幻泉館日録@楽天

2004/06/16(水)23:29

岡林信康「アメリカちゃん」(1969年)

音楽(1438)

以前から疑問に思っている言葉がある。 たとえばどういうわけか、幻泉館周辺では害虫駆除のために殺虫剤を撒布することを「消毒」というのである。 違うだろ、それは毒を撒いてるんだろ、といつも思う。 うちの猫が心配である。 「殺菌消毒」というようによくセットで使うから、「殺菌=消毒」という間違った刷り込みが行なわれたのだろう。 殺菌とは毒消しではなくて、毒を塗布したり撒布したりすることだ。 それがさらに「殺虫=消毒」と増幅されたのだろう。 殺虫剤の毒性を隠すための、意図的な誤用かもしれない。 法律の名前になってしまっているが、「地方自治」も間違いだと思う。 これはたとえば、local governmentやmunicipal governmentの誤訳が定着してしまったのではないだろうか。 これも誤訳じゃなくて、わざと、かな。 こんな言葉はないけど、誤解に対する曲解のように、「曲訳」。 localやmunicipalはある限定的な「地域の」という意味を表わしているのであって、断じて中央に対する地方ではない。 「自治」の方も二種類意味があって、住民が自らの意志で決定するという意味の「住民自治」と、中央政府に対して地方政府が自立的に意志決定するという意味の「団体自治」がある。 本当は「団体自治」のことなのに、「住民自治」と勘違いさせるような用法が多い。 う~ん、こいつも誤用じゃなくて、意味のすり替えをわざとやっているのか? ま、「地方自治」なんていいかげんな言葉が大手を振っているかぎり、ニッポンでは地方自治なんぞ実現しないということらしい。 そしてネットをうろうろしていて気づいたのは、「差別用語」という言葉を使う人は、差別というものに対して無自覚に言葉を用いることが多いらしいということだ。 googleで「差別用語」を検索すると、サンプルが見つかるだろう。 これに気づいたのは、あの今は亡きLycosダイアリーの自称論客たちがそうだったから。 放送や出版の世界にそういうリストがあると思われているのだが、正確には「差別用語」ではない。 言葉狩りだと言って差別糾弾闘争を批判する人がいるが、実際に言葉狩りを行なうのは、「差別用語」があると思って、自主規制を行なう者たちである。 差別的な言葉の用い方は、もちろん存在する。 その場合は差別語という言い方もできる。 しかし、「差別用語」などという、安直な用語は存在しないのである。 今私は「自称」という言葉を非常に差別的に用いてしまった。 すまん、オレはいやなやつだ。 「自称論客」などといういやらしい言い方ではなく、「ファシズムの露払い」「権力の番犬」と、わかりやすくストレートに言ってやるべきだった。 「自称」に関しては、以前新聞記事で驚いたことがある。 のどかな県で起きた些細な事件でつかまった人が「自称哲学者」と書かれていたのだ。 だいたい私は「詩人」や「哲学者」という肩書きに憧れていた。 なぜかと考えたら、実は今の日本にはそういう職業が存在しないからだということに気づいた。 詩人や哲学者はいくらでもいるじゃないかと思われるかもしれないが、本当にそうだろうか。 職業詩人として生活できる人は、谷川俊太郎さんぐらいではあるまいか? おおむね「詩人」「哲学者」は、職業としては大学の先生であったり、雑文書きで糊口を凌いでいることが多いようだ。 つまり、それでは生活できないから、私は憧れたのだろう。 流行らない喫茶店のマスターみたいなものである。 漱石の「猫」に出てきて実業家の悪口など言っている、あの素敵な面々。 実際は職業ではなくて、誇りとか名誉に近い。 だからこそかっこいい。 そんな風に思っている者に最も大きな打撃を与えるのが、この「自称」という接頭辞である。 万が一私が些細なことで塀の向こう側に行きそうになったりした時に、「自称詩人」「自称哲学者」「自称ヒマな喫茶店のマスター」などと報道されたら、私はもう二度と立ち直れないことだろう。 ああ、本当は「放送禁止歌」を語りたかったのだが、失敗。 「替え歌」つながりで、以前Lycosダイアリーに書き込んだものを掲載しておきます。 岡林信康「アメリカちゃん」。 関西フォークの第一世代である高石友也&岡林信康は、共に壁にぶちあたって蒸発したり、アメリカに行ったりします。 私がこの人たちの歌を聴いたのは、その後のことです。 中学生の時に同級生からそのお兄さんの所有物であるレコードを借りました。 ビクターから出ていた『岡林信康の世界 第2集』です。 一晩で返さなければならなかったのですが、まだテープレコーダーを持っていなかったので、何度も何度も繰り返し聴いて歌を覚えました。 数年前に中古で第1集と第2集を手に入れて、手製復刻CD-Rを作りました。 初期岡林信康はいわゆる「放送禁止」曲の宝庫でした。 以前東芝EMIが出したURC音源の復刻CDにも、こっそりと消された曲があります。 「はっぴいえんど」がバックを演ってるために傑作ということにされ、若者が買ったりしていた『見るまえに跳べ』(1970年)。 「ロールオーバー庫之助」がカットされました。 早川義夫さんの作品なんですが、ヒット作曲家だった浜口庫之助さんを揶揄しているため、ギョーカイ人が自粛しちゃったという感じ? (え~い、尻上がりにしゃべるな、気持ち悪い!) 同様に、『岡林信康自作自演コンサート 狂い咲き』(1971年)からは「ヘライデ」がカットされています。 もちろん皇室を揶揄した歌詞だからです。 『狂い咲き』CD版には、「この作品は1971年に録音されたものであり、当時の音楽背景を知る上での貴重な音源として復刻しました」と書いてあります。 ところが、あらあら、こっそり1曲消してあるのね。 どんな曲をなぜ削ったのか書かなければ、「当時の音楽背景を知る上での貴重な音源として復刻」したことにはならないでしょうにね。 東芝EMIのやり口は汚いと思います。 こういうアルバムは結局苦労してLPとCDの両方を入手するのでありますよ。 ついでに書いておくと、『1969 京都フォーク・キャンプ』というアルバムも、オリジナルのURC版LPと東芝EMIから出ていたCDは、選曲も曲順もまったく違うものでした。 2003/03/06(木) アメリカちゃん♪ 趣味日記-音楽,感想日記-社会問題,感想日記-音楽 時節柄、岡林信康さんの「アメリカちゃん」など思い出してしまいました。 1969年6月にURCが会員配付したLPに入っている曲です。 アルバムはA面が『岡林信康リサイタル』、B面が『休みの国』で、B面はCD化されています。 「アメリカちゃん」はこのレコードだけにしか入っていない幻の名曲(?)なんですが、替え歌の寄せ集めなんで復刻しにくいのでしょう。 WOWOWが90年代初めにやっていた番組で、永遠のフォーク少年坂崎幸之助&なぎら健壱の「東京フォークジャンボリーズ」が演ってくれました。 歌詞を一部消してましたがね。 レコードから聞き取ったものをメモしておきます。 岡林信康「アメリカちゃん」(1969年) (語り) これは世界の警察国家、世界の平和の守り神であるアメリカを誉め称えあげる歌である。 おお、偉大なるアメリカよ! あほらしこっちゃ。 ♪♪(主メロ) アメリカちゃん、アメリカちゃん、平和のために頑張ってや ほうれん草のポパイちゃん、金のベルトのバットマン 雨にも負けず、風にも負けず、男一匹どこへ行く アメリカや~、太郎 ♪(人生劇場) 義理が廃ればこの世は闇だ (語り) 泣くんじゃねえ、泣くんじゃねえ アニキゃ暗殺、弟もやられ、末の弟エドワード、こんな一家に誰がした ♪(アメリカ国歌) 頼まれへんのに平和を作ると、爆弾落とし地獄を作る ♪(思い出の赤いヤッケ) いつの日にか、このベトナムが 僕のものになると思ったが けどもうやめた、やめた~ ♪(スーダラ節) ちょいと半年のつもりでやって いつのまにやら泥沼へ 気がつきゃドルはスッカラカンのパ~ラパラ~ 戦争で銭儲けしたやつぁないよ わかっちゃいるけどやめられない あほれ ♪(新聞少年) 僕の名前を知ってるかい でしゃばりジョンソンというんだよ~ 戦争始めてもう5年 今じゃベトコンに追い出され~ ♪(ヨイトマケの唄) 苦労、苦労で死んでった~ 母ちゃん、見てくれ、この姿~ 父ちゃん、見てくれ、この姿~ ♪(からすの赤ちゃん) サトさん、サトさん、なぜ泣くの~ ジョ~ンソ~ンのおじちゃんの 核付きミサイル欲しいよ~ 原子力潜水艦も欲しいよ~ と、アンポ、アンポ~、泣くのね~ (♪♪ 繰り返し) アメリカばんざ~い!

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