月光院璋子の日記 beside you

2007/10/18(木)05:44

死刑廃止を求められた免田さん

眼差し(176)

国連本部で16日、死刑制度の廃止を求める国際NGO主催のイベントが開かれ、 死刑確定囚として日本で初めて再審・無罪判決を勝ち取った免田栄さん(「免田事件」の被告だった方です。)が、国際社会に死刑廃止の必要性を訴えらえたというニュースに接し、 改めて考えさせられます。 (現在81歳の免田さん) 報道では、イタリアなどが国連総会に提出を目指す死刑執行停止を求める決議案を応援するため、国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」が開いたようですが、そこに免田さんは米国とウガンダの元死刑囚とともに出席。 「私にはアリバイがあり、物証もあったが無視された。暴力で自白を強要された」「獄中で多くの死刑囚を刑場に見送ったが、そのほとんどが裁判に不満を持っていた。冤罪が絶えない限り、死刑をなくすために行動したい。死刑廃止は私の念願です」 と話されたその胸中を思うと、 重過ぎる思いに沈黙してしまうわたくし---- 以前もブログで書きましたけど、 何が恐ろしいかと聞かれて、冤罪が最初に思い浮かぶ人間だから。 イタリアなど37カ国が、このモラトリアム決議案を起草。 全加盟国に対し、死刑廃止を視野に即時に死刑の執行停止を求める内容になっているようですが、これが今月中にも提出され、人権問題を扱う総会第3委員会で協議される見通しに。 総会では欧州を中心に20カ国以上が、モラトリアム決議案を支持する見通しだそうですが、大票田のアフリカやアジアの国々では、文化や宗教観、現在までの政治的状況から、死刑制度支持の国が多いという状況なので、来月11月2日までに総会の第3委員会(人道と文化)にかけられ、そこで採択されれば総会にかけられるという流れながら、採決がどういったものになるかは不透明な状況----- その起草案を読んでいないので、委細は分かりませんけれど、 制度としての死刑廃止を求められる方たちの中には、ある特定の宗教上の信念から導かれて廃止論を唱えられる方たちも少なくないように思うとき、宗教や文化、死生観や罰概念の異なる国や異なる人たちに対する理解と尊重の気持ちを、そうしたマナーを前提にして論議していただきたいという思いをわたくしは持ってしまいます。 免田さんは、「この世に冤罪が無くならない限り、死刑はあってはならない」というお考えのように思われますが、わたくしはその考えには同意する者です。 けれど、こう考えるわたくしにも、「冤罪がなくなる状態になったならば、死刑もあり得る」という含みがあって、死刑の執行停止猶予は、裁判制度や警察捜査の課題の解決、そして犯罪被害者の救済、報復感情をどう解決するのかといったものと抱き合わせでなければ、モラトリアムの意味を成さないのではないかと。 今回の起草案は、さまざまな状況にかんがみて、 まずは死刑執行無期限猶予ということなのでしょうけれど、いずれは全世界で死刑制度廃止の実現を目指したもの。けれど、わたくしたしの社会が英知を集めて「冤罪がなくなる、冤罪をなくす」ために出来ることをすべて行い、冤罪防止を制度化できたとしても、もし冤罪を意図する人間が存在すれば、冤罪はなくせないものだと思っているわたくし。 「冤罪があるかぎり、死刑はあってはならない」という思いが、 「冤罪はなくならないから、死刑制度はあってはならない」となったとき、 その意味は大きく変わってきます。 それも、また冤罪同様に理不尽で恐ろしいと思うわたくし---- なぜなら、被害者側に立つことになったとき、愛するもの命と尊厳を非道きわまりない残虐な方法で奪われたとき、報復感情以外にわたくしを支える道がわたくしには容易には見出せないからです。奪われた命のことを思うとき、奪った側には自分の命であがなってもらいたい。 ある詩人が歌ったように、愛するものが死んだとき、 残された側として「それでも業が深くて生きながらえることに」なり「奉仕の気持ちに」なる道を生きられるかどうか、それは愛するものの死が、いかなる死であったかに左右される。 死刑制度廃止論に関しては、いまなお、 わたくし自身、モラトリアムなゆえんです。 重い重い問題ですけれど、 考え続けていかなければいけない問題の一つだということだけは、 自覚しています。みなさんも、お考えください。 死刑制度は必要だという存続派の方も 死刑制度はあってあならないと廃止を望まれる方も、 こちらをクリックしていただければ、幸いです。     ↓

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