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カテゴリ:音楽
今日楠勝平さんのことを思い出したのは、夕陽を見にいった帰りにふと自分が自然の中に溶け込んでしまうような感じがしたから。
五つの赤い風船に「美しいものは」という曲があるけど、それに近い感じ。 ♪ 山を見ていると ♪ 家も車も道も 何もほしくなくなる ♪ 私もいなくていい そう、私もいなくていいという、この感じ。 すっと夕焼け空の中に自分が溶け込んでいって、それで何もなくなる。 そこに美しいものが残っているのだから、いいじゃないか。 現実感覚の喪失というのは非常に危険なことなんだけど、いつからかそんなふうに生きてきたように思う。 不思議なことに、ぎらぎらと感受性が痛かったころには、むしろ日々の生活に現実感があったようだ。 自分の周囲に確固とした現実社会があるように感じていた。 その中で他人の痛みのわからない王様になっていたのだろう。 いつどこでそれが崩れてしまったのかわからない。 学校を卒業するのに就職活動をしなかったという時は、もうそうなっていたのだと思う。 ソルジェニーツィンが『イワン・デニーソヴィチの一日』で描いた主人公のように、目の前のことだけを一所懸命にこすっからくがんばってしまう。 一週間以上先のことはわからない、考えない。 これが二十年以上続いてきたような気がする。 現実感覚が希薄なので、あまり恐いものはない。 元が小心者なので、人前で話をしたりするのは恥ずかしいのだが、世間で恐いとされているようなものには恐怖感を持たない。 どこかの組の親分さんと話をした時も、筋を通せば大丈夫だとにこにこしていた。 チンピラ君たちにはからまれるといやなので近づかない。 接近遭遇してしまった場合も、わあわあ吠え立てる声はどこか遠くで鳴っているようで、あまり意味をもたない。 うるさいなあと思うだけだ。 相対化の罠と言えるかもしれない。 絶対的な価値観を持たないと、なんでも、どうでもよくなる。 不思議に目の前の仕事だけは一所懸命やろうとするのだが、それが失敗に終わっても本当に残念だとは思えない。 それで生きたと言えるのか? 自然の美しさに接すると、この暮らしの軽さが本当に重量を失ってしまう。 ふっと存在が消えて、それで幸せでも不幸でもなくなる。 自殺未遂者に対して説得力のある言葉を持っていないというのも、おそらく同じことだったのだろう。 長い時間をかけて、どうすれば相対化の罠から抜けることができるかという解答は得た。 ここでは書かないが、今やっとそこから抜け出せそうなところまで来たのだと思う。 もう遅すぎたのかもしれないが。 少しずつ身の周りを片付けておかなくては。 さて、俺の借金全部でなんぼや? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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