339576 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

偉大な牛

PR

プロフィール


ラタナコーシン

カレンダー

カテゴリ

バックナンバー

2020年03月
2020年02月
2020年01月
2019年12月
2019年11月
2019年10月
2019年09月
2019年08月
2019年07月
2019年06月

コメント新着

松永弟@ Re[2]:立ち茗荷(10/10) 松永弟さん メッセージ書かないうちに送…
松永弟@ Re[1]:立ち茗荷(10/10) ルミコさん >つい最近、我が家も&quo…
ルミコ@ Re:立ち茗荷(10/10) つい最近、我が家も"立ち茗荷"…
松永@ Re:立ち茗荷(10/10) 我が家も立ち茗荷です 珍しいですよね…
無料@ アクセス記録ソフト 無料 楽天 アクセス記録ソフト! http:/…

お気に入りブログ

田植え前の苗には “… 松下一郎さん

父の日80記念 Dia… convientoさん

ある国語教師の夜の風 1973のピンボールさん
ナンカ・足リナイ ゆるゆる*プリンさん
Novlog NOVICさん

ニューストピックス

2006年10月27日
XML
カテゴリ:偉そう

今、京極夏彦の『絡新婦の理』を読んでいるのだが、ふと気づかされたことが有る。

いや、普通のことなのだが。


木場修が、飲み屋でくだを巻いていて、そこでお姉さんにいわれて気づく当たり。

結局法や国家、価値、道徳などは恣意的なものだ。それはつとに指摘してきたことだ。もはや自明であろう。

ただ、そのことを主張するだけでは立ち行かぬ。

リアリズムというものがある。
そうでなければ生きていけぬ。

 

今思ったが、前にもこんなことを書いている。



一旦、括弧に入れた上で、なるたけのものを捨象して観察し、その上で、括弧を消して生活する。

この括弧も外す作業も、やはり実際のためにはとりあえずという意味で必要なのだ。

特に警察や検察がここを疑いだすと碌なことにならない。
いちいち、法の正当性に懐疑を持っていたら、務まらぬ。


そんなことを思った。
『絡新婦の理』はかなり面白い。



 

六輝=友引 九星=八白土星 中段十二直=平 二十八宿=婁 旧暦九月六日






最終更新日  2006年10月27日 21時47分43秒
コメント(2) | コメントを書く
[偉そう] カテゴリの最新記事



Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.