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日本大好き、好きです早稲田日記

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2006年08月16日
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カテゴリ:国内政治
 靖国神社への天皇陛下の御親拝が途絶えた理由が、「A級戦犯」合祀によるものと、一般には流布されている。7月20日に「日本経済新聞」が「昭和天皇不快感」と富田メモを断定的に報じてより、その傾向は一層強まった。地上波放送の各局のキャスター、コメンテーターも、知りもせずに鸚鵡返しに繰り返している。

 かくして世論は作られる。「A級戦犯」の合祀を執行した当時の松平永芳宮司は、「靖国問題のA級戦犯」となってしまった。

 ここで松平氏のインタビュー記事を紹介したい。

「私の在任中は天皇陛下の御親拝は強いてお願いしないと決めていました。天皇さまに公私はない。天皇陛下に私的参拝も公的参拝もない、陛下は思召しで御参拝になられたんだ、と言えばそれで済むんですが、総理も宮内庁長官も侍従長も毅然とした態度で、天皇陛下に公私はないんだという、それだけのことをキッパリと言い切るとは思えない。そこでモタモタして変なことを言われたら、かえって後々の害となる。変な例を作ってしまうと、先例重視の官僚によって御親拝ができなくなってしまう恐れがある。それで私が宮司の間は絶対にお願いしないことにしてきました。
 その代わり春秋の例大祭には、キチンと勅使の御差遣を戴いてきています。それに御直宮の高松宮・三笠宮を始めお若い皇族様方に極力御参拝に来ていただくようお願いしまして、よくお務めくださっています。」(「日本青年協議会」平成五年一月号)


 どこの神社であれ、天皇陛下が個人的に参拝したいからと思って参拝できるものではない。殊に靖国神社ともなれば、まず神社側からの要請がなければ実現しない。

 松平氏によれば、宮司就任以降、権力からの圧力や騒音、雑音、「A級戦犯分祀」要求、特に国会議員が遺族を票田としてしか見ず、靖国参拝も方便としてしか行われていない様子を日々見てきたと言う。そのため、天皇陛下の御親拝を神社側から要請すれば、天皇御親拝が「公的か私的か」といった内外の政治的な雑音の渦中に放り込まれることを懸念し、自身の在任中は要望しなかったと言うのだ。宮内庁サイドがどういう認識であったかは当然異なるだろうが、当時の神社の責任者の考えは全く明らかにされていないので、ここに挙げた次第である。

 また、松平氏は、皇室と靖国神社の将来についても次のように語る。

「国民はみんな皇室は長く続いているから無くならないと思い込んでいるけれど、安易にそう考えることはできないと思います。万世一系の天皇と言いますが、それは昔の日本だから言えたのです。戦前の日本と今の日本が全く性格の違う日本になってしまったということをよく心得ていないから、皇室も開かれていれば御安泰だ、靖国神社も国家護持がよいと言い出す。戦前なら国家護持でも危ないことはなかったけれども、今の日本は戦前と全く内容の違う日本だから国家護持なんて危ない。何か法案を通す時、保守政権であっても、野党の攻撃を受けて譲歩させられたりでもしたら、靖国神社の形態が完全に崩れてしまう恐れがあるんです。それと同じように、万世一系というものも今の日本では大変頼りないものになってしまっているんです。ですから、平成元年の秋、秋季例大祭、御創建百二十周年記念大祭、昭和大修築竣工奉祝大祭、この三つの大祭を無事終えた折、私は敢えて『今日この頃が戦前戦後世代交代の節目であり、果たしてこのような大きな神社が正しく伝統を守りつつ維持経営していけるかどうかが問題であり、祝典をめでたしめでたしと言っておられず、今日が当神社苦難の門出である』と申し述べました。
 祖父松平春嶽は、勅許を経ないでアメリカとの修好通商条約に調印した時の大老井伊直弼に、切腹を覚悟して単独で談判したため、三十二万石の藩主の座を外され失脚しましたが、己の信念を曲げませんでした。自分の一命を捨てても、国のためには権力に対して言うべきことは言うという態度だったと思います。この祖父の心を心として私の父も公職を貫き通しました。その父を眺めて私は育ちましたので、祖父を歴史上の人物と言うよりも、むしろ祖父春嶽に育てられたような感じです。それから子供の時から日夜、勉強部屋で祖父春嶽の油彩の遺影額を見て参りました。ですから靖国神社の宮司という重責を拝命しておりました時も、その日々の御奉仕を祖父の精神によって微力ながら果たしている、という感じを持って過ごして参りました。
 今後も祖父と父の精神を継いでいる者として、皇室を戴いた従来の国史を重んずる伝統国家復活のため、息の根が止まるまで務めさせていただきたいと思っております」(同上)


 今日の皇室典範問題の底流にある「開かれた皇室論」、国立追悼施設建設問題や靖国神社の非宗教法人化を予見している言葉だと思う。

 富田メモには「親の心子知らず」とあった。昭和天皇陛下には、「筑波はよくやった」というお気持ちがあったのかもしれない。私にはこのことは、君主と臣下との間に生じた齟齬、軋轢の類のものと映る。

 松平氏にとっては、総代会で決定したものをいつまでも棚上げしておくことは、組織の管理手続きとしていかがなものか、それこそ国家・国民に対する背信であり、東京裁判に与した戦歿者・殉難者排除の論理ととして受け入れがたい思いがあったのかもしれない。陛下には別の思いもあられたのかもしれないが、二人が意見を交わすことは無かった。

 ここで焦点となるのは、例大祭に新たに祀る「A級戦犯」を含む上奏文が、靖国神社から宮内庁まで、宮内庁内部から昭和天皇まで、どのような経緯で伝達されたかが、いまだ明らかとなっていないことである。私には、どうしても「君側の奸」の存在した疑念を払拭することができない。

「今、宮中の側近は侍従から宮内庁管理職まで殆ど出向官僚でしょう。二年くらいでどんどん変わっていく。二年以上いると出向先(ママ)の同僚に遅れを取ってしまうから二年以上はいたくないと思っているようなのです。だから二年の間、事勿れ主義で御奉仕して、箔づけをして帰って行く。」(同上)

 昭和天皇御存命中、松平宮司に弁明の機会を得ることができていたなら、あるいは松平宮司が陛下にご諫言申し上げることがあったなら、おそらくは昭和天皇の松平永芳評は別の様相となったことであろう。

 今はそれがかなわないことが、遺されたものにとっての悲しみである。





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最終更新日  2006年08月16日 17時35分56秒
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