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日本大好き、好きです早稲田日記

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2006年09月05日
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カテゴリ:歴史・文化・伝統
 昨日の9月4日付け報道ワイド日本では、靖国神社の「大村益次郎銅像」の望遠鏡が話題となっていました。この銅像、戊辰戦争における上野の山の戦いの作戦指揮を執っている様子を銅像にしたものです。

 松平永芳宮司の時代のことです。ご承知のように松平氏は越前藩主の家系。参道の真ん中で、ご本殿にお尻を向けている大村銅像については、かねてからけしからんと思い、そのことを口にしたところ、それを聞きつけた山口の大村益次郎ゆかりの人たちが、銅像を引き取りたいと申し出たことがあったといいます。

 さて、この銅像、御社殿にむかってお尻を直接向けているかというと、そうではありません。やはり昔の人たちも苦労したようで、体が斜めに向いた姿勢となっています。

 こうした例は、他にもあります。私の母校、早稲田大学の大隈重信侯の銅像も、体を斜めにしていますが、その理由は殆ど知られていません。

 別に、来島恒喜の爆弾テロで片足を失ったからではありません。実は、銅像の右側(七号館玄関前)には、大正天皇が皇太子時代にご来臨された折のお手植えの木があるのです。今では、誰もそんなことは露知らず、早稲田大学精神昂揚会やら、○○学部自治会やらのたて看板が引っ掛けられているという、なんとも情けない有り様。

 話を大村銅像に戻しますと、ではなぜ上野の山で彰義隊が戦ったのかということが次の疑問となります。既に東征軍(官軍などとは口が裂けてもいいません)が江戸に入った頃、先の将軍慶喜は謹慎して恭順の意を表していました。

 では彰義隊は誰を護っていたのかというと、東叡山寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奪われないようにお守りしていたのです。もともとこの輪王寺宮とは、徳川家康が江戸開府の際に新たに設けたもので、代々の門跡は京都から親王を招きいれ、西南諸藩が京都を落とし、江戸に攻めた時、自ら官軍として錦旗を挙げるためのものでした。(後の皇国史観では「人質」とされてしまいますが。)

 この輪王寺宮様はじめ、将軍家茂に嫁いだ和宮様(静寛院宮)らは、内戦の終結を東征軍に何度も懇願したのですが、「皇族とはいえ、所詮賊の手先」として、西郷隆盛や板垣退助らに軽くあしらわれ、和平工作は潰えてしまったのです。

 そうした東征軍の増長に怒った血気盛んな彰義隊が、輪王寺宮様を警護していたのを、のちのち厄介になることを恐れた西軍が鎮圧したわけです。

 火力に勝る敵軍に対して衆寡敵せず、彰義隊の天野八郎らは、宮様の替え玉をも用意し、宮様を背負って八方に逃げました。後日、東京湾に停泊中の榎本武揚艦隊と合流した輪王寺宮様は、その後仙台に入り、奥羽越列藩同盟の盟主として迎えられました。その御座所は今も仙台市宮町の東照宮に残っています。

 さて、話をもう一度戊辰戦争に戻しますが、東征軍の最大の敵は徳川慶喜と、京都守護職の会津藩主松平容保(兄)、京都所司代の桑名藩主松平定敬(弟)の三人でした。ところが徳川慶喜が降伏したため、敵は会津に籠もる松平容保、定敬兄弟となりました。

 当初、西軍は奥州の大藩であった仙台藩を使って、会津を鎮圧しようと仙台藩に錦旗を下賜します。仙台もしぶしぶ会津へ向けて出兵しますが、かつて「8・18の政変」の際、共に長州派公卿を京都から追い出した間柄、空砲を撃ちあうなどして戦火を交えないようにしながら、和平の策を図っていました。その間、西軍方参謀の策謀や巧妙争いから奥州での反薩長の気運は高まり、奥羽越列藩同盟の結成へとなるのです。

 その後、輪王寺宮が東武皇帝として践祚したという話もありますが、その事実についてはわかっていません。私の曽祖父が生前、輪王寺宮様を調べた「天漢の漣(みつのさざなみ)」という論文を遺していますが、時代が時代だっただけに発刊はしていません。

 この事件、南北朝時代の再来となり、奥州の大名は足利尊氏や高師直になりかねなかったわけですから、当事者達も相当の覚悟が求められましたし、逆に輪王寺宮を擁立したことが「朝敵」としての汚名を揺るがないものにしてしまうことになります。

 明治元年9月、仙台藩降伏、一週間後に会津藩も降伏し列藩同盟は瓦解、輪王寺宮も捕らえられ、長く蟄居謹慎になります。降伏を伝え聞いた宮様は「仙台藩は大藩と聞くが、何故かくも簡単に敗れたのか」と叱責されたと伝えられています。まことにもって仙台人として慙愧の至りですが、心あるものが降伏を拒否して北走し、五稜郭での戦いに馳せ参じたことは仙台人、東北人の心意気を見せた出来事といえましょう。

 後日、謹慎を解かれた輪王寺宮様は、北白川宮家の当主として、若き明治天皇のお側で維新回天の一翼を担います。

 明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館には、明治天皇の東北御巡幸に随伴する北白川宮のお姿が数葉描かれています。また、北白川宮様のお姿をしのぶものとしては、北の丸公園にある騎馬像が唯一遺されたものかもしれません。

 この宮様、ご自身は台湾で罹患したマラリアのために亡くなられ、その後北白川家は、二代続いてご当主が外地で逝去されるという不幸に遭遇します。この北白川宮家三代を称して「悲劇の宮様」とお呼びすることがありますが、その悲劇は、奥羽越列藩同盟の盟主として迎えられた時から始まったのかもしれません。





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最終更新日  2012年04月19日 06時28分22秒
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