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カテゴリ:ちょっと思うこと
一応、自分なりの答えがまとまった所で、お返事を書いていただいた大使館へ、お礼と、私なりの解釈を書いて送りました。
以下参照。 先日は、迅速なお返事をいただき、大変感謝しております。 その後、北海道の北東部にて建築業を営む知人からの暖房手法の変遷の話を伺い、また北海道の友人の中には、実際に27℃以上の室温で過ごしている家庭があることも知りましたし、北海道における暖房の歴史もWeb上の情報で知りました。 最初に北海道に住む人の室内の温度設定がやや高いということに何か特別な訳があるのか?寒い地域に住むということの何かが、そうさせるのかについて疑問を感じ、調べ始めましたが、北海道の平均値ということでは21.55℃という調査も出ています。 この程度であれば驚くほどではないのですが、同じ北海道といっても家によっては25℃を超えて暖房することもあると聞いて調べてみようと思ったわけです。 そんな時、現在北海道に住む多くの人たちのルーツが幕末から明治時代にかけて移住した開拓民であるということが理由になっているのではないか?と着目してみました。 本州の比較的温暖な地域の家屋建築と暖房手段を北海道に持ち込んだ大和民族にとって、北海道の寒冷な気候に対し、賢明で充分な対策をすることが出来ない経済的理由が主にあったのではないか?とも考えられます。 また、温帯に属する日本の南部や関東地方の在来の建築様式は断熱性や気密性に著しく欠け、寒冷地にはまったく向いていないものであったこともその原因のひとつになったことが伺われます。 裕福な人々が夏の避暑地を求めて北海道に移住したわけではなく、たくさんの人が開拓民として移り住むという時代には、何世紀もかけて寒冷な風土の土地に定着し、そこの気候に適応した人々と同じような暖房の思想や手法に、すぐには到達出来なかったと思われるのです。 つまり、簡素な薪ストーブで暖を採り、室内を暖めるということは、人の集う居間を適温に暖房すれば、他の部屋はかなり寒くなるし、かと言って家の何箇所にも暖房機を置いて燃やすということも現実的ではなかっただろうから、人のいる居間は過剰な気温にならざるを得ない状況が起きていたと考えられるのです。 ペチカやオンドル、壁つき暖炉などの文化は、大和民族は持っていなかったので、簡単に手に入る薪をストーブで燃やすという手段で、寒冷地での暮らしが始まり、石炭~石油と燃料は変わってきたものの、百数十年しか経っていないということを考えると、洗練された暖房文化が育っていないため、薄着でなければいられないほど、暖房機の周りの気温を高くして家全体を暖房するしかなかった時代背景があったと考えられ、不均一な暖房効果を生む暖房機と手法が原因となって、高い室温で薄着ですごすという生活様式が半ば必然的に生まれてきたのかも知れないと考えました。 現在では、炭酸ガスヒートポンプ式電気温水器と太陽光発電機などを組み合わせたセントラルヒーティングへとシフトしているそうですが、建築技術も高気密、高断熱の建築へと進歩し、現在でも室温がやや高い生活様式は、古い暖房システムで育った人たちの、かつての生活習慣が原因で、今でも高めの室温ですごすのが、「少し贅沢で精神的に快適」という風に感じているということのように思えるのです。 考えてみれば、日本の国の100年ほど前は、長い鎖国の時代を終え、遅れた国家の構造構築や技術文明を先進国に見習い、必死に世界を追走し始めた時代であり、経済的には決して豊かな国家だったわけではなく、貧しい途上国であったのです。 明治政府の最初の移民政策は、政府募集の移民を送り込んで定住させるというものでしたが開拓者に応募するものは少なく、やがて明治6年、政府は東北諸県の困窮士族を家族ぐるみで移住させ、屯田兵村を設立していきましたが、それでも不足する開拓事業従事者を補うために、時の内務卿だった伊藤博文は反乱で捕らえられた政治犯や荒れた世相であふれかえる監獄の囚人を開拓に使い、刑期を終えた囚人はそのまま定住させればよいと語りました。 実際に明治十二年、道内最初の監獄である樺戸集治監が作られ、その後、明治十四年に空知集治監を、明治十七年に釧路集治監が作られ、北海道に囚人が集められたのです。 さらに明治20年ごろには東北地方の大凶作があり、貧しい生活を強いられていた東北・北陸地方の多くの農民の移住もあり、貧困にあえぐ農民の、まさに命をかけた開拓があったのです・・・。 まだこれからも資料を集めて、より精度の高い解釈に到達したいと考えております。 ご協力ありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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