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2008年05月21日
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カテゴリ:ヒストリアイ

前にも書いたが、姓と苗字は違う。

姓は天皇からもらうものだ。
だから天皇家には姓はない。
天皇家に姓を与えるものがいないから。

徳川家康は、苗字は徳川だが、姓は源である。
「とくがわいえやす」と呼ぶが、姓で呼ぶときは「みなもとのいえやす」である。

なので、「そがのうまこ」とか「ふじわらのかまたり」とはいうが、
「おだののぶなが」とか「たけだのはるのぶ」とはいわない。
いうなら、「たいらの(ふじわらの)のぶなが」、「みなもとのはるのぶ」である。


甲斐の武田家は、武家の棟梁といわれた八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の末裔とされているが、
一方で、織田家は、素性が確かではなく、藤原家でも平家でもなく、元をただせば越前の神官の家だという。

江戸300年の歴史を築いた、最大の武家である徳川家も、むろん源氏の嫡流などではなく、
三河に流れてきた願人坊主であるともいう。

清和源氏(最近の研究では陽成源氏という説も)といえば、六孫王経基の子である、多田満仲から武門となる。
満仲から、摂津源氏、大和源氏、河内源氏が出るが、有名なのは河内源氏である。
河内源氏の祖は、頼信であるが、頼義、義家と続く(この義家が日本一の兵、八幡太郎)。

義家の家は最終的には義親が継ぎ、そこから為義、義朝、頼朝と続く。
義家の三男義国は、新田足利の両祖であり、
義国の長男義重からは新田氏が、次男義康からは足利氏が、それぞれ生まれる。

家康が、新田氏系の世良田氏の末裔と名乗ったのは、さかのぼれば足利将軍家の兄にあたるからである。
新田の高貴な血を家康は求めた。

昨今は、「戦国時代は実力主義であった」とかいう人も多いけど、
それはそういう一面もあったものの、あくまで出自というものは重要視されていたのであって、
上にのしあがろうと思えば、それなりの姓が必要だったのである。
当り前の話だ。

俺自身は、今でも家柄というものを重視したいと思う。

人間で大事なのは、能力とか性格とかそういうくだらないものでなしに、家柄に決まっている。
だから、結婚する相手とかは、家柄で選ばなければならない。

たとえば、畏くも天皇陛下であれば、頭がいいとか力が強いとか、お人柄がやさしいというのは、
それはそれであればいいが、重要なポイントではまったくないと、個人的には思う。

要は(実際はどうあれ)、2000年続いた家系という、ただその一点に価値があるのであって、個々人の能力などは二の次である。


ところで、羽柴秀吉は、そうした秩序の階段を飛び越えた、いわゆる国民的スーパースターであるが、それでも近衛家の猶子になった。
藤原の姓を有することによって、関白になろうとしたのである。

ちなみに、信長・秀吉たちが征夷大将軍になろうとしたが、源氏の嫡統ではないからなれなかった、というのは俗説、真っ赤な嘘である。
それは、江戸時代にできた嘘であって、彼らは、そんなものになろうとも思っていなかったと思われる。

前にも言ったが、征夷大将軍と関白とでは、はっきりいって重みが違いすぎる。比べること自体が間違い。


秀吉は、結局、天皇から源平藤橘とは異なる姓、「豊臣」の姓を下賜された。
爾来未来永劫、豊臣の名を継ぐ者はいかなる補任も受けられるという、この姓の創設自体がとてつもない偉業なのである。
家康が躍起になって、豊臣を滅亡させたのはここに理由があって、
要は豊臣の名を継ぐ者がいる以上は、徳川は安泰ではいられないのである。

ちなみに、源氏には、源氏長者というものがいる(藤原氏には藤原長者が、平氏には平氏長者がいるが)。
源氏長者は、源氏の中でももっとも地位の高い者が継ぎ、淳和・奨学両院の別当を務め、源氏一族の祭祀関係をも取り仕切る。
当初は嵯峨源氏から、次いで村上源氏がこれを務めている。
最も有名な清和源氏で、源氏長者となったのは、足利義満が最初であり、武家初の源氏長者である。
つまり、頼朝たちは源氏長者ではなかったのであり、そういう意味では源氏の嫡流ではない。

このことをもって、岡野という学者が「源氏長者=日本国王」という説を唱えているが、通説とまではいたっていない。
要は、足利義満は日本国王であったのであり、以降足利家が日本国王であったという説である。
この国王の地位は、家康に受け継がれ、以降秀忠を除く14人の将軍が源氏長者となっている。

そして大政奉還によって、慶喜から久我家へ源氏長者は返還されている。

もっとも、秀吉は、平氏長者となった後、藤原長者になっており、
一方で、家康は藤原長者になれず、諦めて源氏長者となっている。
そういう意味では、氏姓制度において、太政官の官位制度でも、家康は秀吉をまるで超えていない。


なお、新田氏の祖である、新田義重から、世良田氏が流れ、その結果、松平信光という男に至る。
ここから松平家康まで連なるのであるが、信光には光親という子がおり、そこから能見松平家が出ている。
能見松平家から、小沢氏という家系が生まれ、その小沢氏は茗荷を家紋として用いている。

そこから・・・・






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最終更新日  2008年05月25日 23時17分11秒
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