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カテゴリ:歴史・文化・伝統
岡崎久彦氏が、産経新聞正論欄において、遊就館展示の中の日米開戦の経緯の記述を批判、更に靖国神社側が展示内容の修正に言及したことで、ネット上では親米保守対反米保守といった構図で論争が繰り広げられています。
この展示内容書き換えのことについては、もう少し調べた上で詳しく書こうと思いますが、ここでは一つだけ触れておきます。 それは、今後、靖国神社が、国民の間の中心的な慰霊追悼の施設として存在しうるのかどうかということ、つまり靖国神社の掲げる歴史認識によって、参詣する人が篩いにかけられるというようなことが、果たしてあって良いのかどうかということについて、十分に考える必要があると思うのです。 生前、さまざまな機会で教えを頂いた松平永芳宮司は、靖国神社の御社殿には「目に見えない御霊」が祀られ、遊就館には「目に見える御霊」が祀られているとおっしゃっていました。靖国神社は「国民総氏子」の神社であるとも仰いました。宮司のご発言から、本来、靖国とは歴史観や、イデオロギーを超克した場であるということが、めざすべき場としてあるように感じられました。 できることならば、党派を超えて、宗教の壁を越えて、そしてあの戦争の解釈を超えたところで全国民崇敬の場所であって欲しい。勿論、現象世界はどろどろとしており、党利党略、宗教宗派対立があり、既に過去二十年以上、政治闘争、外交問題の場であり、とてもそのようなことは実現できないとも思えます。 「靖国は靖国を尊崇する人たちのものであるから、その展示内容も、それらの人たちの最大公約数的な内容でよい」という考え方は、一見もっともらしく聞こえますが、靖国神社が「間口」を狭めてしまうことは、長期的には神社への参拝者が選別されていく、ということになるのではないでしょうか。 日米開戦が、日本側として「自衛戦争であった」という事実は、ゆるがせにできませんし、その本質が変わることはないでしょう。しかしながら、敢えて「米国の謀略」という視点を展示する必要の是非について、全体の展示の文脈の中での展示の軽重も含めて検討すべきでしょう。 義勇軍と称して、正規兵の「フライングタイガース」を組織し、日中の航空戦を米国が主体的に支援した問題、その他物心両面から様々な形で中国を支援した事実、そして日本艦隊が航行する海域に特務船を配備し、緊張をあおり日本側から攻撃させようとした事実(日本版トンキン湾事件ですな)など、アメリカの謀略は数多く明らかになっています。 そうした事実は、事実として淡々と展示すればよい。それについてあれこれ解釈をつけだしてしまうと、韓国の独立記念館や、中国の愛国主義教育基地と同じく、プロパガンダ施設として世界に認知されてしまうことになるのではないでしょうか。 そのことは、靖国神社にとって、決して望ましいことではありますまい。 二十数年前、遊就館は、靖国会館の旧い建物の中にあり、「宝物遺品館」と呼ばれていたように記憶しています。その「遺品館」という言葉にある、御霊達が今わの際に身につけていた遺物、家族への思いを記した手紙や遺書こそが、「遊就館」の基礎基本であり核心であると私は信じます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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