偉大な牛

2007/08/10(金)18:31

靖国

読書日記(74)

こないだ、といっても一寸前なのだが、坪内祐三の『靖国』を読んだ。 上梓時には、各メディアで絶賛された本なのだが、学生のときには、なかなか手に取る気が起きなかった。 靖国神社自体は、小泉総理が参拝する前からかなり興味を持っていたし、 みたま祭りにいったり、英霊の言の葉を買って読んだり、遊就館を眺めたりしていた。 靖国を語る際に、是々非々ばかり強調されて、 結局は、戦争に対する姿勢というのが、色濃く反映されていたように思う。 もっというと、保守論壇か革新派か、文春・正論的に論じるか、朝日新聞的に論じるか、といった次第である。 しかし、坪内の『靖国』はそうした喧しい議論からはやや離れたところに位置している。 この本から学んだ視点はかなりいい勉強になった。 それは、浅田彰の言葉を借りて言えば、「シラケつつノる」という姿勢である。 坪内は、著者は英国のE.ホブズボウムの「伝統的と思われている物の多くが、実は近代になって新たに人工的に作り出されたものである」を引き、いつのまにかその起源があいまいとなり、神話的世界と結びつくという。 私たちは、靖国の歴史が浅いこともしっているし、近代になって創られた伝統であることも知っている。 しかし、一方で、坪内は靖国神社がどのように庶民に親しまれてきたか、それは、いわれているようなイデオロギー装置としての靖国神社ではなく、むしろ、近代的な、モダンでキッチュな、今で言うディズニーランドにも似たテーマパークもしくは遊園地的な祝祭空間として存在してきたかを丁寧に論じている。 論じているというのは妥当ではないかもしれない。 坪内のこの著書は、ほとんどが他の著作からの引用であり、いわばコラージュ的な作品である。 そこには、坪内による取捨選択はあっても、明快な主張はない。 河竹黙阿弥の歌舞伎の舞台となる靖国。 奉納相撲や力道山らによる奉納プロレスの舞台となった靖国。 カペレッティ設計による西洋的、近代的な遊就館を持つ靖国。 遊園地(ローラースケート場、ピンポン、メリーゴーラウンド)が実際に作られるはずだった靖国。 巨大なパノラマが展示された靖国。 いわゆる現在の議論がなされているような場所とはとても思えない靖国神社が現実に存在した。 そのことを我々は知る必要があるのではないか。 確かに、靖国神社は、英霊が奉られている聖地であり、かつ、国家という巨大な暴力の正当化のためのイデオロギー装置である。 これらの両極端の説は、所詮コインの裏表であって、いずれの要素も孕みつつ、いずれにも批判を向けることが可能だ。 しかし、そのような議論を離れて、坪内が描いたような生活の中の靖国神社は誰しも否定することは出来まい。 思い込みや先入観、所与のイデオロギーを払ってみて、真摯に向き合うとき、そこには、決して今まで知りえなかった靖国神社がある。「シラケつつノる」とは、与えられた物語を物語として認識しつつも、それを生きていく強い姿勢である。物語にからめとられるのでもなく、物語から離脱してしまうのでもない。それらはいずれにしても受動的な弱者の論理にすぎない。夫婦愛や親子の愛情、愛国心などいずれも所詮は物語に過ぎない、という相対化の視点を持つことは肝要だが、すべてを相対化しつくしてしまうニヒリズムが何ものをも生み出さないという視点も同様に大事である。我々は、そうした物語において、物語と知りつつも、自分の役を演じきることが必要なのはないか。 今年は所用あっていけなかったが、みたま祭りには何度か足を運んだことがある。 みたま祭りには、(多少そうでないものがあるとしても)、地域の住民たちが憩いの場として共有する靖国神社がある。 靖国神社の是非を論じる前に、是非一読したい好著である。  火曜日 癸酉六輝=赤口 九星=三碧木星 中段十二直=満 二十八宿=觜 旧暦六月二十五日

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