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GO GIRL!

GO GIRL!

4.次男出産後の専業主婦時代

次男を出産する1週間前まで働いた。
金銭的にどうしようもなかったからだけど、もう2度と経験したくはない。
勤務先は横須賀市内だったけど、通勤は電車。
毎朝張り切ったおなかを抱えての通勤はかなりしんどかった。
あげくに長男の保育園の送り迎えもしてたので、
本当にきつかったのだ。
あんなに良い夫になる、手伝う、と言って次男の出産を喜んでいた主人は、
その言葉とは裏腹に休みの日でも箸ひとつ動かさない。
私は本当に疲れきっていた。

しかし人間は恐ろしい。
そんな環境も慣れてしまえばなんとかなるもんだ。
長男を連れての検診もいつも一人でこなし、
死ぬほど重い食料品と長男を抱えて、
当時玄関からいきなり急な階段が30段も続く家で、
家事、育児,仕事をこなす事ができてしまっていた。

長男の帝王切開から1年しかたっていないので、
陣痛が来たら子宮が耐えられなくて破裂する、という恐ろしい宣告を受けて、
次男も36週に入ってすぐに帝王切開。
本当はクリスマスにしたかったけど、それは実は子供にとってかわいそうと
まわりのみんなに言われて結局12月27日に出産。
今回は帝王切開の痛さを経験した後だったので、手術は本当に怖かった。
しかも経産婦なので、前回はまわりで二人も看護婦さんが手を握っていてくれたのに、
今回は誰もいない??
手術中にはなぜかNellyの"Dilenma”?がラジオから流れ、全く緊張感がない。
驚く事に手術用の大きいライトの一つが消えていて、
それが鏡の役目を果たし、自分の手術の一部始終を見てしまった。
ゲゲッ。超グロイ。
でも出てきた次男のリオンを見た時には長男同様感動して涙、涙。
手術室から戻ってきた私に軽くキスだけして、
主人はリオンのビデオ撮影に行ってしまい部屋には一人だけ。
更に今回は手術中から後陣痛なるものが発生し、強烈に痛い。
いけない事とは分かっているけど、病院でくれる痛み止めなんて全然効かない事を
前回で知っていたので、主人に山ほどアメリカの鎮痛剤を頼んでおいた。
それでも強烈な痛みで最初の夜は眠れず、でも前回からは想像もできない回復力で
手術後1週間、抜糸してすぐに退院する。

実はこの時、主人は夜勤もあったので長男は知らない人の家に毎晩預けられ、
ストレスからか原因不明の全身の発疹と高熱で
基地内の病院に救急で運ばれてしまった。

私が自分の家族をこの時ほど恨んだ事はない。
主人の家族はアメリカに帰ってしまっていたので、頼れるのは私の家族だけ。
私たち家族がうまく行っていれば、長男は慣れ親しんだおじいちゃんとおばあちゃんと過ごして
安心できたに違いないのだから。
まあ例のごとく今回も私の両親は病院にすら来なかった。

退院した日、家に着くとそこには山のように溜まった洗濯物と台所の汚物が。
でも私の不在時に長男を見てくれていた主人に感謝して、
そこはぐっと我慢で何も言わず、結局朝の3時までかかって奇麗にした。

当初は産後3か月で仕事に復帰する予定だったが、次男は1、3ヶ月の検診両方で
足に問題があると言われ(小児股関節脱臼の疑い)、
悪化すれば装具の装着の可能性もあるとの事だったので、
当分は私が家にいるほうが良いだろうということになった。

ところがこれが悪夢の始まりだった。
まず主人は私に一切お金をよこさない。
食料品、おむつにミルク、すべて買い出しの際には彼が同伴して彼が支払う。
当然私が友達と出かけたければ、自分でケアしろという事。
さらに私に少し貯金があるから、光熱費の一部などは私が払えと言う。

ここで補足だけど、私たちはまあうまくいっていなかった事もあって、
夫婦共同の銀行口座なる物がなかった。
信じがたいかも知れないが、毎月の生活費をまるっきり半分ずつ払うというスタイルを、
同棲時代から続けていた。

なんかいうと又喧嘩になるから面倒で、
結局私は産後2週間まだ保育園に通っていた長男の保育料と、
公共料金の月に計5万円くらいを負担する。
当然貯金は減っていくばかり。

だいたい毎日の生活の中だって、パンやジュース、おかしとか消耗する物はあるわけで、
そういう物も主人は一切支払わなかった。
それなら私も働くといっても、新生児と1歳の子供を連れては
ハローワークにいくのもひと苦労、で挫折する。
その後の在宅ワーク挑戦は別コンテンツを読んでくださいね。

休みの日も絶対に私を一人で外出させてくれない。
どこに行くにもついてくる。
レストランでも、ゆっくりと食事を楽しむ主人のわきで
私は泣き叫ぶ次男にミルクを与え、まだ一人でちゃんと食べられない次男に食事を与える。
全然楽しくないし、何を食べたかも全く覚えていない。
でも主人にしてみれば、食事に連れて行ったのに全然喜ばないありがたみのない奴にしか思えず、
おまえなんかもう2度と食事に連れて行かない!と悪態をつかれる。

夫婦なのに何一つシェアしている実感がなく、もちろん愛されている実感なんかない。
彼がいくら稼いで、いくら貯金しているのすら知らない自分。
美容院にも行けず、大好きなGoOutなんてもってのほか。
こんな毎日を変えたいけれど、私には協力的な家族も、お金も、車さえない。
何より辛かったのはもう憎しみという感情しかない主人との生活。
彼はそんな毎日の中でも夜遊びして、次の日の昼まで帰ってこない事もあった。
携帯には相変わらず例の浮気相手や他の女からの電話やメール。
惨めで死にたくなった。何度も何度も手首を切ろうとした。
でもやっぱりこんな私でもママーと慕ってくる子供達。
それが唯一私の生きる理由だった。

小競り合いの中で、少しでも私が反発したり言い返すと
押し飛ばされたり、物を投げられたり、主人の私へ扱いもだんだんひどくなってきて、
一時は友人の家に家出してたこともある。
本当に最悪な時期だった。

なんで主人があんなふうだったのか分からないし、私も産後の鬱だったのかも知れない。
覚悟していた年子の育児をハンドルできなかっただけなのかも知れない。
とにかくこの一番大変な時期に私を苦しめた事で、夫は私からの愛や信頼を一気に失った。
それは今でも回復していない。
まあ主人にしてもいきなり子供2人のパパになった責任感とものすごく忙しい仕事、
プラスいつも仏頂面で自分の人生を憎んでいる妻が家で待っている生活に、
耐えられなかったのかも知れない。

そんなこんなで夫婦関係も最悪になっていく中、主人が突然会社から解雇される。
私も会社のあまりの態度の悪さに職場復帰をやめて退職した矢先の事だった。

俺が稼いでる、俺が男だ!的態度だった主人は大ショック。
それで私は子供を預けなくてもすむ夜に働く事になった。
本当は以前若い頃やった事のある水商売をしようと面接も受けて受かっていたのに、
主人がそれだけは許さない、離婚だとわめくので、
しかたなく宅急便の荷物の仕分けのバイトをする事に。

子供を寝かした夜10時から朝5時まで、若い男の子に混ざって思い荷物を抱えて
私は全身筋肉痛どころか痛みで動けないくらいだった。
でも一晩で1万3千円ももらえたし、何より子供の事を考えて頑張った。
さらに一晩働いて帰ってきても、次男が夜泣きして眠れなかったとか言って、
主人はそそくさと寝室で寝てしまい、私は一睡も出来ないまま子供の世話をする。
起きているときもコンピュータに向かってインターネットばかりしている主人。
私は死にそうに疲れていて喧嘩する気力もなかったので、
不思議とそんな中で夫婦関係は少しずつ良くなっていった。

いつも寝室に行ってしまっていた主人が、
”今日はそのままシャワー浴びて寝ろよ”、と私を寝かせてくれるようになり、
それがそのうち寝るためのベッドが整えられているようになり、
インターネットばかりしていた時間は子供と良く遊ぶようになった。
子供を見て留守を預かってくれるようにもなったので、
私は本格的に就職活動をする。

最初は食品のデモンストレーターをほとんどフルタイム状態、
そこで雇用証明が出て子供を預ける事ができたので、
4月をめどに本格的な就職を目指す事にした。


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