カテゴリ:つぶやき
先日、お昼にお客様をお招きして 簡単なランチをおもてなしさせてもらった。 私は事前に食べられない食材があるかどうかだけを確認した。 いつものように、私たちが今一番おいしいと思うモノを作るのが 最高のおもてなしと思い込んで、お客様をお迎えした。 「いつもこんなゴハン食べてるんですか~?」 「これ全部手づくりですか?」 「うちは奥さんがご飯作らないというか、作れないんです。」 「おいしいですね~、今日はいっぱい食べちゃいました。」 帰られた後、 「事前に準備をしてもらったと思うと嬉しくて、幸せなお昼ご飯でした」と。 あ~、完全に間違えてしまった。 お料理はもっとシンプルであるべきだったし、 天然酵母のパンにしても私たちだって、ここまで作り込んで重ねて食べて やっと知った美味しさなのだった。 このところのお客様方の嬉しくなるほどの食べっぷりに すっかり慣れてしまっていた私。慢心を反省。 彼に会うのが2回目だろうが 私は今おいしいパンを作ることに心を砕いていようが そんなの全然関係ない。 言い訳の余地などなく、大失敗である。 おいしさは、くつろぎの中にこそ生まれる。 ゲストがくつろげる度合いを、事前にもっと注意深く見計らうべきだった。 彼は、そのおいしさを私たちの半分も味わっていなかったに違いない。 準備が嬉しいなんて、聞いたことがナイよ。 こちらのやり過ぎは、おもてなしじゃなくおしつけ。 私の自己満足でしかない。 もう二度と同じ失敗をしないようここに書き記して、 それで少し楽になることにした。 +++++++++++ ベトナムから戻ってすぐのころは、電車に乗るのがとても苦しかった。 ”なんでみんな、あーいう(ヴィトンとかの類)カバン持ってるんだろう? あのカバンを持って、どこへ行くんだろう?”と観察し始めると、 何かがひとつかふたつ余計に思えて、靴までが綺麗過ぎると 一瞬、ここがどこだかわからなくなる。 密閉されたままの空気を吸うのが辛くて、気持ちが悪くなるパターン。 ずい分と時間も経つし、 そういう異国戻り的な視線は、もう持っていないけど この頃は、こんな風。 ”どうしてそんなに要るんだろう?”。 たとえば、お皿として。 丸くて、硬くて、平らで、時々深さがあって、食べ物をよそえればいい。 (”よそう”って”装う”からきてるんですよね。だけど・・・) そんなに要る? 違う種類のものまでを所狭しと積み重ねてあるようなパッツパツの食器棚よりも ほどよく隙間を保っている、風通しのよい食器棚のほうが安らぐ。 (余談:隙間と言えば・・・。 天然酵母のパンは、隙間の空気がおいしい。 形を持たないその気泡がおいしさを包み込んでて、 噛み続ける限り・食べ終わっても、ずっとおいしい。) 隙間は、意識し始めると、ものすごく繊細ではかないくておとなしい。 だけど、絶対そこに在るもの。 だんだん、だんだん引き算。 何事も、たくさんは必要なくなってきた。 ”手に入れる”より”手放す”の方が、なんだか成熟してる。 やり過ぎもあり過ぎも、外(ほか)を向いているから、か。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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