棗田 信夫先生の事

 棗田 信夫先生は私に英語を教えて下さった先生だ。年子の姉がどういう経緯か通っていた英語の塾の先生で、あの頃で何歳だったのか、足が幾分不自由で白髪、流暢な英語を聞かせて下さる先生だった。声がよく学生時代にはグリークラブで活動もされていたらしかったが、それよりも学生時代の思い出といえば、決まってラグビー部の事が話題に上っていた。

 棗田塾はご夫婦で運営される小さな個人塾で、7~10人のクラスが各学年2クラスずつ計6クラスほどの塾だった。できの良かった私は!?経験がないが、或いは不都合な記憶を追い出してしまったせいなのか、それは定かではないが、ある程度までの習熟度に到達しなければ、居残りあり、日曜出勤ありの極めて良心的な塾だった。それは、後に知る事になったのだが、先生がひたすらに“人間の平等”を求めてやまない精神の持ち主であった事に起因していたようだ。

 さて、そんな和気あいあいとした塾の授業を背景にして、私の脳裏に何度もよみがえってくる音がある。それは先生がお湯飲みにお茶を注がれる音だ。足の悪かった先生は椅子に腰掛け、小さなブランケットをひざに掛けて授業に臨まれた。毛足の長い暖かそうなスリッパもいつもの出で立ちだった。椅子から立ち上がる事を出来るだけ避けるためか、和室にチョークの粉が飛散するのを避けるためか、黒板の代わりにザラ半紙を何枚も綴じて、そこに板書をされていた。机の上には決まって急須と湯のみがあり、時折のどを潤すためにお湯飲みに注がれるお茶の音が教室に響いた。

 不思議なことに40才を過ぎた今でも、お茶を注ぐ音を聴くと決まって思い出すのはあの棗田塾の授業の光景で、死去されて20年近く経つというのに、ひざにブランケットを掛けにこやかに授業をしておられる先生の姿が脳裏に浮かぶ。

 これほどまでにはっきりとイメージできるのは、あれが思春期の多感な時期だったからなのか、理由は解らないけれど、今でも私の心を安らげてくれる思い出の一つには違いない。そして今、娘が同じ塾でお世話になっている。


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