363159 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【お気に入りブログ登録】 【ログイン】

神のかぎりない愛と癒しが母なる地球にみちあふれますように

PR

Profile


God is love.

Calendar

Favorite Blog

ハスの花 New! モルフォ蝶さん

心の故郷特別号 New! よびりん♪   さん

「 気まぐれ 」 New! 喜文治さん

晴れ♪(o^-^o) ア−ニ−5655さん

私事ですが 愛しの増田恵子様さん

Comments

コメントに書き込みはありません。

Archives

2018.07
2018.06
2018.05
2018.04
2018.03

Category

Recent Posts

2007.04.28
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
日本のシンドラーと言われる人 (~杉原千畝と命のビザの物語~)

命のビザINDEX

命のビザ-残した言葉

命のビザ-運命の50日間

杉原千畝記念館

杉原千畝愛の決断

杉原千畝 - Wikipedia

正義の人(杉原千畝と樋口季一郎)

上海と満州のユダヤ難民~ ユダヤ難民を保護した日本 ~

反ユダヤ主義 - Wikipedia

【楽天市場】六千人の命のビザ新版:楽天ブックス

杉原千畝 六千人の命を救った外交官

武士道の哀しみ 日本人とユダヤ人


ユダヤ製国家日本―日本・ユダヤ封印の近現代史

日々是桜 ユダヤ人を救った日本人

一燈照隅 ユダヤ難民を救った日本軍人。

以下杉原千畝愛の決断より

戦争のあと

第2次世界大戦には、1941<昭和16>年から日本も加わりました。しかしその数年後、ドイツとイタリアがヨーロッパで敗れ、日本も太平洋方面で敗れました。戦後になると、ヒトラーの率いるドイツが、戦時中、重労働をさせたり強制収容所に入れたりして、五百万人近いユダヤ人を殺していたことがわかりました。
千畝は、戦後、ソ連の収容所に入ったりしながら、1947<昭和22>年に幸子と三人の子をつれて日本に引き上げました。外務省に行くと、すぐさま退職することを勧められました。理由は、千畝がカウナスで、本国の指令にそむいたことにあるとわかりました。
<私は、ヒトラーと違って、たとえ少しでもユダヤ人を助けた。>
千畝は、そのことに誇りを感じながら、いさぎよく勧めに従いました。そのあと、語学力を生かしてある放送局に勤めました。翌1948<昭和23>年5月、ユダヤ人たちは、パレスチナ地方に<イスラエル共和国>をつくりました。
<カウナスの人たちは、どうしてるかなあ?。>
<さ、どうしてるでしょう?。>
千畝も幸子も、ひとみをこらして、遠くをおもいました。その翌年、四男の伸生<のぶき>が生まれました。


たずねてきた人

十数年の月日が、過ぎた去りました。あるとき、東京にあるイスラエル大使館に、本国政府で経済参事官を」つとめるニシュリが出張してきました。ニシュリは、出張の用務が終わると、大使館の人に話しました。
<1940<昭和15>年ごろ、リトアニアのカウナスで日本領事館にいた、スギハラという人をさがしてください。>
大使館の人が、苦労のすえ千畝を見つけました。そのころ千畝は、ある貿易会社の重役をしていました。ニシュリは、その会社を訪ねました。千畝はニシュリを見て、首をかしげました。ニシュリは、ほほえみました。

<ミスター スギハラ、あなたがわたしを覚えていらっしゃらなくても、わたしは、一日もあなたを忘れたことがありません。>
おもむろに、おりたたんだ一枚の古びた紙を出して広げました。それが、かって千畝がカウナスの領事館で書いたビザだとわかりました。
<そうです、ミスター スギハラ、イスラエルでは、いまでも何千人という人が、これを宝物にして。大事に持っていますよ。>
ニシュリは、ほほえみながら、目にうっすらと涙をにじませました。
<ミスター スギハラ、あなたはこのビザを書かれたことを覚えていらっしゃいますか?>
<ああ、おもいだしました。>
<実はわたしは、そのうちの一人なのです。そのときの一人バルハフチック氏は、現在、本国の宗教大臣に、またクレメンテノスキー氏は、テルアビブの副市長になっていますよ。>
そういいながら、ニシュリは、話を、当時のことにもどしました。(テルアビブ→地中海に面したイスラエル第一の都市)


あのときユダヤ人の第一陣は、汽車でシベリア大陸を横ぎり、日本海に面したウラジオストックから日本の船に乗って1940<昭和15>年10月に福井県の敦賀港に着いたそうです。
ユダヤ人の中には、ビザを持たない者もまぎれ込んでいました。しかし、送り返された者はなく、みな上陸をゆるされました。そのため、合計五千人から六千人のユダヤ人たちが日本に来たと言われています。
たまたま着のみ着のまま逃げてきたため、シャツ一枚でふるえている者も多くいました。
港の人たちが、熱い飲み物を作ってみんなにふるまいました。
みんな、日本人の思いやりに心から感謝しました。午後、汽車に乗って神戸に行くというのです。
<コーベに着くのは、夜でしょう?われわれは。宗教的なきまりで夜は乗り物に乗ってはいけないことになっています。>
そう言って、多くの者が汽車に乗るのをしぶりました。
<いや、日本の汽車は、時間が正確です。神戸には、きちんと夕方に着きます。>
こう言われて汽車にのると、実際そうでした。そのうえ、神戸には、立派な難民宿舎が用意されていました。みんなは、日本がすべてにきちんとした国であることを知って、また驚きました。通過ビザで日本にいられるのは、短い期間です。多くの者が、十日か十五日ぐらいで香港へ渡りました。
その先はそれぞれ、祖国の再建めざしてパレスチナへ、自由を求めてアメリカへと渡りました。期限が過ぎても、神戸に残るものもあらわれました。兵庫県知事が<とくに日本滞在をゆるす。>という許可を、その者たちに与えました。
<居心地がたいへん良く、三年間も日本にいた者もいたのですよ。>
とにかくミスター スギハラ、あなたにはすべての者が心から感謝しているのです。>
ニシュリが、涙をぬぐいながら、ふたたびほほえみました。
<そうですか。イスラエルのみなさんのお役に立てて、わたくしもうれしくおもいますよ。>
千畝も、そう答えて、なにげなく涙をぬぐいました。話の中で、四男の伸生が高校三年生であることが、ニシュリにわかりました。
<ノブキを、ぜひイスラエルに留学させてください。わたくしが、責任をもって、めんどうをみさせていただきますから。。。>
その結果伸生は、イスラエルのヘブライ大学に留学することが決まりました。伸生が大学を卒業すると、今後は、
イスラエル一の宝石会社の社長がいいだしました。
<ぜひとも、わたしの会社にお迎えしたい。>
その結果、伸生は、その会社に入社してイスラエルに住むことが決まりました。
1969<昭和44>年,千畝は、初めてイスラエルを訪れました。ニシュリや当時宗教大臣をしていたバルハフチックに迎えられ、ダイヤモンドをちりばめた銀製のおもおもしい勲章をもらいました。
1985<昭和60>年、イスラエル政府は、千畝を<世界の中の正義の人>として再び表彰しました。
千畝は85才。。。。
体が弱っていて、イスラエルに行くのはむりでした。かわりに、幸子と長男の弘樹が、東京のイスラエル大使館をおとずれ、表彰を受けてきました。千畝は、その翌1986<昭和61>年に鎌倉でなくなりました。
すぐれた歌人でもある妻幸子は、1990<平成2>年<六千人の命のビザ>というほんをあらわして、多くのユダヤ人を救った亡き夫の人道的な行為を明らかにしています。(人道的→  どんな人間も人間として尊重していく態度のこと。)

イスラエルに行った日本人は、いまも聞かれることがあるといいます。

<あなたは、ミスタースギハラを知っていますか?>

杉原千畝氏の略歴

明治33年1月1日八百津町北山で出生。同町下石原の旧法務局西隣りに家を借り幼少時代を過ごす。その後父の仕事の関係で三重県や名古屋市で生活する。
 愛知県立第五中学校卒業後、早稲田大学に入学したが、大正9年9月中退し外務省の留学生としてハルピンに留学。
 大正13年12月より昭和22年4月まで外務省に奉職。その間北満勤務11年、外交部出向2年。フィンランド、ドイツ、リトアニア、チェコスロバキア、ルーマニアの諸国に10ヵ年勤務<大使館一等通訳官、書記官、在プラ-グ
在ケーニヒスベルグ総領事を歴任>なを、北満勤務11年のうち3年はハルピン学院教授を兼職。
  昭和12年ヘルシンキ日本領事館一等通訳官として赴任。
  昭和14年リトアニアの首都カウナスに日本領事館を開設し領事代理となる。
  昭和15年夏には、ユダヤ人にビザを発給。同年ベルリン領事館、プラハ領事館勤務。
  昭和17年ルーマニアの首都ブカレスト領事館勤務。終戦後の昭和22年4月に帰国。同時に外務省退職し、進駐軍東京PX本店マネージャーとして2ヵ年勤務。米国APONJE商会マネージャーとして2ヵ年勤務。
  昭和29年4月ニコライ学院教授。
  昭和31年4月より4ヵ年、科学技術庁、情報センターの露、英、独、仏語の技術文献の翻訳及び、商社メーカーのカタログの露訳及び対ソ宣伝映画のロシア語吹き込みに従事。
  昭和32年4つきより2ヵ年NHK国際局に勤務。
  昭和35年5月より39ねん10月まで川上貿易<株>モスクワ事務所長。
  昭和39年11月より40年5月まで蝶理<株>に勤務。
  昭和40年10月より国際交易<株>に勤務。
  昭和50年同社を退職。
その後鎌倉で余生を送り、昭和61年7月31日<86歳死去

おわりに

第2次世界大戦中多くのユダヤ人を救うため、ビザを書き続けた杉原千畝さんの人道的行為こそ、人間に対する本当の愛だと思います。 
私たちは、人間として、この愛をいつまでも心の中に生きつづけさせ、さらに後世に語り継いでいかなければならないのではないでしょうか。






Last updated  2007.05.05 12:22:11

Copyright (c) 1997-2018 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.