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出羽の国、エミシの国 ブログ

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出羽国の地名

2020.07.26
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テーマ:本日の1冊(3577)
カテゴリ:出羽国の地名
「出羽の国」の地名について、以前から考察してきたがその再考をしたい、今回で3回目となる。
前回は出雲の国との比較をした。元々の地名の語源の多くはわからなくなっていて、文字(漢字)については後世の創作で意味がない、その創作の当て字に捉われてはいけない、という説に則り考察した。しかし、イデハ(イテハ)という音の意味、語源が、地形や土地の特性、人や生活を象徴する何かしら、漢字の意味とは違う意味があったのではないか思う一方、出雲(イヅモ)と出羽(イヅハ)は同じ"出"という漢字を使っていることと音の響きもとても似ていることからに表記される漢字として何かしらの共通点があったのではないかという考えも残り捨てきれないように思った。

 漢字は表語文字であると同時にアルファベットとは違いその形状自体に意味をもつ表意文字でもあり、このことをもっと重要視しなければならないのではないかという考えが強くなった。もともとあった音に多くの漢字の中から2文字を当てたということはそれなりの理由があったことだろう。漢字が日本に入る前の古い時代の意味の音の呼称、「イデハ」などの地名が現地に先に存在して、その語源の意味が忘れ去られ現在解明されていないとしても、「出羽」という漢字があてがわれた以上、当てがわれた文字(当て字)にまったく意味がないとは思えない。
 ちなみに漢字の日本への伝来は5世紀ごろと言われているが、日本だけでなく漢字が広く東アジアで普及した経緯での漢字の優位性の1つである。

 漢字は1つ1つの文字自体が意味を持つ。話す言葉がわからなくても文字で会話ができる。例えば日本人が中国の人と文字での会話、筆談ができることはよく知られている。古代中国で漢字が普及した背景には黄河や揚子江流域の国々の言葉の違った人たちが筆談できたことにあった、と言われる。言葉や発音が違ってもコミニュケーションができるツールだった漢字は漢字文化圏として発達して共通の文化圏として歴史を作った。日本もその例外ではなく話す言語、語順など違いを乗り越え、文字として一つ一つの漢字の持つ意味から文章を作りだし古代から中国の王朝とも交渉を含め、交流できた。さらに、明治期には熟語などをつくり中国へ逆輸入させその漢字の表現を発展させることもできた。そう考えれば漢字の表記には重要な意味があると考えるべきなのだろう。

 これまで見てきたように「出羽」の国の由来には出羽国風土記(明治)を代表にして大きく分けて主に2つの説があった。それぞれ整理しながら再検証したい。
 
 1."越の国から突出した出端(いではし)、陸奥の中にあって端のようにある(位置
)の意味。"の説について。
 もし、出羽を出端の意味とするなら「出端国」とそのまま表記してもよかったはずではないだろうか。"1"の説にはなぜ「端」ではなく「羽」という文字を当てたのか、説明が不足している。「葉」でも「波」でも「八」でも"ハ"と読める漢字であれば何を当てはめてもよかったはずだ。逆に「端」を使わなかった理由はなんだったのだろう。「崎」や「瑞」などのつく地名には確かにそういう意味を含む場合もあるのだが広い国などの地名の場合はそれほど多くない。
 この説は陸奥国が"道の奥"の由来とされているところから同じように類推しているのではだろうか。

 「陸奥」の地名は天武天皇の時代(673~)に中国にならって"5畿7道"という行政区の集合体に分類したことに関係する。これはこの行政区の東山道や東海道の中で、奈良や京の都から見て遠い奥の辺境を"道の奥(ミチノク)"と言ったことから始まった。陸奥は現在の東北地方全域に比定されている。そして、676年ごろには道奥国が"陸奥国"に変更された。陸奥という地名は5畿7道より都から遠い広い地域を漠然と示すものなので逆に言えば陸奥と比定される陸奥村や陸奥郡というような小さな地区名があった訳ではなかった。つまり、陸奥は7道の内、東山道の奥で、畿内から遠い方面をさす関東以北の全体の総称だったと言える。

 一方、出羽国はそれとは逆の成立ちがある。庄内平野の最上川周辺から羽黒山周辺の狭い流域の呼称だったある地域名がその後拡大して、隣接の区域の代表名のような形で現在の秋田県と山形県の広い地域を含む地域の総称となった。陸奥と出羽の国名では成立ちが大きく異なる。はじめは広くても郡名でおそらくは里の名だったろう「出羽」の地名を陸奥の国名の由来と同じ方法で類推することは間違いになるだろう。ちなみにその地区の区域については以前に考察している。
https://plaza.rakuten.co.jp/gassan/diary/200611260000/


 2.文字の意味から允恭朝(推定5世紀前半)に鳥(鷲鷹)の羽を土地の産物として(産出)献上したことからの意味(出羽郡の設置は708年)、について。結論を先にいえば、この"羽が産出された地区"というのが妥当のように思える。

 武蔵国(現東京都)の多摩川周辺にいくつか見られる「調布」という古い地名の云われがある。その成立ちに似ているのでそれを例に考えたい。調布は律令制下の租税である租庸調のうち、「調」としてその土地の特産物であった麻の布を納めていた地域の名として有名だ。7世紀前半に歌われたという万葉集にまで遡れるというがこの成立ちが出羽の地名の成立ちと同じだと推測する。次の万葉集の調布の歌は国語の教科書にも出てくる有名な歌だ。

    「たまがわ(多摩川)に さらすたづくり(調布/布のこと)さらさらに なに(何)そこのこ(児)の ここだかなしき(愛おしい)」(多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎) 

 ここでは調布はあくまで"たづくり"という発音であり古代の言葉であるということ、多摩は多麻(麻が多い)と書かれこれも名産品の当て字となっていることも興味深い。
 この布を納めたと同じ、出羽国では言わば"調羽"のような形で羽を納めたと考えられないだろうか。


 それでは庄内地方で羽が取れたと仮定するならば、どのような種類の鳥の羽が考えられるだろう、そしてその鳥の羽は何に使うために献上されたのだろうか。

 出羽国風土記(明治時代)ではさらに少し古い時代「允恭天皇(推定5世紀前半)鷲の羽を土地の産物として献上した」(神學類聚鈔 第4巻 風土記(931年))ことを引用して、これを郡名の云われの1つとしている。以前にも紹介したが、允恭朝以外の時代にも出羽郡から鷲や鷹の羽が献上されていてその羽は鷲や鷹の羽と考えられているが、その資料的な根拠はないとも言われる。これが土地の産物として当時郡名にするほど珍しかった、多くとれた、貴重なものだった、という内容を考えるとどうも腑に落ちるものがあまりない。出羽国風土記には"平鹿鷹千島杯"というように秋田県横手市(出羽国)の平賀地区は鷹が多く住む地域であったことが紹介されているが、それは庄内平野の出羽郡の地区が同じように鷲や鷹が多かったとは言えるか疑問が残る。

 現在でもあるものから素直に推測すれば量(数)や捕獲しやすさから考えてみて白鳥ということになるのではないだろうか。白鳥は初冬にシベリアから越冬のために数多く飛来して庄内平野では田んぼや河川で餌をついばむ様子が冬の風物詩ともいえるほどだ。古代に庄内平野が現在のようなほとんど目につく限りに田んぼが広がる平野ではなかったとしても白鳥の餌やその量は現在とあまり変わらなったのではと思われるので、白鳥の羽であれば比較的容易にある程度の量を取ることができただろう。また、庄内地方はオオハクチョウの南限とされる地域ともいわれ大和(奈良)からみれば貴重さも加わる。オオハクチョウの羽であれば他の地域と比べても量的な差別化もできたのではないだろうか。

 白鳥の羽は何に使われたのか。
 現在でも白鳥の羽は矢羽根に使われたりしているので、一般的な用途としては弓矢の矢の矢羽根に使われたと考えられる。宮中では奈良、平安の古代から「射礼(じゃらい)」という弓競技が行われていた。白鳥の白くきれいな羽は武器としての矢羽根はもちろんのこと、神聖な宮中行事にもうってつけのように思える。初詣などで神社にある破魔矢など白い矢羽根を思い浮かべれば縁起物として珍重されただろうことが推測できる。関東などでもコハクチョウや鴨などは多く飛来するのでコハクチョウの羽であれば多く献上できただろうがオオハクチョウだと数が少なくなる。オオハクチョウとコハクチョウとの矢羽根に使った場合の違いは不明だがオオハクチョウの方が体長が大きいので見栄えの良さと矢として遠くに飛ばせるなどメリットが多くあったのかもしれない。

       👈※関氏のユニークな説が満載の「謎解き古代史 独学のすすめ/関裕二著」。

 ここから、話を「白鳥の羽」に移して、関雄二氏の本の学術的ではないが何か示唆を与えてくれるようなユニークな話を取り上げ、仮説を立ててみたい。

 この本で関氏は「カゴメ歌」と京都府宮津市の籠神社の豊受大神の伝承などを通して”天の羽衣が白鳥の羽、そのものだった”という説を唱えている。これから白鳥の羽が天の羽衣に使われたのではないかと類推する。

 「天の羽衣」とは何か。
 身近な例では「竹取物語」でかぐや姫が月に帰るときに羽織ったり、「丹後国風土記」、能の「羽衣」、日本海沿岸地方などにある「天女伝説・羽衣伝説」で天女が羽織っている軽い帯のような(羽)衣。日本の昔ものがたりにも出てくる。ある意味、ドラえもんのタケコプターのような機能をもつ空を飛ぶための道具なのだが、辞書では 

①「天人が着て空を飛ぶという薄くて軽く美しい衣。鳥の羽で作るという。」
②「天皇が大嘗祭・新嘗祭などで沐浴する時に身に着ける湯かたびらの称」などとされる。

 この鳥の羽で作るというところを留意していただきたい。絵本やアニメなどでは透き通る軽い帯のように描かれているもの多いものだが、正確には鳥の羽でできているもののようなのだ。空を飛ぶという科学を超越していてハリーポッターやオカルトのような内容でもあるが話を進めたい。
 ②の天皇が宮中行事の大嘗祭や新嘗祭などの祭事で沐浴するときに使われる白い衣の湯かたびらも天の羽衣と呼ばれるが、現在ではこの天の羽衣は白練平絹(黄色味を消して白くした絹を平織したもの)となり天皇の行事として古代から今に引き継がれているようだ。仁和3年(1168)の大嘗祭の記録では、「三河の和妙の天羽衣(絹製)」と「阿波の荒妙の天羽衣(麻製)」の2種類があったという(1枚を着けて湯に入り、湯の中でこれを脱いで上がり、他の1枚で身体をふく(兵範記))。この仁和の頃には名前は羽衣と呼びながらも白鳥の羽は使われなくなっている。

 関氏のいうように古代に宮廷の儀式で天の羽衣にオオハクチョウの羽が使われたとすれば出羽国の白鳥の羽が献上されたことは重要なものとしてつながりができる。そして、その鳥の羽を献上した地域が「出羽」と名つけられた(当て字された)、とすれば地名の由来になってもおかしくないのかもしれない。

 おとぎ話の鳥の羽で作られた天の羽衣がどのように重要なものだったのか。
 高校古文の「竹取物語」の一般的な現代語訳によれば天の羽衣は"着ることによって空を飛べ、心が変わってしまう"もの、”地上で感じていた物思いや人情がなくなってしまうもの"のように説明されている。
 関雄二氏によれば、"古代において権力の象徴として使用されたのではないかと思われる節がある"という。"豊受大神は来ていた天の羽衣を奪われて神通力を失っている”、"これ(天の羽衣)が、いかに重要視されていたかは、大嘗祭のクライマックスで、天皇が天の羽衣を着ることで人間から神のような存在になると信じられていた"、"かぐや姫は天の羽衣を着ると人間の心がわからなくなると『証言』している"として、”天の羽衣”とは、"神通力をもつ最高の呪具であるとみられていた”としている。

 その説明を後押しするように、梅沢美恵子(著書「悲の巫女 額田王」)は万葉集の持統天皇(在位686~697年)の歌で教科書にも出てくる有名な次の歌について従来の解釈とは違う持統天皇の"天の羽衣盗みの歌"と解釈した。
 「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたえ)の衣乾したり天の香久山」

 "白い衣が天香久山に干してあったのは、「洗濯物」などではない。これは、天女が沐浴しているという意味である。・・・今この白い衣(天の羽衣)を盗めば、天女(前政権/天武天皇)は身動きがとれなくなる。春が過ぎて夏が来るように、動乱が起こり、天下は自分のものになる。チャンスがやってきたのだ・・・" 
 天の羽衣を盗むことにより持統天皇が天下を取ることができるというような天の羽衣がまるでヨーロッパ王族の王冠のような権力の象徴として使用されたもののように捉え考えている。

 補足になるがこの歌の時代的背景には"持統天皇を背後から操っていたのは、いうまでもなく藤原不比等であり、持統天皇が潰しにかかったのは、ヤマト朝廷誕生以来頑なに合議制を守り抜こうとした蘇我氏や物部氏を中心とする豪族主体の政権にほかならなかった。そして、持統天皇は藤原不比等とともに、新たな王家を築くことに成功しているのである。"と関氏は説明する。竹取物語(かぐや姫)の物語は藤原氏批判の内容とも言われているが関氏のこの本はそれを深堀りして解説する。ざっくりと誤解をおそれず言えばこの時に焚書坑儒のようなことがあったのではないかというような内容だ。

 現在の天皇はいうまでもなく憲法にうたわれているように日本国と日本国民統合の象徴なので直接権力を行使することはなくなり、天皇の儀式も憲法に書かれた国事行為の1つとなっている。歴史的にかつて持統天皇の時代の白妙の衣が白鳥の羽だったか、絹織物だったかは別として古代において白鳥の羽でできた"天の羽衣"の権威的なものとされていたかもしれないことがキーとなる。
 古代から天皇の権威の象徴としては三種の神器が特に有名だが、その他に同じような扱いとされるものに”天の羽衣”もあったのかもしれない。それらの役割の違いは分らないが、中国の玉璽、ヨーロッパ王族の王冠のようなものと同様に扱われていたと考えれば、古代、宮中行事において天皇の即位における権力の象徴としての天の羽衣はとても重要なもので白鳥の羽を調のように献上することはとても名誉なことで、通商、献上品として産出するところの地名としてふさわしいものだったと考えることができるかもしれない。

 古代日本(ヤマト)の人々は本名を直接呼ばないようにするなど現代では信じられないような迷信や風習があったりする。白鳥の羽の天の羽衣で空を飛べたり、神通力を持つなどは現代では想像もできない、科学の常識から外れたばかげた迷信と一蹴されるような内容でもあるのだが、当時の人々の常識としては、とても重要なものだったと想像をすれば、神通力をもつ羽衣、これを産出する地区、となりそれは国の名前に当てられるほど重要な意味を含んでもおかしくなく古代歴史ロマン?があるように思える。

 その他、白鳥についていくつの有名な伝承がある。日本の神話には稲作の発祥として"大鳥(鷲)が稲穂を持って飛来した"とする瑞穂の国の伝説。この大鳥はいつの頃からか鷲と混同されているが古い文献の多くでは白鳥だったといわれ、多くの大鳥神社では白鳥を祀る。たしかに白鳥が稲の籾を咥えたり体に付着したりすることはありそうだが鷲が籾をつかんだり咥えることはイメージとしては難しい。その大鳥神社でも祀られるヤマトタケルは白鳥になったという古事記の物語で有名だ。継体天皇の墓と言われる今城塚古墳には白鳥の埴輪が多く埋葬してあった。白鳥が古代の人々にどのように考えられていたものか謎が解ければ出羽の国の名前の謎もわかるのかもしれない、遠い国を海や山、国境も関係なく簡単に行き来できる白鳥には何かロマンを感じさせるものがある。

(東京駅レリーフの写真)







Last updated  2021.10.30 16:35:57


2015.05.03
カテゴリ:出羽国の地名
ある歴史番組を見ていて、”ピーン”と電気が走ったような、ひらめいたような気持ちになった。(まるで一休さんのように?)歴史秘話ヒストリア「国書偽造秘められた真実~国境の島・対馬の憂鬱~」を見ていたときだ。

 その番組の内容は江戸時代の朝鮮通信史の歴史の内容で、古代の対馬の歴史からはじまる。
対馬国には“西の漕手(コイデ)”といわれる古代からの港があり、奈良時代、遣唐使がこの港から大陸へ船出したという。古代、港のことを“漕手”と言ったのだそうだ。
 そういえば、出羽の国、最上川沿いに”小出新田(コイデシンデン)”という集落(現庄内町)がある。この“小出”は、“漕手”の当て字だったのではないのか?!・・・とすれば、ここが船の出発する場所、古代の港だったのではないか・・・何か謎が解けそうな、そんなに気持ちになった。ちなみに“新田”や“興野”はこの地域には多く戦国時代に灌漑用水により作られた集落をいう。小出新田について調べてみた。


 まずは、言い伝えから。現在の最上川は、集落から1kmほど北側を流れているが 以前は集落を隣接して(北側を)流れていた。戦前、内務省の工事により最上川が北に移動した、という。WEBで調べると土木学会のHOMEPAGEに次のような資料を見つけた。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/j_naimusyo/kawa/46138/zu.pdf
(最上川改修計画大要 秋田土木出張所 大正9年10月(1920)参照)

 小さくて少し見つらいが、最上川沿い、中央部の右下、“小出新田”を見る。赤い線の新しい川と 青い線の従来の川の位置が見てとれる。言い伝えは正しかった。
  • P1020219A.jpg
  •  
    ↑ かつての最上川は、整備されて今も“(土場)沼、としてあるいは、灌漑用水路”として残っている。沼と思っていた旧最上川だが直線で人口的だった。


  • P1020208.JPG
← 桜並木と堤防が整備されているかつての最上川(1920年改修前)。
北の方角を望む。(後から述べるが実はこれも人口の川だった。)

 この風景をみれば、ここが船着き場だったことの想像は難くないし、実際この地域は“土場(ドンバ)”とも言われ、最近まで船着き場だった。

 [この新旧の最上川の間、約1kmの土地はしばらくは河原のままであったが、戦後まもなく”田んぼ”として開拓(三合原開拓)されたのだそうだ。よく庄内の民家で見かけられる丸石の石垣として利用されている丸石は、このような場所から堀りだされたものなのだろう。(最上川沿いではこのような開拓がいくつかの場所で行われ、土は山からも運ばれたともいう)。]
 

 次に、「出羽国風土記」で”小出新田”を探した。田川郡に小出新田の記載がなく探すのにとても苦労した。なぜかとなりの飽海郡「巻之4」にあった、驚く内容だった。

 風土記によると、「かつての最上川は“南野村”の西にあり(上流の地域)、洪水が多いため、正保元年(1645年)、620間(1127m)の長さの堀を切って新しい川とし、さらに新しい河口から 150間(272m)差添堀られ(”つないだ”という意味であろうあろうか)、河を1090間(1982m)北に移動させた」という。

 つまり、洪水を防ぐ目的で川を北に移動させるため上流から堀を堀り、下流からも堀を掘ってつなげたというのだ。江戸時代、最上川が1920年の改修のさらに南側、小出新田村の反対側の村境を流れていた・・・という、1645年のことになる。

 (昔から最上川の北が飽海郡、南が田川郡とされている。改修以前は、小出新田(と隣の堤新田)は“(最上川の)川北”の位置になるので北の“飽海郡”に属していた。小出新田は今では南側の(東)田川郡にあるが、風土記が明治発行のため、飽海郡として記載させていたのだった)。
 
 小出新田の北西隣には“堀野”という集落もあり、堀をほってできた土地(野原)の意味にとれる。対岸の酒田市(旧松山町)にも“小出池ノ尻”の地名が見えるので北側の山の裾野まで、“小出”としての地域があったと考えるのが自然だろう。また、現在、陸羽西線の南野駅のある"南野"という地名も古代、城輪の柵(古代出羽国府の有力な推定地)から見た最上川を隔てる"南の野原"という地名として解釈できそうだ。

 風土記どおりにこれらの集落や境界をかつての最上川が流れていた・・・とすれば 今より大きな川の蛇行が想像できる。(最上川の)小出新田 1645改修1920改修と呼べる2段階の川の移動があり、合わせて3km移動したことになる。地図でみてみるとおもしろい。隣の赤渕新田と堤新田に細長い入り地がある。廻館の国道47号線の東側の丸くなった境界線との“コ”の字形、これらが旧最上川なのかもしれない。


 昔から古代出羽の国では最上川を船で行き来していたと推測されているが、港の位置については不明な点が多い。特定するのが難しいようで、その位置が今と昔とでは大きく変わってしまっているからなのだろう。小出は古代出羽の国の港の有力な候補の1つ・・・と考えてもいいかもしれない。飽海郡にあったとすれば、最上川北側にあった城輪の柵の港となるのだろうか?
 昔から”小出”とはどんな意味だったのか、疑問だった。小出という地名は他の地域でも時々目にする。古代の地名としての"小出(漕手)"、正しいかどうかはいつか発掘されるときがあって、遺跡が出るかにどうかになるのだが、長年の謎に大きなヒントを得たような気がした。
(引き続き、小出の謎のせまりたい。)






Last updated  2021.06.07 21:14:12
2014.12.01
カテゴリ:出羽国の地名
2年前に古墳と確認され、(判明したものの中で)日本海最北の古墳という「鷺畑古墳」を訪れた。
2013年に発見がされたが、それ以前から古墳だろうと言われていたようだ。発掘によりそれが証明された形だ。
  • RIMG0130aaa.jpg
  • ← 鷺畑山古墳と月山遠影

     秋晴れの天気が良い日で、地元の大学の先生と学生の方々が発掘の真最中だった。古墳は鷺畑の集落のすぐ近く、庄内平野を見渡せるみはらしのよい一段高くなった丘のような場所にあった。素人目には、ちょっとした小山ぐらいにしか見えない。畑や雑木に囲まれていて、規模はそれほど大きくなく古墳とはわかりにくものだった。

  • RIMG0133aaa.jpg
← 発掘中の鷺畑山古墳
 鷺畑の集落から古墳にいくには川にかかる橋をわたる。この古墳の近くには京田川が流れている。京田川は月山から発し、藤島川に合流し(かつては最上川と合流していたが分けられた)日本海へとそそぐ川だ。

 古墳の位置は京田川の近くを選んでつくられたのではないだろうか?そう思った。

 私は出羽の国古代、人が行き来したり物を運んだりるのに舟が多く利用されていたのではないかと考えている。近くの藤島の町(藤島川)では、実際、奥州藤原時代(平安時代)の丸木舟が出土しているし、京田川でも古代からこのような舟が使われていただろう。この川を上れば羽黒山周辺に行けるし、下れば最上川、日本海へ出れる。この古墳は意図して村々を行き来する舟、行きかう人々から見上げるような場所に作られたのではないかと考えられる。

 古墳を紹介するテレビ番組をみると近くには川や海があり、舟などで行きかう人の目を意識して造られていた古墳が多いようだ。規模は違うが鷺畑古墳も同じだ。古墳は舟で行き来する人を見守ったり、(一里塚のような)目印になったりするものだったのかもしれない。

 ところで「出羽国風土記. 巻之2」に”鷺畑”の集落名がでてくる。
調べてみると、江戸時代この集落は、”丸岡御料”に属していて、羽黒山領と西南で接しいていた。”御料地(幕府領?)”・・・とは珍しいと思ったが、意外にもその範囲は広い。出羽国風土記の中で庄内地方の記述には、大山、余目、丸岡の3つの御料地を探すことができる。これらの御料地は現在の鶴岡市街地の周辺(郡部)に分布し、庄内藩の西と東(一部南)に位置し庄内藩領を挟む形にある。(庄内藩の藩域にこれほど広範にわたる御料地があったことにも驚きだ。)

 鷺畑集落の”丸岡御料”は、最上川を北の境界にして旧余目町の北西側、藤島の東南部、櫛引(丸岡)と南北に細長い範囲で飛び地になっている。形が不自然で、同じ御料である隣の余目御料とつなげるとひとつのまとまりか線のようになってもみえる(もともとあった御料地に松山領や庄内藩領が喰い込んで分断しているようにも見える?)・・・川沿いにあった集落とその後にできた集落との違い(歴史の違い)かもしれない・・・。

 京田川沿い(周辺)が古代の人々の主な生活範囲(人の住み始めの領域)だったのではないか。この御料地の位置が古代出羽の国の謎を解く手掛かりになるのではないだろうか・・・と思った。

 さて、鷺畑山古墳にはどんな人が眠っているのだろうか?蝦夷の刀、蕨手刀などがでてこないだろうか・・・などなど勝手な想像をしたり、興味はつきない。
羽黒山が極めて近い、羽黒山とのつながりが深い人であろうか。年代は不明だが鷺畑山古墳により、古墳文化が出羽の国にも存在し、内陸から日本海へとつながる広い範囲にあったということがおもしろい。
 古墳自体もは多い、昔は庄内平野にも古墳がたくさんあったかもしれない・・・分かっていないだけで、他にもまだあるのかもしれないと思わせてくれた。
この貴重な古墳、将来は整備して古墳公園として永久保存してほしいと思った。

※本当に書くのが久しぶりに書きました。






Last updated  2020.11.14 14:24:07
2008.11.25
カテゴリ:出羽国の地名
田んぼで籾(米)を拾って食べる白鳥を近くで撮れました。

出羽の国の出羽”の名前の由来は、允恭天皇の時、土地の産物として
鳥の羽を献上したからという説があります。
こんな風景が昔からあったのでしょうか・・・。
実際は”いでは”という現地の地名への当て字にすぎないと考えています。

献上されたものは、このような白鳥の羽だったかもしれませんが、
弓矢で使う鷹や鷲の羽のほうが現実的のように思えます。

降った雪はいったん消え、山の方にだけ残っています。

初冬の月山と白鳥






Last updated  2020.08.01 13:22:31
2008.06.22
カテゴリ:出羽国の地名
出羽の国の飛鳥神社。神社の祭神は、事代主命、相殿に素盞鳴命、大己貴命。
事代主神は俗にいう恵比寿様、大国主命の子供ともいわれる。
恵比寿は蝦夷(えぞ、えみし)とも書き、日本の土着民族である
蝦夷やその土着の神を想像させられる。

大己貴命とは、大黒様のこと、 大国主命や大物主神ともよばれる。
神仏習合の時代には、さらに仏教の神が加わる。

 出羽の風土略記には、“平田郷飛鳥権現(この飛鳥神社のこと)は、11面観世音で、この神社は別名“飛鳥観音寺”ともいわれた”のだそうだ。
(また、今はないが山門に慈覚大師作の仁王像があったとされる)。
出羽郡には他にも観音寺という寺が3つあり、他郡にもあったという記録があるが、
他の寺々との関連はわからなかった。(羽後町にもある)

 出羽飛鳥神社の周囲には奈良地方と同じ地名やその地名と同じ神社が点在する。
北に2キロ程行ったところには、大神(三輪)神社(祭神は大己貴命)、
(この神社も“当村草創のとき大和国三輪神社より勧進する”とされる。)
南に5キロ、前回とりあげた余目地区には三輪神社がある。
これらも観音寺という名だったのだろうか。旧大和村や三和村という地名もある。

 この飛鳥村は明治までは、以前紹介した余目地区に含まれていたという説もあった。
余目には、かつて大和村という村もあった。飛鳥村と余目(大和村)とは
最上川をはさんで対岸になるのだが、こことのかかわりが深い気もする。

 一方、出羽飛鳥神社の勧進元の大和国 “飛鳥坐(います)神社”についてはどうだろう。
祭神は事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)、
大物主神の四座とされる。私は残念ながら訪れたことはないのだが、
地図では飛鳥寺(前々回)のすぐ近く(直線で200m程)にあるようだ。

 勧進したのだから当然のことなのだろう、祭神は出羽飛鳥神社と同じ 
事代主神(恵比寿様)で、大国主命(=大己貴命、=大物主神)を
祀っている。

 出羽飛鳥神社の別名の観音寺についてみてみたい。
奈良で11面観音像でつとに有名なところがある。
11面観音 聖林寺

 大神神社(奈良県)で、三輪山の麓に位置し、山自体が御神体で、
その祭神は大国主命である。明治以前は神仏習合で
その神宮寺には、11面観音像があった。

 これに関して、以前、奈良で次のようなエピソードを聞いたことがある。
明治の、神仏分離、廃仏毀釈で(三輪山)神宮寺は廃寺になり、
11面観音像はどこにも行く当てもなくなって捨てられることになっていた。
それを近くの聖林寺の住職が譲り受けて手押し車で聖林寺まで
運んで難を逃れたのだそうだ。
聖林寺は大神神社から南に4、5キロほどの道のり。
その11面観音、現在は国宝の指定となり、今も聖林寺にある。

 大神神社では、神宮寺を再建した際に、聖林寺の11面観音を
模写した観音像をつくったそうである。
(かつて大神神社神社にあった11面観音像(聖林寺) 右写真→)

その11面観音はフェノロサや岡倉天心も惚れ込んだといわれ、丁度、先日の
“NHK その時、歴史が動いた・岡倉天心”でも この像が番組中紹介された
写真のなかにふくまれ一瞬だが紹介された写真が写されていた。
大神神社には、古くから11面観音があってとても大切なものであることがわかる。

大神神社の神社と出羽飛鳥神社はともに11面観音を祀っている。
そして、出羽の国とも共通する飛鳥、三輪の奈良の地名と、恵比寿様(蝦夷)・大黒様、そして 11面観音。

ところで、飛鳥と大和(三輪)は厳密に言えば違う。
大和は三輪山山麓やその南西側で初瀬、長谷など、その周辺は大和朝廷の発祥地といわれる。
大神神社は大国主命を祀り、奈良(大和)では“天皇家よりも先”とも
いわれるほど歴史が古い。
大和の人々がなぜ出雲の神を祀るのかは はっきりしない。
大和は縄文や出雲の文化と関係を受け継いでいたのだろうか?

飛鳥は、甘橿の丘の東側。蘇我氏との関係が深い場所だ。
出羽では、この飛鳥と大神(三輪)が混在する形で、少し不明確な点はある。
それでも、出羽飛鳥村などの伝承は 正確に言い伝えてられているといっていいと思う。
さらに11面観音の阿弥陀信仰は羽黒山の信仰とも一致する。

出雲、奈良(大和)と出羽、互いにあまり関係のない遠い場所のようなのだが、
同じく “大国主命”や“蝦夷”を祀る。
かなり、古い時代(大和朝廷以前)から交流があり、お互いに同じ文化を共有していたのだろう。
だからこそ、出羽の国と交流があったりお互いに人の行き来もあったりしたのだろうと思った。






Last updated  2020.07.30 20:44:54
2008.06.01
カテゴリ:出羽国の地名
出羽の国に飛鳥村(現在は酒田市飛鳥地区)がある。昔からの疑問だった。
ありきたりな地名にも思えるが、庄内平野の最上川周辺には奈良と同じ地名がいくつかある。
そして、ここも歴史の古い由緒ある地名のようだ。(以下出羽飛鳥とする)

 この村は蝦夷を祀る奈良県飛鳥(以下奈良飛鳥)地方の人々が移住した村かもしれない、と勝手に想像力をたくましくした。

鳥海山
 この平田地区飛鳥村には“飛鳥神社”があり、その社伝には “807年(大同2)、
大和国 高市郡“飛鳥坐(います)神社”より勧進した、飛鳥の地名もそれによる
・・・“ととても古い記録がある。

 今から1200年も前 わざわざ遠く奈良飛鳥から勧進したというのは、
この時期に奈良飛鳥と人の交流があったのは確かだろう。

 蜂子皇子が出羽の国に来て(593年)から、およそ200年後。
出羽郡ができたのが、708年、そのときからだと100年後。
807年ごろは、阿弖流為や坂上田村麻呂などの活躍する38年戦争の直後である。
桓武天皇が亡くなるのが806年3月であるから、京では民衆を疲弊し、その原因の“征夷(軍事)”と“都づくり(造作)”をやっと中断した時期にあたる。

 ただ、この人たちがいわゆる“征夷”として移住してきたかは疑問だ。以前にも書いたように、大和朝廷では 結局武力では出羽・陸奥の蝦夷を征夷できなかった。村の位置は日本海や最上川にかなり近く、蝦夷の住む山間部からも少し離れていて38年戦争の直後で京からの軍事力の増員ということではなかっただろう。

 また、当時の都である平安京ではなく、飛鳥という奈良から勧進したのも意味深げだ。蜂子皇子の縁なのか、大伴氏の縁なのか、この周辺には他に三和村、大和村などの地名が残っている。

 ところで 奈良時代朝廷の東北への進出は柵戸と言われる移民が中心であった。
陸奥での坂上田村麻呂の政策をみるとおり、移民(柵戸)は反乱の少ない同和政策であっただろう。(いかに蝦夷の攻撃を警戒していたかは近くの城輪の柵でうかがい知ることができる。
城輪柵についてはいずれ触れたい。)

 714年、出羽の国に信濃、上野、越の国から200戸の柵戸があった記録がある。
蝦夷政策には常陸国(茨城)、上毛野国(群馬)、越の国(新潟)からの柵戸の記録が多い。
ここに柵戸があったかは不明だが、記録上あったとしても、それは みな近い圏からなので奈良飛鳥からの直接の移民があったとすれば 例外の部類なのかもしれない。
いったん飛鳥に移住させされた蝦夷が何かの理由で戻ってきたと考えられなくもない。

 それらを記していたかもしれない古記は元禄年間に焼失し、今は詳細はわからなくなっている。さらに神社の祭神をみることで共通のものがみえてくるようだ。
出羽 飛鳥神社

写真上↑ 平田地区からの鳥海山遠望
写真右→(出羽)飛鳥神社 


引き続き、出羽飛鳥神社について述べたい。






Last updated  2020.07.30 21:02:51
2008.05.06
カテゴリ:出羽国の地名
地名には読むのにむずかしいものがある、"余目"はどうだろう。"よめ?"とか"よもく?"と読み間違えられることがあるそうだ。

 正しくは、"あまるめ"。この余目について調べてみた。
余目地区は旧町名だがその発祥の具体的な場所はわかっていないようだ。出羽の国の国府の推定地である、古郡や平方、城輪に近く古い地名であることは間違いなさそうだ。
 周辺(隣町含む)には、(旧)大和村、八幡(やわた)、三和、本小野方、三輪神社、飛鳥、坂田、広野など、なぜか大和や古代の地名を連想させる地名が多く、跡、福原、など何か遺跡が出てきそうな興味ぶかい地名も多い。
 平安(古代)の時代、里を作る際、50戸で1里としたが、余りが出たときには10戸以上の場合に余戸(あまりべ)として独立させた。余目はこの余戸の里の名がなまったものと考えられている。今も余戸、餘部、余部など、これと同じような地名が全国に多くのこっている。
 和妙抄(950)によれば、庄内地方(3郡、16郷)のうち、出羽郡には、大田郷、大窪郷、河辺郷、井上郷、餘戸郷、の5郷があった。

 この中の餘戸郷は、今の余目に間違いないだろう。吉田東吾は、そこを旧東田川郡余目町、常万村、八栄里村(最上川南岸)と推定している。現在の最上川の南側の京田川が合流するまでの2つの川に挟まれた場所、に位置する。一般的に神社などの跡地はかつての政庁などがあった場所であることが多い。現在の余目地区にはいくつかの八幡神社があるが、一番広い御殿町地区隣接の八幡神社より南に位置する上朝丸地区の神社の方が古いという言い伝えもあるので、もしかしたらその近くが平安時代の余戸の里(餘戸郷)だったのかもしれない。

 平安末期には余戸郷に海部荘(あまべのしょう)ができ、鎌倉時代には大泉荘に含まれたとされる。歴史的にも奥州藤原氏、上杉氏や最上氏など、立ち代わり大きな豪族に支配された。江戸時代にはいくつかの堰を通す大規模な水利開拓がされたためより大きな地域に発展した。
 現在はJR線に余目駅として地名が残る。旧町名でもあり、戸数が50以下であったということが想像がむずかしいほどだ。
 ちなみにその余目駅構内ではその”余目”の由来について、
"治歴年間(1065-1069年)、この辺りは陸奥国信夫郡余目の荘司、佐藤清郷の領となりました。佐藤氏は佐藤知基に当地に城を備えさせこの地に家郷の名を移し余目になったと言われています。"と、紹介している。信夫郡の佐藤氏は源平の合戦(1180-1185)で義経に従い活躍した佐藤兄弟が出た一族である。そうすれば、余目は信夫郡由来ということになるかもしれない。さらに、御殿町地区隣接の八幡神社(町地区)にその佐藤家の屋敷があったと考えられるのが自然なように感じる。佐藤氏の統治は1065年から1189年までと考えられているので奥州藤原氏の影響があったのだろう。ちなみに余目地区には2つの八幡神社があるが上朝丸地区の八幡神社のほうが古いという言い伝えがある。

 漢字からは読み方を推測しにくいものがある。地名には古くからの読み方(音)に、意味のない同じ音の漢字を当てたと考えられるものも多いからだ。そんな読みのむずかしい地名を地元の人に聞いたり、聞いて納得させられることがあったり・・・地名を知るのもおもしろい。

春の月山(余目地区南側から望む)春の月山 <余目>








Last updated  2021.08.28 22:38:54
2008.03.17
カテゴリ:出羽国の地名
車で知らない土地をドライブしたり、地図をみたりしているといろいろな地名に出会う。知っている地名と同じだったり、その地名から由来を想像できるのが面白い。
 地名には古くからの言い方に漢字で当て字されたとおもわれるものもあり、むずかしい地名の読み方を地元の人に聞いて驚くものがあったり、妙に納得させられるものもある。地名から由来を調べて歴史を知るのもおもしろい。
 道路標識では漢字とローマ字で表記されていることが多いが、運転をしながらだと見落とすことも多い。地図にはふりがながふられていないこともある。地名の漢字表記からだけでは正しい読み方がわからなかったりする。


古代蝦夷(えみし)
 ところで前回紹介したの本の中で”前田野目窯跡”群というのがでてくる。
青森県五所川原市の遺跡である。10世紀中葉から11世紀にかけて須恵器を大規模に生産した窯跡だそうだ。そこでつくられた製品(須恵器)は東北北部だけではなく、とおく北海道全域にまで及ぶという。
37年戦争の前、大和の支配が及んでいない時期のことだ。
 
 前田野目と書いて、”まえだのめ”とふりがながあった。どういう意味があるのか? 読みや字からは由来はわからなかった。

 ここと同じ地名が出羽の国にもある。これを見て親近感がわいた。
山形県庄内町の西側の部落(集落)で、最上川京田川に挟まれた場所にある。
庄内平野に点在する、よくある部落(集落)の1つである。前田野目と書いて、”まえたのめ”と読む。

 しかし、地元での実際の呼び方は”メダルメ”だ。
まえ”を”めぇ”と言う事と、た行は濁音なることから"MAETANOME"は "MEDANoME"となるし、縮めて言う言い回しから”MEDARuME"になったのだろうと推測する。方言の響きがとてもよく好きな地名の1つだ。

 近くには古郡(ふるごおり)平形(ひらかた)など、平安時代、出羽の国の国府があったと推定されている場所にも近い。

 なぜ、青森と同じ地名が同じなのか?どんな意味なのか?蝦夷の時代に交流があったのか?
想像を掻き立てさせられる。もしかしたら、ここも古い地名なのかもしれない。


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Last updated  2021.03.23 22:36:39
2007.10.29
テーマ:本日の1冊(3577)
カテゴリ:出羽国の地名
“出羽”と“出雲”との“地名の云われ”を比較をしてみたい。
引き続き「野見宿禰(のみのすくね)と大和出雲」の本の内容から。

 まず、作者の言語学の友人(松本俊吉氏)からは、
「地名の語源は、すでに大昔の古代に忘れられ、行方不明になっている代物で、『風土記』の由来説は、ほとんどがダジャレか、後に創作されたものである。荒唐無稽なんだから、まともに取り組むことはない・・・・文字のない日本の欠史時代の言葉は、後世の当て字にとらわれることはしてはいけない。」とアドバイスを受けたことを紹介する。

 “出雲の地名の起源説は、「出雲風土記」の冒頭に、「出雲との名づけるゆえ(いわれ、理由)は、ヤツカミヅオミツノノミコト(記紀ではスサノオ)、『八雲立つ』と詔りたまひき、故に八雲立つ出雲という」と記載されていることについて、これは「まるっきり“イヅモ”の語の説明になっていない」、とその説を採るならば"立雲?"とされるべき内容だとする。

 そして、大和の出雲村が 初瀬川のほとりにあり、長谷寺のある谷あいから湧き上がってくる積乱雲を“八雲立つ(出る)、出雲八重垣・・・“の雲の様子を見て出雲の字のイメージとぴったりの場所でありその場所と風景のイメージから"出"と"雲”の字が使われたと考える。

 もう1つの説として、西脇順三という詩人がいう「出雲の語源は、大和から眺めて“遠い端(つま)にある国”という支配者が名づけた意味が含まれていた」という説を紹介する。
「出雲(いずも)は、信州のアズミ(安曇)、関東のアズマ(吾妻)、三河のあつみ(渥美)、
九州のサツマ(薩摩)と同様に、倭(大和)からみた、ツマ(端)で“遠いはるかな端にある”という意味が含まされた。」という。


 それでは、「出羽の国」について考えてゆきたい。非常に出雲とそれぞれの説が似ている。
 いままで云われてきた“出羽の国の地名の起源説”には、いくつかある。

1、越後国の北部に突出した出端(いではし)の意味の出羽(イデハ)。
2、允恭天皇に鳥の羽を土地の産物として献上したから。
3、i (夷) te (人) ba (地方、領土) すなわち、「夷人の領土」。

など。百科事典などでは<1>の説をとっているものが多い。

 出羽の国に関しても、総じて"後世の当て字にとらわれることはしてはいけない"の松本氏のアドバイスのとおりに考えてゆく。

 <1>について、“いでは”が“出端”であるならば、あくまでも“いではし”の表記になり“伊テ波”にはならなかっただろう。(※テは表記できず、氏の下に_の字)

 <2>については、出典が類聚鈔の記載であるが、資料的な根拠はないともいわれている。

 <3>については由来がわからない。千葉県南部には“夷隅”のような地名があるので“夷住み”のように考え、これに近い意味とかんがえたのだろうか?少し内容的にこじつけが強い感じがする。

 くりかえしになるが、“出羽”という漢字(当て字)にとらわれていけない、という前提で考えたい。

 ”端(つま)”や”出”の表記を漢字にあてはめたとしても、本来の付けられた地名の意味ではないだろう。例えば”アズミ””アツミ”は、”安曇・渥美・温海・熱海”など漢字表記をかえれば、他にも多くの表記が可能だ。
 さらに、出羽も含めて、出雲、吾妻、あつみ、などの多くの意味がすべて奈良から”遠い”という意味だけなら、あまりにも表現力が乏しい。また、そんなマイナスのイメージをもつ地名が 長く自ら人々が好んで使う地名になるのだろうか。疑問が残る。

 東北にもアイヌ文化があったとされ、東北、関東にもアイヌ語の地名があると考えられている。もしかしたら、“アイヌの言葉”でそれぞれの地名が解読できるのかもしれない。今回、アイヌの言葉での意味まではわからなかった。

 今回の考察の結論として出羽という地区が"いでは"と呼ばれた、音のみが大切である、そして、残念ではあるが、地名の語源は すでに大昔の古代に忘れられ、いまも不明になっている、とのみ言えそうだ。







Last updated  2021.10.02 14:46:19
2007.10.13
テーマ:本日の1冊(3577)
カテゴリ:出羽国の地名
出羽”と“出雲”の国名を比較してみたい。
(「野見宿禰(のみのすくね)と大和出雲」の本の内容から・・・ 以下、出雲についての記述はこの本からの引用である。)

“出雲国”という文字の所見は、島根県平田市にある鰐淵寺観音立像、持続3年(648)/(おそらく誤記で、持統6年(692))の台座銘に出てくるのが初めだそうだ。

“出雲”は、万葉仮名では“伊豆毛”と書く。中国から日本に漢字が渡来したのは5世紀ごろとされている。

(日本の地名は)日本語で口伝えで行なわれたはずなので、地名に新しく入ってきた漢字を当て字された、と考えられる。文字で地名が表記される時(頃)には、すでに地名の語源(語義)が不明であったものもあるだろう、当て字された文字は、本来の意味が失われている場合があるかもしれない。

 律令制の下で、和銅6年(713)“1文字あるいは3文字の地名を2文字に統一するように、という命令” があった。古代、国家形成過程に、支配者が強権をもって、大昔からの、言い伝えられてきた地名の文字を改定させたことがあった。


 以上の内容を踏まえて 出羽の国を比較して考えてみたい。

 出羽の国が文献上、初めて出てくるのは「続日本紀」の和銅元年(708年) “新しく出羽郡を建てる、これを許す”の記載だと言われている。
しかし、ほかの文献(倭名妙、延喜式)などの記載から平安時代までは”出羽“は、“伊テ波(いでは、あるいは、いては)”と読んでいたともいわれる。

 ”出羽郡”は、和銅元年(708年)に 越後国の一部としてつくられた。ほどなくして和銅5年(712年)には” 出羽国”がつくられ、尾張、上野、信濃、越後などから和銅7年(714年)から養老3年(719)年まで4回、累計1300戸の柵戸(さくこ)といわれる移民があったとされる時代だった。

 和銅6年(713)の律令制の地名変更命令の前後の時期だけに“出羽”の地名に関しては万葉かなを使って表記するかどうかの微妙な時期にあったことが想像される。文献上、古い出羽の地名は、“出羽”と“伊テ波”の表記で混在するようだ。

 “出羽”はもともと“イデハ”と読んだ地名に“伊テ波”と万葉仮名をあて、律令制の理由から、“出羽”の2字があてられ、その文字から ”でわ”と呼ぶようになったと考えられるだろう。ちなみに“いては”と “いでは”を考えた場合、方言では濁点でにごる言葉を多く使うことを考えると“いでは”が自然だ。また、“イツハ”と書くのは、“出羽”の読みからくるもので、この経緯からは少しはずれるように思う。

 ”つ”と”て”は弱く、聞き取りのにくい発音で東北の言葉(なまり)をうまく表現できていないことも考えられる。もともとの”出羽”の呼び方にもっとも近いと思うのは“イデハ”もしくは“イズハ”だろう。

 “出羽”と“出雲”は、同じ“”という漢字を持ち類似の感じがする。それは、日本海沿岸というお互い同じ文化圏にあったことや、記紀などの作成の時の権力者に対して同じような立場(遠い位置)にあったことなどから、偶然とはしないで共通の字があてがわれたと考えることもできるのかもしれない。

 次回はそれぞれの地名の意味について考えたい。

 







Last updated  2021.10.02 14:46:57

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