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多様性を認め子供たちの可能性を広げる習い事「いとっこクラブ」(糸島学習塾YES 前原駅前校のキッズ部門として生まれました)

大学生

1980年 防衛大学校入学
都会を夢見ていたのにJR横須賀駅で降りたときの衝撃は今でも忘れない!!
後に、京急横須賀中央駅がメインと知ったが佐世保と大して変わらない町だった
防衛大に入学してからは、理不尽の連続
1年は奴隷だった。
後で楽になるといわれてもそんなことにまったく魅力を感じなかった。
部屋長(4年生)も回りに気を遣うしょうがなく怒っているように感じた。
立場立場に応じて役割を演じることは、今思えば大切なことなのだが、その当時はそんなことを考える余裕もなく変なところばかりが目に付いた。
雨が降っても傘がさせないとか
上級生に会うたびに敬礼しなければならず、なかなか前に進めないとか
思い出せばきりがないが、とにかく型にはめられるのがいやだったと言うのを覚えている。
しかしこの経験は後々宝になる、こんな経験普通じゃ出来るはずもない。
貧乏を経験したことのない人にハングリー精神を教えるのが一番難しいと言うが、
防大での経験も人に伝えられないくらいの経験であったことは間違いない。
そのほとんどを1年のときに経験することになる。
忍耐、忍耐、忍た~い!!
時間がない、時間がない、時間がな~い!!
の毎日であったが、それにも時がたてば慣れるということがまた驚きである。
しかし、そんなことがわからない私は、すごい不安を抱きながら、ラグビー部へと入部した。
そんな防大でも部活の人間関係は非常に良かった。部活をしているときだけは、すべての不安を忘れることが出来た。
部活は、防大のオアシスだった。
そんなこともありますますラグビーにハマリ、ラグビー一色の大学生活になっていった。
そのとき事件が起こった。
忘れもしない東洋大戦、けが人が出たこともあって一年で唯一公式戦デビュー
その時、えっ!!
一瞬の出来事だった、相手選手のひじが左目に・・・・・
目が・・・・・かすむ
すりガラスを通して見ている感じだった
でも見えている
おかしいとは思いながらも翌日病院に行くことにした。
学校内の病院で受診、打撲といわれ冷やしていた。
すりガラス状態は変わらない。
それまで普通に生活していたが・・・
2日後に異変が・・・・・・
左目の上部に黒いものが・・・・
時間がたつにつれじわじわと下に降りてくる
わずか数時間の間でほとんど真っ暗闇状態に
受診と同時に入院、網膜はく離と診断された
試合に出れる喜びの絶頂から、真っ暗闇の恐怖へ、絶対安静の中将来への不安と戦っていた
それからが長かった、手術を2回、入院は、70日にも及んだ
最初は、右目と左目の動きが連動しているという理由で右目も眼帯をしていた
これで人生終わりかなとも思った
真っ暗闇の中、見舞いに来てくれるチームメイトの声がやけに心にしみた
幸いにして、失明からはまぬかれたものの弱視になり、やる気の唯一の拠りどころであったラグビーはあきらめざるを得なかった。
それからというもの、今振り返れば本当にもったいない時間を費やしていたと思う。
勉強に燃えるでもなく、女に燃えるでもなくただ、いたずらに時間を無駄にしたような気がする。
最低の努力で卒業に最低必要な単位をとることと、気の会った仲間と面白おかしく過ごすことだけに時間を費やした。
ラグビー部はやめることなく継続したが、残りの3年間は部活にいくのがすごく辛かった。
そんな絶望の中2年に進級、応用化学を専攻することにそして海上要員(*)になった。
(*)防大では、他の大学と違って2年になるときに将来、自衛隊に行ってどのコースに進むかを決定する。
応用化学に進んだのは、薬剤師にもなれると信じていたからだ。
海上要員を希望したのは、実家が佐世保だったので訓練のとき帰省できる可能性があると言う単純な理由だった。
ここでまた、とんでもない事実が!!
資格の雑誌を読んでいると薬剤師の資格は、指定された大学の薬学部を卒業したものとなっていることを知りショック!!
薬剤師が何をするのか?どういうものか?そこまで詳しく知っていたわけではないが一度は目指した目標であったことには違いはない。
防大に入学する際も間違いなく確認はしたつもりであった。
採用のオジサンに!!
それも書面で確認することもなく!!
今考えるとあまりにもあま~い
としか言いようがないが、その当時は、そんなもんでした。
採用のオヤジにだまされた!!
と言ってもあとのまつり
まだまだ青いね!!
そんなこんなで3年に
防大では3年にもなるとかなり楽になる2年でもかなり楽なのだが
ただ下級生指導と言うものがどうもなじまなかった。
どうしても仲良しになるだけで、シビアな上級生にはなれなかった。
3年で、最も思い出深い出来事はラグビー部が一部との入れ替え戦に、出たことだった。
当然、参加することは出来ないわけだが、試合場に行くバスの中、いつもはふざけている自分が、ユーミンのノーサイドを聴きながら涙していた。
一年のときは、すごく涙もろくなっていたのだが、それからは収まっていたのに、このときばかりは涙が止まらなかった。
試合に出てー
善戦むなしく破れはしたが、すごく思い出に残る一日だった。
また、3年ではK教授との出会いがあった。
卒業研究で有機材料を選択したのだが、そこの当時助教授がK教授であった。
K教授は、今でも唯一親交のある教授で、横浜で、何度かお会いした。
K教授は、当時から自由人と自分から言われるとおりなぜか、心が安らぐ存在であった。
当時は、K教授のライフスタイルに憧れ、自分も自由人になるぞ!!
と思っていた。
そして4年生を迎えた。
4年で最大のイベントは卒業だ
それも自分としては、あまり自衛隊に行きたいとは思っていなかった
しかし、当時の指導官にかなり説得され
と言うよりも具体的な就職活動をしていなかった
しコネもなかったので
やめれなかったのが現実かな
でも一番印象に残った指導官の言葉は
「遠洋航海にいってからでも遅くはない!!」
と言う一言は印象に残っている。
思い返せばなんと甘い交渉か
何も考えて以内の一言に尽きる
と言うわけで、次なるところは、海上自衛隊幹部候補生学校


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