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カテゴリ:教育
日本経済が景況感を取り戻しつつある中、丸の内界隈も年末年始活況を呈した。
しかし、その丸の内の一角がどうもぱっとしない。それは、かつて東アジア反日武装戦線が爆弾テロを行い、多くの死傷者を出した旧三菱重工ビルにある文部科学省のことである。 小泉政権の掲げる三位一体の構造改革の柱は、国による地方への補助金減らし。 その槍玉にあげられたのが、義務教育費の国庫負担金だった。結局、文部科学省は数年間にわたる官邸、経済財政諮問会議との戦いに敗れ、之までの二分の一国庫負担から、三分の一負担へと減額させられた。すなわち、それだけ文部科学省の地方自治体への影響力が削減されたわけである。 正直、文部科学省には申し訳ないが、「敗れるべくして敗れた」というのが適切ではないか。 かつて、こういう話を聞いたことがある。その方は平成10年当時政府の地方分権関連の事務局の枢要な立場にいた方だが、地方分権論が盛んだった当時、各省庁が省益を守ろうと目の色を変えていたのに対し、最も抵抗が少なかったのが文部官僚だったというのだ。 最も、文部省にしてみれば、文部省の権限など既に占領行政で骨抜きにされてしまっており、他の運輸省や国土庁、厚生省に比べればさしたる物は残っていなかったという弁解も成り立つ。しかしながら、当時折衝に当たった件の事務局は、あまりの無抵抗ぶりに意外な印象を受けたと語った。 また、官僚出身で、現在は文教政策に熱心な、ある自民党幹部は、「文部官僚には闘いの姿勢が感じられない。覇気がない」と嘆く。 これも文部官僚からすれば「我々は教育政策をつかさどるのであって闘うところではない。教育に闘争はなじまない」といういい訳が出来るのかもしれない。 くだんの議員「俺が官僚時代は、もっとギラギラしていたけどなぁ。これじゃ文科省から国会議員になろうという者は出て来ないな」と慨嘆していた。 何が言いたいのかというと、「闘うべきときに闘わないと、のちのち先細りになる」ということである。 戦後政治には、いくつもの重要な転機があったと思う。こと文教政策をとっても、日教組との戦いに明け暮れた官僚も大勢いる。勤評闘争や主任性問題で、文部省から出向した教育長が徹夜で日教組の団体交渉に対応するということも茶飯事だった。また教科書問題では、同じ政府内の外務省や官邸と闘った官僚もいた。そうした人がいたために、かろうじて国家としての教育政策の命脈が、首の皮一枚でつながってきたといえる。 ところが、時が平成の世に入り、そうした国士は少なくなってしまった。(いなくいったとはいえない。)寺脇某のように、初等中等教育を軽視し、生涯学習の太鼓を叩く官僚も現れた。(現在では、脳科学を始めとする先端研究の観点からも幼少時期の重要性は証明されている。) 教科書問題では、全て外務省にお任せ。教育政策としての反論は文科省からなされなかった。 つくる会の教科書採択では、極左の妨害活動に教育委員会を見殺しにした(ように見える)。 そして児童の権利条約から続く、ジェンダーフリー、過激な性教育など、秩序破壊の荒波への無為無策ぶり。 その結果が義務教育費国庫負担金問題の敗北である。あろうことか、義務教育費の問題では、全国に組織を持つ日教組と共闘した。ために、保守系教育団体の文科省に対する目は冷たい。 そして国庫負担に敗れたために、共闘した日教組からも見放された。「文科省なんかと手を組むのではなかった」と。 今年は教育基本法改正だ。義務教育の根本改革という難題もある。占領期の教育改革の次の大きな改革の波が今年から来年に控えているのだ。 文部科学省は時機と敵味方の区別を見誤ってはならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年01月17日 14時30分17秒
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