カテゴリ:川柳
俳句には<業俳>という言葉があるが、川柳にはない。
歴代川柳嗣号者の中でも、川柳を生業とした人は少ない。 まず、初代川柳は、浅草新堀端龍宝寺門前の名主が職で、点者は「遊」であったろうか。年齢的には、引退後の専業ともとれる。そのためには、息子が門前名主を継いだという各章が欲しいのだが、それは未だなく、通説として初代川柳は、門前名主の<副業>のようにいわれる。もっとも、名主という公職の副業は許されないので、そのへんはしっかりと研究、考慮する必要があるだろう。 二代目川柳は、柄井川柳の息といわれるが、川柳風一派によって<草庵>を設けてもらっている。まさに業俳を生きたひとになるだろう。 三代目川柳も、柄井川柳の息といわれるが、武家勤めであり、二足の草鞋は履けない(スキャンダル引責説もあり…)と、早々に隠退している。 四代目は、八丁堀同心・人見周助で、これも公職の副業。後に職を取るか川柳を取るかで隠退を迫られた。業俳になりきれなかった人だ。 五代目、六代目は佃島の魚問屋主人。 こうして見ていくと、人生における生業をリタイアした人以外、<業俳>として活躍したのは、二世川柳と九世川柳ぐらいなもので、川柳で生計をたてる難しさは、昨日今日はじまったわけではないといえる。 明治の川柳中興以降の川柳家を見ると、職業川柳家と称しているひとが幾人かいる。 まず、阪井久良伎が挙げられるが、大資産家で、特に生業に就かなくても川柳活動ができたことを考えると、プロ川柳家ではなかったのではないか。 その点、井上剣花坊は、資産を持っていなかった分、川柳での活動が収入源であり、こちらこそ職業柳人といえるだろう。本人は職業を「川柳作家」と書いている。 その他、川柳を生業とした人は、「昭和川柳百人一句」の職業欄から拾うと、 職 業 阪井久良伎 : 川柳業 井上剣花坊 : 川柳作家 海野夢一佛 : 著述と川柳 近藤飴ン坊 : 川柳家 高木角恋坊 : 川柳詩人 小田 夢路 : 番傘川柳社評議員 釜永 睡花 : 川柳作家 川上三太郎 : 川柳家 麻生 路郎 : 「職業川柳人」宣言 塚越 迷亭 : 川柳作家 中村 山門 : 柳誌「川柳倶楽部」発行 ぐらいだ。戦後には、尾藤三柳と時実新子が職業川柳家として、社会的にも大きく飛び出したが、俳句界では食えても、川柳界において川柳だけで生業となったのは、この他に齊藤大雄先生くらいだろう。 かくゆう私は、三柳の真似?をして、45歳で脱サラを目指した。 といっても、体力的に長距離通勤が辛くなったことと、中間管理職の仕事上のストレスから、精神衛生上サラリーマンを継続するのが難しくなるという身体的原因もないではなかった。 そして3年目の今年、確定申告において川柳での収入がその他の収入(美大講師、デザイン・出版業)よりも多くなりそうな状況になってきた。川柳での収入は、雑誌の原稿料、公募川柳の選者料、川柳講演料、出演料など、川柳をベースとしたもの。 これで、少しは胸を張って「川柳のプロ」宣言ができそうな状態になってきた。 もちろん、プロ川柳家としての責任は重い。単なる一作家として、自分の主張だけをアピールしているという事ではすまなくなる。川柳に対しては、より客観的視野と、川柳史観に通達した価値観により、広く川柳に対処しなければならないだろう。 そのためには、更なる研鑚がひつようであり、一生学ぶ姿勢を求められるだろう。 <業俳>…私らにとっては<業柳>かもしれないが、川柳も広く見れば俳諧からの芽であり、<業俳>といえるまで、幅広く遡った部分までの力を持たないといけないのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年01月19日 23時39分34秒
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