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偉大な牛

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2008年06月16日
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カテゴリ:百鬼夜行

 寿留女―――

スルメ
(鯣)は、烏賊の内臓を取り除いて素干しや機械乾燥などで乾燥させた加工食品。乾物の一種。古くから中国南部、および東南アジアにおいて用いられている食品で長期保存に向いている。日本では縁起物とされ結納品などにも用いられ寿留女と表記される。俗語としてアタリメとも言う。


何処迄も暗い坂を登り詰めた先に、目指す漂漉堂が在る。


久し振りに帰郷したのは良いが、如何せん遣ることが無い。実家に帰っても母親に懐かしがられるのはほんの一瞬だ。二日も経つと寝てばかりいて何の役にも立ちゃしないとか何とか愚痴を云われるのが関の山だ。犬と散歩に出掛けたり、持って帰ってきたフロベェルの本を読んだりしたが、如何にも斯うにも落ち着かない。

其れは夜だった。昼間では思うように鳴き切れないのか蝉が夜も必死にその短い命を掻き鳴らしていた。私はといえば、遣ることもないので、ビィル瓶を持ったまま、ふらふらと散歩に出掛けた。「昔よく此うして夏の夜に宛ても無く歩いたものだなぁ」 私は思う。少々酔っ払ったのか口笛を吹きながら歩いていると、既に大分来てしまったようだ。この辺りは人家が少なく大分暗い所で、坂になって居り、「うとう坂」と呼ばれて居る。その昔、人気の無い此の坂を歩くときは、みな怖いので歌を歌いながら歩いたと云うのがその謂れだ。

私が生まれ育ったのはK県のA市の荻野というところだ。
荻野は江戸時代までは荻野山中藩と呼ばれて居り、徳川家康の譜代家臣の中でも筆頭と云われる大久保一門の支藩である。初代藩主大久保教寛は大久保忠隣の曾孫で在り、山中藩は一万三千石の小藩で、五代藩主の大久保忠翅が山中陣屋という屋敷を作って政庁とした。今でも山中陣屋跡という史跡となって居り、公園が在る。
御一新と伴に廃藩され、荻野山中県と成ったが、その後足柄県に統合され、現在に至っている。

荻野には新宿と呼ばれる界隈が在り、嘗ては宿場町として栄えたとのことである。また明治初期は自由民権運動が盛んだったらしく、彼方此方に運動家の史跡が残っている。
山中陣屋の近くに公所と呼ばれる地名がある。恐らく陣屋があった名残りで在ろう。


如何やら、私はその公所と呼ばれる辺りまで来て仕舞ったらしい。
其う云えば、尋常小学校のときからこの辺りでよく遊んだ覚えが在る。私は尋常小学校(五年生のときに国民学校へと名称が変更されたが)を卒業し、その後第三中学から東京の一高へ進み、更に大学は早稲田大学へと進んだ。現在は東京でしがない文筆業を営んで居る。本来は小説家を志して居るのだが、其れ丈では日頃の糧にも困る有様なので、カストリ雑誌へ寄稿して居る次第で在る。名前を抜内辰巳(ぬきうちたつみ)と云う。

其うだ、折角此の辺り迄来たのだ。彼奴のところへ顔を出して遣ろう。私はふと思った。公所には一軒の古惚けた呉服屋がある。「中禅寺呉服店」と書かれた煤けた看板が下がっているが、今にも擦り落ちそうだ。当然この時間なので呉服店は閉まって居たが裏の母屋の方へ廻ると、煌々と灯りが照らされている離れが在った。


「よぅっ、漂漉堂(ひょうろくどう)。」
私は、灯りの向こうで揺らめいて居る影の主に声を掛けた。
すると、影の主はゆっくりと落ち着いた声で私に返答した。
「其の声は、抜内君だな。相変わらず騒々しい男だ」
「久し振りに実家に戻ったのでね。君の顔を見ながら一杯遣りたくなった」
私は云いながら、図々しくも既に草履を脱いで座敷に上がって居る。
「人を酒の肴みたいに扱う男だね君は。如何れ、昨日買って来たどぶろくが在る。遣るかい」
「どぶろく? 拙いよ、お上に知られたらコトだぜ」
私は、漂漉堂が勧めてきた薄汚い座布団に座り込んだ。
「君のような三流文筆家が、酒税法違反により官憲に捕縛されたところで如何だと云うんだ。寧ろ、今時分流行りのデカダンなイメィジの箔が付いて、洒落て居るじゃないか」
私は、手を軽く振りながら、「云ってくれるね」と返した。

そして、改めてゆっくりと周りを見渡した。
相変わらず、蟻の這い出る隙間のない位の蔵書の山だ。大学の図書館にも匹敵すると云って良い。
古今東西のあらゆる分野に関する本が此処には在るが、歴史、哲学、宗教、民俗学に関する書籍が特に多い様に思う。

此の男の名前は、中禅寺淳一(ちゅうぜんじ・じゅんいち)。表通りに在った石井呉服店の跡取り息子だ。
此の男と私の付き合いは長い。尋常小学校から第三中学、一高まで一緒だった。然し、彼はその後東京大学へと進み、東大始まって以来の大秀才と云われ、当時の指導教授から是非研究職にと勧められて居たのだが、何を如何考えたのか、卒業した途端に田舎に引き込もり、家業の呉服店を手伝って居る。聞いたところに拠ると呉服店を営む傍らで神職の資格を取得し、気が向いたときに副業として近くの神社(名前は忘れたが)の神主をも務めて居るらしい。
中禅寺淳一と云う立派な名前が在るのだが、私は其うは呼ばない。中禅寺は、小学校の折から、骨と皮ばかりの男で ―― と云ってもあの時分の子供は皆一様に似た様なものだったが ―― ひょうろく玉と渾名されていたのだ。其れをもじって、三十路を過ぎた今でも私は彼のことを漂漉堂と、おそらく親しみを込めてだが、呼ぶ。

何はともあれ、二人
でどぶろくを飲むことに成った。

 

寿留女の夏  続く






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最終更新日  2008年06月18日 00時30分50秒
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