広げて支配して、西ではローマを弱体化させたゲルマン人の大移動を引き起こしたフン族でもあるという説もある。シルクロードを通してユーラシアの東西を融合させた古代の国家の1つと言って間違いはないだろう。
 「胡」の由来の文字は多く日本でも身近で、胡瓜(きゅうり)、胡椒(こしょう)、胡桃(くるみ)、胡弓などがあったり、その人たちは日本にも来ていて多胡などの地名があったりもする。日本にも物的にも人的にも歴史的にも影響を与えた国であることも間違いない。匈奴が最盛期に活躍した場所の南側は現在の中国新疆ウィグル自治区にもなるようだ。中国は広く周辺を囲む少数民族も多い。
 「胡」は匈奴(BC5C~2C頃)を指すのか、イラン系ともトルコ系とも言われるソグド人(不明 BC2C~8C)を意味するのか、北方系遊牧民を意味するのか、アレキサンダー大王(BC356ーBC323)に代表される西域からのコーカソイドの部族を意味するのか、時代的によって意味合いが変わるのか、まだまだ不明なことが多いようだ。

 秦の始皇帝の血筋は北方、西域の民族出身だったという説がある。父の名は「異人」。子の胡亥の名前に胡がついているのも匈奴、異民族との関係が疑われる。古代中国、戦国時代の秦の領域は西隣を羌(きょう/現在の新疆ウィグル自治区あたり、チャン族)に接し、北は匈奴と接した。時代的にもギリシャ人(マケドニアなど)の影響があっても不思議ではない。中国を統一するほどの優秀な自分と同じ民族が隣り合っているととらえそれを意識すればするほど、また認めているからこそその表裏でその民族への恐怖が強くなるという心理が生まれるのも当然かもしれない。
 逸話などを取り混ぜてとても工夫された面白いテレビ番組だった。


↑西瓜もシルクロードから伝わった野菜と言われる。






Last updated  2021.07.27 14:27:16


2007.06.07
6月2日(土)、青森県深浦(ふかうら)港に北朝鮮の脱北者家族が
漂流に近い状態で到着した・・・というニュースがあった。
そのニュースを見て、今から約1300年前の”出羽の国の渤海使節の漂着の出来事”を思い出した。

 1300年前、日本は 奈良時代。一方、大陸側の中国東北部、沿海州、朝鮮半島北部には渤海国という高句麗人や靺鞨人の国(ツングース系)があり、その領域は今の中国、北朝鮮、ロシアにまたがる、とされる。

 渤海国は 大和に何度か使節を送っていた。
その第1回目が、出羽の夷地(秋田県北部から青森県にかけての日本海沿岸)に漂着(727年秋)し、そこが 今日の深浦町あたりなのだ。
 出発地(渤海側)は不明だが、豆満江河口の北側、ポシエト湾と推測されている。今回の出発地の清津(チョンジン)に ほど近い場所。
(ちなみにその時に漂着した24人(すべて軍人)の内、16人が蝦夷に殺され、8人が大和へ逃げ延びた、という。)

 季節が春と秋の違いがあるものの、航海ルートは 今回の脱北者家族とほぼ同じのようだ。
ニュースの詳細から、1300年前と今回の航海の共通点として、以下のことを推測してみた。

・ 朝鮮半島北部から船ででれば(潮の流れによって)、おおよそ、出羽の国の北沿岸部にたどり着く。
・ 潮の流れがあり、それほど大掛かりな動力がいらない。(帆でも良い。)
・ 天気などの条件によっては、意外に小さな船でも渡れる(丸木船でもOK?)。
・ 朝鮮半島北部から出羽の国まで、船で7日ほどかかる。(今回の出来事は5/27~6/2)
・ (それでも時には危険を伴う、命がけの航海ではあった。)


日本海側の海辺には、韓国や中国からの漂流物が多いということを以前に書いた。それは海の潮の流れからだと思ったからだ。

古代には、この出羽―渤海の航海ルートは、南の遣唐使船の航海に失敗した遣唐使が渤海経由で帰ってきた記録があるなど、航海の成功率の高いルートと考えられていたそうだ。

”いにしえの渤海使節も今回の脱北者とほぼ同じルートでやってきた”
それが今回 証明されたといえないだろうか。

 今回の船は、”全長7.3m、幅1.8mという古い木造の船”で船室の囲いもない丸木舟に近い。小さい釣り船ほどの大きさだ。清津(チョンジン)からの 深浦港の距離は直線で850km。日本海を渡ることができたという意味合いだけではないような気がする。

 古代の渤海国使節の“出羽の国の記録”は、ほぼ間違いがないと思う。事実は想像を超えそうな気がする。






Last updated  2020.08.01 16:43:33
2007.03.06
古代発掘ミステリー
秘境アマゾン巨大文明 をみた。
アマゾンのホモス文明の特集第2弾。TBS

 TBS独占の未知の古代文明の発掘番組でその発掘は臨場感があった。
繰り返しの内容が多少あったのは、この手の番組ではありがちなのだ
が、発掘は時間がかかるものなので そういう点もいつわりがなさそうで納得させられる。

 前回からの約1年でこれだけ多くの発見があったのに、おどろきだ。

 今回特に、すごかったのは、青銅器製の鏡のような装飾品を頭に載せた身長200cm以上の
高貴な人”と名づけられた巨人と、“番人”と名づけられた身長180cm以上の人の骨の発掘。

 ともに地層で押しつぶされ少し骨が伸びたことが考えられるそうだが
現代の現地のひとより身長があるという。年代は666年頃と推定。

 アメリカ大陸の原住民は、日本人を含む、モンゴロイドとされ、
シベリアから 北に向かい、氷河期にベーリング海峡をわたった。
北東アジアで間宮海峡から南(北海道)に向かう人たち(日本人)と、別れたと考えられている。
つまり、祖先は日本人と同じ。

 “高貴な人”は DNA鑑定で、中国・山東省、遼東半島付近の人と一致し、
山東省の出身者は中国では身長が高いことが知られているそうだ。

その地域が 出身である人に古代の思想家”孔子”がいる。
身長2mほどあったというから、共通性の1つではある。

 また、“番人”の骨は、DNA鑑定はできなかったが、
骨格の鑑定では日本北部(東北)の弥生人に近いという。これも驚きだ。

 体格の話であるが、2m程の身長とは いかないまでも、
出羽の国”には背の高い人の割合が、多いと思う。人口が少ないので
あくまで相対的な話になるのだが 日本では長身のひとが多い地域なのかもしれない。

 数十年前、私が高校2年の時には、山形県が県別の平均身長が日本一であった・・・。地元では体が大きいと”ウドの大木”といわれて揶揄されることがあり、
体が大きいことはあまり長所とは思っている人は多くなく、話題にあげられることは少ない。
現在(2002時点)では→MC-統計/データ 

 ちょっと短絡的だが単純に考えれば、このホモス文明の人たち、中国・山東省、遼東半島の人たち、
東北の弥生人は、同じ人たちということになろう。

 縄文人は背が低く、弥生人は背が高いと思われているが、食べ物の栄養の問題で解決されることは以前 書いた。
縄文人の血を引くとされる東北の人々は背が低いと考えてもいいはずなのだが、
食べ物の栄養状況がよくなれば、背が伸びる・・・ということで、この考え方に矛盾はない。
ただ、弥生時代に中国から直接、出羽・陸奥の国に渡来してきた人がいたという考え方もある。

 さて これと関連して 私は昔から不思議に思っていたことがある。

一般に、蝦夷は縄文人を祖先とする東国や東北の人々と考えられている。
しかし、東北にも弥生時代はあったし、弥生人はいた。
そこには渡来人もいただろう。鉄器須恵器が発掘されているし、古墳もあった。

 日本書紀のいうとおり、801年、蝦夷軍(阿弖流為)が 
坂上田村麻呂により征討され、初めて東北地方が大和の傘下に治まったとしたら、
蝦夷という人たちはどのような人たちになるのだろうか?
縄文人だろうか?弥生人だろうか?それともまったく別の渡来人だろうか?

 日本の古代の歴史で西から東の征服の流れがあったように語られることがある
(実際は違うと思うが・・・)。
仮に弥生時代に、弥生人が縄文人を駆逐して日本を占めていたら、日本列島には弥生人のみのこる。
その後に、一部の弥生人の子孫である大和の朝廷が蝦夷の国へ征討をしたのだとすれば、そのことは弥生人が弥生人を征討することを意味する。
つまり、ヤマトタケルの東征や桓武の東征は“征討”ではなくて同族のたたかいと
いうことになるだろう。

 やっぱり昔、教科書で習った”記紀”の記述によっては歴史は説明はむずかしい・・・と感じる。


 ホモス文明は、自然との共生意識の高い文明であった。東北弥生人との共通点があると
いう内容も新しい発見だった。
自然に対するホモス文明の考え方は、なにか東北の蝦夷の国と共通するものがあるとおもえてならなかった。






Last updated  2007.03.12 23:55:30
2006.10.14
テーマ:日常の雑談(1945)
という公開講演会(人類学)があるのを新聞で知った。
聞きに行ってきた。

 主催が日本人類学会という少し
硬いイメージをもたせるところのわりに内容は 
一般人の私にもわかりやすいような講演内容だったと思う。

 旧石器時代から現代までの人類学のいくつかの分野を5名が講演した。

 興味深かったのが、”縄文人とアイヌは”人種”の孤島か?”という百々幸雄氏の講演。

 縄文人が原日本人でアイヌがその特徴を色濃く残していることは
様々なところで多くいわれていることだが、骨の特徴にもそれはよくあらわれているそうだ。
アジア人・ヨーロッパ人・アフリカ人と大きく人類を3つのグループに分けた場合、
骨の特徴からみると 縄文人・アイヌのグループは これらのどのグループにも入らないという。

 それを”人種の孤島”という言葉であらわしているが これまで縄文人・アイヌ人が白人であるとか
ミクロネシア系であるとかいわれてきて分類できないでいる理由にもなるという。

 眼窩上孔という目の上の骨にある孔の出現率など 人の骨の様々な
特徴(20以上)から分析をこころみているところがおもしろい。
医学の専門化からみる 細かい身体的特徴が多くあるのだということにも関心させられた。

 結論としては 縄文人・アイヌが どのように分類されるかは、
未知なところが多く 研究段階でまだはっきりわからないそうである。

 つぎは、”変化する日本人の身体”(河内まき子氏)の内容。

 統計的にみても日本人の身長の伸びは 明治以後伸びつづけてきたが
最近は成長が止まってきている。
それは工業化、生活環境、栄養の良さがそうさせたとかんがえられるのだが
最近の身長の伸びがにぶくなっていることを考えると 貧富の格差が
これをうらずけているのではないかという。

 過去にさかのぼって考えてみると 縄文人が弥生人より遺伝的に背が低い
と考えられてきた身長の差については こういう栄養などの要素でうらづけられ、
必ずしも遺伝的な要素によらなくてもよい。

 つまり、他の身体的特徴(顔など)は別にして、縄文と弥生人の身体的特徴は
民族的に入れ替わったと考えることばかりでもなさそうなのだ。

 確かに縄文人と弥生人の入れ替わりがあったと考える場合 
日本全国の広い地域ですべての縄文人が絶滅していなくなることは考えにくいし、
厳密にその境をどこで区別するのか、線引きにも課題がありそうな気がする。

 頭の”たての長さ”と”よこの長さ”の時代による比較の研究の発表もあった。
もちろん日本人はよこに広い割合が高い。
ヨーロッパ系の人は逆に縦に広いの割合の人が多い。

日本人の骨とルーツ
 時代によってその割合は変わり、最近の日本人は横に広い割合が増え、ヨーロッパ系の人は縦に長い割合が多くなっているのだという。

 ちなみに私の中学校の同級生に登下校用の自転車のヘルメットをかぶるのに
ふつうにかぶると入らないけれど、横にするとかぶれる女の子がいた。
笑い話のネタになっていたが、これからは そういう人が多くなのかもしれない。

 私の持っている本の中に主催者と関係が深い著者の本があったので参考として載せたい。<←>

 このような講演会に出かけたのは初めて。古代・古代史を解明するには
人間のDNAの解析も含めて様々な角度の研究があるのだなぁと思った。

東大安田講堂 開催場所は東京大学の安田講堂。
ちょっと型ばった古臭い言い方をすると 東大は日本の最高学府だし、
安田講堂は 放水(?)と学生運動で有名な歴史的な遺産。
私には敷居がとても高いのでは?と思ったが このような一般への開放も
無料にしてくれているので意外に身近に感じることができた。

<写真は安田講堂とイチョウ並木、子供連れや銀杏をひろっている人もいた。>






Last updated  2006.10.19 00:51:13
2006.04.26
テーマ:本日のTV番組(34)
4月26日(水)の朝日新聞にソグド人の特集が載っていた。
ソグド人は紀元前4C頃からシルクロードの東西交易で活躍、4世紀から8世紀には実質的に独占したが、チンギス・ハーンの侵攻で歴史の表舞台から消えたというイラン系民族

 火を崇拝する古代の原始的な宗教ゾロアスター教を信仰することでも有名だ。
楊貴妃と玄宗皇帝で有名で安史の乱(755-763)をおこした安禄山はソグド人だったといわれている。安禄山の乱を鎮圧したのはウィグル(突厥を祖先とする民族)が支援した唐だった。

 最近ソグド人の墓が相次ぎ発見され、”幻の民”といわれたソグド人のことが少しずつわかってきたという。
 
 興味深いのは、西安で発見された史君墓に描かれた人物の顔だ。新聞にのったその顔は、法隆寺にある有名な獅子狩文錦(ししかりもんきん)の馬上の狩人にとても似ている。
 いまでもイランの人々は立派なひげをたくわえ、目鼻だちがはっきりとしてこの図の顔とそっくりだ。日本人にもそんな顔の人がいなくはないような・・・。

この錦がどのようにして法隆寺に入ってきたのかはわからないが、飛鳥時代、日本もソグド人との交流があったと考えられなくもない・・・?と思った。こ






Last updated  2021.07.12 22:21:20
2006.04.09
NHKスペシャル 「新シルクロード」の総集編をみた。http://www.nhk.or.jp/silkroad

去年一年間、放送された同タイトル番組の総集編である。
喜多郎の音楽と砂漠を歩くラクダのキャラバン隊のオープニングで
有名な「シルクロード」が放送されたのが1980年。

あの時は なにかに描き立てられる様にテレビを見ていた。
番組の内容がむずかしく、放送の途中でついうたた寝をしてしまっていた。
ふと起きた時にはいつも別の番組になっていたように思う。

あれから、25年。
当時は、日中国交正常化が進み、日中共同制作だが中国国内を取材できるようになり、
未知の国でエキゾチック(そういえば最近言わない?)なシルクロード地域を知ることができた
というのが魅力だったように思える。

しかし、実際はといえば、ソ連に国境を接している地域が多かったので軍事的な機密もあり
意外にシルクロードとしての取材が十分にはできなかったのではないだろうか。 

今回の”新シルクロード”だが、すでにソ連が崩壊してしばらく立つ。連邦はカザフスタンやロシアなどの国々になった。
中国も共産主義国家とはいいながらも 資本主義国家とあまり変わらない国にもなった。
取材がかなりできたようでグラフィックでの壁画の再現や、現在の状況などをおりまぜたりして、
内容は充実している。

 特に興味を惹いた内容を取り上げたい。

まずは、”楼蘭 4千年の眠り”、小河墓遺跡からミイラが掘り起こされた。
盗掘されたものもあわせて300を越える棺があるという。
今回テレビで紹介されたものは、約3800年前(中国、殷の時代)の人で
保存状態がよく、顔に白い化粧がされていたり きれいに着飾られているようにみてとれた。
また、ヨーロッパ系の白人のミイラということから、この頃
白人系の人々や国々(亀慈国など)が中央アジアにあったことを物語っている。

青海、天空をゆく”では、鳩摩羅什(クマラジュウ・350-409頃)が特集された。
亀慈国の人で、仏典をサンスクリット語から中国語に翻訳した人だ。
300巻にものぼる多くの仏典を訳し、1部独自の解釈も取り入れたといわれ、
後代の仏教に大きな影響を与えた。
玄奘三蔵は 602~664年の人だから、古代日本に入ってきた仏教も、
この人が行った訳本が基本にあったと想像できる。

草原の道、風の道”では突厥を取り上げた。
6Cから8Cにモンゴル高原からカスピ海までを支配した。
馬の鐙(あぶみ)を発明し、それを駆使して
異部族、異言語の人々からなる初の世界帝国になったという。
現在のカザフ族が突厥の末裔だという。

ところで鐙であるが、日本にはいつ頃 入ってきたのかと思って
古墳の埴輪を見てみたが、多くの馬の埴輪には鐙がついていた。
古墳時代後期の古墳からは鐙がでてくるといわれる。
一般には4C末頃、乗馬の風習とともに伝わったと考えられているようだ。
鐙でつながる、突厥と日本の関係はちょっとよくつかめなかった。

番組で出てきたのシルクの文様、阿弥陀信仰など、
日本にある多くのものは シルクロードをつなぐ街々にもあるところをみると、
これらを経由して日本に入っているのではないかと
想像をかき立てられて とても面白いかった。

政治的な問題などもありむずかしいのだろうが、いつか
ローマまでの完全なシルクロードという番組を見てみたい。






Last updated  2006.04.09 14:43:03
2006.01.22
テーマ:本日の1冊(3529)
ユダヤ人と日本人の風習・文化・言葉には共通点があり、それらを比較してみると日本人はユダヤの影響を受けているのだという。
失われた10部族”とは、古代(紀元前722年)アッシリア帝国に征服されて、アッシリアに連れて行かれた古代イスラエルの部族。

聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史 (作者はアメリカ生まれのユダヤ人/Rabbi Marvin Tokayer)

 イスラエル人は、紀元前1900年前のヤコブ(イスラエル)を父祖とする12人の息子の12部族により形成された人々であるという。
 場所はカナンの地(現在のイスラエル・パレスチナ)。

  紀元前10世紀にはソロモン王のもとに 繁栄の絶頂を迎え、12部族による統一王国を形成する。ソロモン王の死後、王朝は「北王国イスラエル(10部族)」と「南王国ユダ(2部族)(現在のユダヤ人)」に分裂した。

 北王国のイスラエルは、紀元前8Cにアッシリア帝国の王、サンゴン2世の軍隊に征服をうけアッシリアに強制移住させられる。そのときに歴史の記録から消えた、とされる。
 その子孫は世界各地に離散し他の民族と混血し同化していったと考えられ、この本では世界各地の民族の言葉や文化、風習と、ユダヤ人とのそれらとを比較し、痕跡をさがすことで失わせた10部族がたどり着いた場所を探し出そうとしている。

 関係する国は、日本を含め、シルクロード沿いの国を中心に世界各地におよぶ。

 日本では、まず、山伏の額(ひたい)の兜巾(ときん)に注目、これが、ユダヤ人が祈るときにかぶる「フィラクテリー」という黒い小さな箱型のものにとても似ているいるという。

 また、塩をまく風習、お盆、盆踊り、日本神道の風習、神社の本殿・拝殿の位置、神輿などなど多くの共通点には興味が尽きない内容だった。

 私には、ユダヤの風習がわからないので作者がその共通点を見つけたときの感動は分からないのだが、これらの中には私たちが漠然と日本人特有の伝統と思っているものもあり、たしかに解明の手がかりにつながると思った。日本人とユダヤ人との風習の共通点の多さは、古代において何かしらのつながりがあったことを強く思わせる。

 以前から読みたかった本で 半年前に定価1800円なのをアマゾンで古本を3000円ほどで買った。
 今では、増刷版が出ているので定価で購入できます。






Last updated  2021.09.19 12:34:17
2005.11.23
出羽の国と渤海国との関係をみていきたい。

 渤海は、中国の東北地方東部・沿海州・朝鮮北部を領土として栄えた高句麗(こうくり)族・靺鞨(まつかつ)族の国。則天武后の唐に滅ぼされた高句麗(668年滅亡)の遺民によりつくられたとも言われる。

698年に高句麗に属服していた、靺鞨の一部地方出身の大祚栄(だいそえい)が震国を建て
713年に唐により渤海郡王に封ぜられ渤海と称した。唐文化を輸入、日本とも頻繁に通交した。都は国都の上京竜泉府(黒竜江省東京城)をはじめ五京(ごけい)があった。
926年契丹(遼・耶律阿保機)に亡ぼされた。


 渤海国が出羽の国に使節を送るときには、現在、北朝鮮の中露国境で注目をあつめている豆満江から出発したとかんがえられる。
 渤海の使節団が漂着したのは、出羽の国といってもかなり広いのだが、現在の秋田県北部から青森県にかけての地域、能代市周辺のようだ。

 渤海使者の来日記録 少なくとも 34回(公式渤海使・727~930年)の内、
6回(非公式含めると7回)はある。その中で出羽の国の記録だけを抜粋してみた。

1.727年 (1回目): 寧遠将軍ら武人団、夷地(いち)に漂着、16人殺害される。
 残った8人が平城京に入る。
2.739年 (2回目): 大使乗船沈没40人没死。
3.746年 (非公式): 渤海人、および鐵利人 1100人が慕化入朝。
4.771年 (7回目): 福良(吹浦?)で越冬、773年春発。
5.779年 (11回目): 渤海人、および鐵利人 359人大人9隻の船を与えて本国に送還。
6.786年 (12回目):  越前に還し、船と船員を与えて放還。
7.795年 (13回目): 志里波里村 到着。

 出羽の国に着いたのは、日渤交流の歴史約200年のうち 初期のころに集中している。
渤海使のほとんどは、北陸より北の日本海側に到着した。

 特に注目すべきは3回目(746年)で、1100人という多人数が到着したという記録である。
当時の船(遣唐使船)は、大きければ 1隻に100~105人が乗ったとされているので、少なくとも11隻以上の大船団であったことになる。訪問の理由とされる 慕化入朝は不自然な理由だ。目的は何だったのか。
 ”すぐに” または、”779年には 359人を還した”とされているが、その間 33年もあるしどれほどの人が本当に帰っていったのか、さらには、どこに行ってしまったのか疑問、謎がつきない。

 詳細がわからないので、憶測になってしまうが、ほとんどの人が移民であり出羽の国の住民として同化した人も多かったのではないかと思えてならない。
 出羽の国の人たちの先祖に、こういう人たちがいたと考えると、おもしろい。






Last updated  2021.03.21 19:25:08
2005.11.12
727年(神亀4)出羽の夷地(秋田県から青森県にかけての日本海海岸)に
渤海国(698~926)からの使節団が漂着したという記録があった。
その後、少なくとも6回は出羽の国(秋田県能代付近)に来航している。
 746年(天平18)には、渤海人、および鐵利人1,100余人が出羽の国に安着し、もてなされたという。
 (次回に続く)






Last updated  2020.08.02 12:22:24
2005.08.13
 ある研修を受けてきた。約1週間の泊りこみ、研修所の隣の宿泊施設に缶詰めの研修だった。時間がいっぱいあるだろうからと何冊か本を持っていったのだが 試験もあったため、そのための勉強でほとんど読書の時間もつくれなかった。
歴史とはまったく無関係の研修だったのだが、その中で、1つ歴史に関するおもしろい話が聞けた。

 建造当時の奈良の大仏は”金ピカ”で金が塗られていたが、平重衡が東大寺を焼いてしまったため、金ピカではなくなった話を以前に書いた。
 その大仏の塗金の話である。大仏の表面に金をつけるためには、水銀に金を混ぜて溶かし アマルガムという状態のものにしてから それを鋳物(銅)の大仏に直接ぬり、その後、水銀を蒸発させるという方法をとったのだそうだ。いわゆる金メッキで金を薄く延ばしたものを貼るより仕上がりはきれいになる。

 水銀を蒸発させるため、水銀中毒がおこっただろうことが推測できるのだが、文献にはくわしい内容のものがあまりなく、当時どのような状況だったかよくわかっていないらしい。
ちなみに水銀は常温で液体の唯一の金属で、蒸発しやすく吸入中毒を起こしやすい。脳に障害を起こしやすく 症状としては 手の振るえ、精神障害(感情不安定、判断力低下、幻覚など)がみられるという。

 最近 大仏の近くの川原から水銀を多く含んだ地層が発見され奈良の大仏との関係の調査がすすめられているという話も聞いた。具体的な川の名前までは触れなかったが 大仏の近くの川とすれば”佐保川”だろうか?
最近の研究の技術はすごいなーと思うのと、何百年も前のことがいろいろな角度から研究されていることに今更ながらに感心させられた。






Last updated  2005.08.25 23:06:15

全12件 (12件中 1-10件目)

1 2 >


© Rakuten Group, Inc.