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あの小田さんが亡くなった。貴重な人がまた一人いなくなり、さびしい限りである。
ベストセラーになった『何でも見てやろう』は実に快著であった。夢中で読んだ。当時中央公論に連載されていたアメリカの田舎探訪記もよく読んだ。 小田さんはやがて最強の言論人となり、反対派の論客でも、小田さんにはおそれをなして、フォーラムなどに同席をさけるようになった。 知研で教育の本をつくったとき、数人の論客の中の一人として対談に参加していただいたが、東奔西走の忙しさで40分ほどで退席されたが、発言は一語一語鉄鎚を下す感があった。 その後、知研の講演会にお出で頂こうとさかんにワークしたが、なかなか連絡がとれず、ついに代々木ゼミナール(当時彼はここの講師をされていた)の裏出口で待ち伏せして交渉したが、このときは実らなかった。 それからしばらくして、やっと実現した。しかし、このとき、小田さんの不興をかってしまった。というのは、会場までタクシーでおいでください、と甘く考えていたところ、「お前のところはなんだ。おれがわざわざ神戸から来たというのに迎えに来ないのはけしからん」とさんざんしぼられた。小田実と聞けば、大新聞社でも中央公論でも編集長自ら社用車でかけつけるということを知らなかったので大恥をかいたわけである。さらに聞くと、同じ日に東京で他の用件があったのが、キャンセルになったので、知研は「ついで」だったのが、知研のためだけにわざわざ神戸から来られたわけだったので、まったく恐縮したわけである。 講演は素晴らしかった。終わってダイヤモンドホテルで久恒さんと3人で食事した。私は30年近くもずっと小田さんのファンですと一生懸命釈明してすこし機嫌をなおしてもらった。 神戸に帰られてから奥様(韓国出身の方)にお礼の電話をしたら、この奥様という方が実にソフトなすばらしい方であった。 それからは、知研の機関誌をずっと送っていたら、知研の活動を評価されたのか、2,3行のごつい文字のハガキを頂いた。関西支部でも講演していただいた。 小田さんは背丈180センチ以上あろうか。格闘家を思わせるほどの頑丈な体つきで、こう言っては失礼だが、容貌魁偉、一度みたら忘れられぬ姿である。こんなにオーラが出ている迫力の人はまずいないだろう。 小田さんの原点は大阪の空襲を身をもって体験したことにある。以来、「殺される側の論理」被害者の経験に立たないと何事も真実は見えないというのが持論であった。まことにその通りである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/07/31 02:29:49 PM
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